おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

ナス、芋を焼く

2023-05-31 13:03:50 | 日記
 昨日からずっと土砂降りになった。外出できないので、朝からやることがない。う〜ん、退屈だ。とりあえず午前中いっぱい習字の練習に励んだが、あとは予定が何もない。さて、どうしよう。

 と、思案していたら、急にバーベキューをすることを思いついた。というか、古い炭が残っているのを発見し、まだ使えるならそのうちバーベキューでもすればいいかと考えていたのである。

 もっともバーベキューをするために食材を用意しているわけではないので、とりあえず焼けそうなものを探してみる。結果、サツマイモと長ナス、ウインナーがあったので、これを焼くことにする。サツマイモをよく洗い、アルミホイルで包んで炭の中へ。長ナスは網の上へ。今日のバーベキューはこのくらいだ。

 雨がショボショボ降っている中、火の番をしながら缶ビール片手に山頭火の本を読む。サツマイモが焼けるのは30分以上かかるだろうし、長ナスだってそう簡単に焼けるものではない。ウインナーをカリカリに焼いて、油が滴って来た頃を見計らって頬ぼる。熱々なのですかさずビールを飲む。

 雨の降る音を聞きながら、屋根の上のホオジロのさえずりに耳を傾ける。こういう時にはあちこちを歩き回って句作した山頭火の本が実にしっくり来る。「醉うてこおろぎと寝ていたよ」「あの雲が落とした雨に濡れている」「山のしづかさへしづかなる雨」

 ああ、いいなあ。晴れの日もよろし雨の日もまたよろし、などとまったりしていたら、アルミホイルに包んでいたサツマイモが、ほとんど炭になりかけていた。食べられるところが、6割くらいしかなくなっているではないか。
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ついに梅雨入り

2023-05-30 11:34:56 | 日記
 昨日、九州北部がいよいよ梅雨入りした。例年より一週間ほど早い梅雨入りだ。僕の九州滞在も半分を消化し、今までは予定していた雑用も順調にこなしてきたが、これからはそうは行かなくなりそうだ。伸びていた庭木を切り、伸びていた芝生の剪定をしたが、あと1日か2日で終わるというところで、梅雨入りとなった。

 昨日から激しい雨が降っているので、外での仕事がまるでできない。それだけでなく、足が自転車しかないので、買い物も雨脚が弱くなったときを狙って慌てて外出する。定期的に出かけていたランニングも、今後は天気予報とにらめっこで計画を立てないとならない。せめて4、5日に一回は走ってきたいものだ。

 さて、雨に閉じ込められるとなると、これからはインドアの生活が始まる。網戸の張替えは終わったが、家の中の大掃除はこれからだ。持ってきた本も全部は読み終えていないし、300枚用意しておいた半紙もあと100枚ほどあるので、もう少し習字の練習に打ち込むこともできそうだ。

 ああ、梅雨はうっとうしいなあと思いながら、このあと福島に戻っても、梅雨が追いかけてくることになるのに気づいた。結局のところ、梅雨に向かって移動し、梅雨前線の北上にあわせて僕も北上することになるのではなかろうか。これでは誰よりも長く梅雨の真っ只中で暮らすことになるではないか。

 冬は日照時間が短くて大嫌いだが、梅雨も日照時間が短いということでは同じように大嫌いだ。せめてカエルの声だとか、ホタルの光だとかで、季節を楽しむくらいしか梅雨を乗り切る方法はなさそうだ。
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神も仏もいなくなる

2023-05-29 10:53:39 | 日記
 近頃、理解できないような殺人事件が多い。そのたびに、いくら法律を作ったところで、それを順守する気がなければ、まるで役に立たないということを実感する。

 先日、農業体験で子供たちを受けている僕のお師匠さんの家で夜遅くまでおしゃべりしたときに、教育の話になった。そこで改めて日本人に特有の教育ということについて考えたのだが、キリスト教やイスラム教などの一神教の世界では、親は子供に「あなたは正しいことをしたと神様に誓えますか」と教えるのが普通だ。それに引き換え、日本では多くの親が「そんなことをして人様に恥ずかしくないのか」とか「世間様に顔向けできないようなことはしていないか」と教える。

 簡単に言ってしまえば、西洋では他人がどう思おうと、自分が正しいことをしているかどうかが問題になる。日本では、世間や周囲の人間の目が行動の規範になる。コロナウイルスでのマスク騒動を見れば、一目瞭然だ。

 で、自分を見ているのが神様ではなく周囲の目ということになると、どういう考え方になるかというと、悪いことをしていながら「どこにやってはいけないという規則が書いてあるのか」と屁理屈を言うことになる。たとえ規則があったとしても、他人が見てなければやっても恥ずかしいことではない、ということになる。最後にはバレなければいい、というヤツまで出てくる。

 が、よくよく考えれば、良いことか悪いことかを考えるのに、一神教も汎神教もないのであって、昔の日本は悪いことをすれば「バチが当たった」のである。親は子供に、「そんなことをするとバチが当たる」と言っていた。これで十分だったのである。

 戦後、民主主義教育を唱いながら、「バチが当たる」などというのは迷信のたぐいだということになってしまった。迷信だから、何をやってもバチは当たらない。一神教の世界でも、「神様はいるのかいないのか」ということに迷い始めれば、神様に誓うことはできなくなる違いない。

 たとえどんなに迷信のたぐいだろうと、魑魅魍魎のたぐいだろうと、「神様が見ている」「悪いことをするとバチが当たる」という昔の人の知恵を忘れては、この世は神も仏もいない残酷な世界になってしまうだろう。
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空爆を受けたみたい

2023-05-28 13:01:37 | 日記
 天気予報では明日から崩れるようなことを言っているので、今日はぜひとも走ってこようと、朝から雑用に忙しい。朝飯前に庭の芝刈りをし、朝食後はボロボロになっている網戸の張替えだ。午前9時過ぎにはなんとか仕事もひと段落したので、ランニングウエアに着替え、すぐに出発する。

 黄金色だった大地は、ほとんど麦刈りを終え、今日はあちこちで一斉に野焼きをしている。パリパリに乾燥した麦は細かく裁断され、野焼きされたあとは肥料として鋤き込まれ、田んぼに変身する。

 車の通りの少ない農道を選んで走っているのだが、今日に限っては野焼きの煙が充満し、どこに行っても焦げ臭い。



 田園地帯のあちこちからモクモクと大量に立ち上る煙に、まるで戦地を駆け抜けている気になる。まるで爆撃を受けているようではないか。おまけに、今日に限って消防車だかパトカーだかのサイレンが、ひっきりなしに聞こえてくる。野焼きが延焼しているのか、野焼きをしている人が火傷をしたのか、そんなところだろう。

 と、地域の防災無線で、すぐ近くで建物火災発生とアナウンスが流れ始めた。



 どこだどこだ。それらしい煙はあちこちに立ち上っている。サイレンの音を頼りに走っていくと、道路の向こうにパトカーのランプが見えた。消防車も来ているようだ。近づいていくと、たしかにほかより煙の量が多い場所がある。きっと、野焼きが倉庫か納屋に飛び火したのだろう。



 今日はあちこちで爆撃があったみたいなんて言っていたが、本当に家が燃えてしまったのでは、空爆されたのと同じなのである。
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絶滅危惧人種

2023-05-27 11:26:06 | 日記
 かつて一緒に仕事をした僕の彫刻のお師匠さんに、十数年ぶりに会った。きっかけはまったくの偶然で、たまたまお師匠さんが奥さんにスマホで電話しようとしたら、住所録でひとつ隣にあった僕の番号を押してしまったからである。「お久しぶりです。今、大分にいます」という話から、一緒に昼飯でもどう、ということになって車で迎えに来た。

 昼飯を食い、このあとどうするということになり、最近始めたという農泊の家を見においでと、誘われるまま連れて行ってもらった。

 農泊というのは、農業体験をしながら宿泊できる民宿のことで、グリーンツーリズムに登録しておくと、中学校の体験学習などで、数人ずつ振り分けられてくる、という話であった。一般の人も泊まれるし、誰もいないときでも、友人知人が遊びに来るということで、地域の拠点にもなっていた。



 もともとお師匠さんは造園業社で、チェーンソーアートをやっていて、そこで一緒にやらないかと誘われた縁で、プライベートでもときどき話をする仲になった。とにかく何にでも興味を持つ人で、彫刻だけではなく、絵を描くし、音楽もやる。そもそも仕事は花づくりをする農家で、ビニールハウスも自分で作る。家も自分でリフォームする。電気工事もする。何でも手作りで、挙句の果てには何かを作るために必要な道具まで手作りする。

 農泊の家に置かれていた楽器も手作りだ。子供たちがやって来ると、いろいろ指導してものづくりの楽しさも教える。今どき、ここまで何もかも自分でやってしまうという人は珍しい。そういうわけで、僕は昔からずっと「絶滅危惧人種」と呼んでいる。昔はこういうふうに、何でも自分でこなす人というのは多かったからだ。

 さて、その活動は個人を超え、影絵劇団を作り、リコーダー(縦笛)クラブも主宰する。頼まれればイベントで披露する。そんなこんなで、とにかく数十年の活動を喋るので、お昼から真夜中まで話し続けだった。奥さん曰く、「田舎にはそういう話を聞いてくれる人が少ないから、よっぽど溜まってたのね」なんだそうだ。

 ちなみに農泊の屋号は「SANKIRAI」とアルファベットで表記していた。「さんきらいって何ですか」「植物の名前だよ」。調べてみると、蔓性の植物「山帰来」とある。蔓と棘だらけなので、猿も引っかかることから、和名では「猿取りイバラ」と言うらしい。
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いろいろもらっても

2023-05-26 11:30:29 | 日記
 昨日一日、大分県を北から南まで走り回った。レンタカー代が24時間で5,500円、それに保険が500円。プラスガソリン代と高速道路の料金。しめて1万円強かかった。果たして高いのか、安いのか。

 その代わり、あちこち知り合いの家を回ったので、そのたびにいろんなものを、「福島に持って帰って」ともらった。椎茸を作ってるところから干し椎茸をでっかいポリ袋ふたつ。別の場所からはビワと玉ねぎと福島へのお土産用とお菓子がふたつ。そのうちのひとつは生菓子で、賞味期限が5月いっぱいだ。5月中は大分にいるつもりなので、さてこれはどうしよう。近々大分にいたときの彫刻のお師匠が、懐かしいから会おうと言ってきているので、福島のお土産がないのでそれでも渡そうか。

 で、家に帰れば隣の家の人から、タケノコをたくさんもらったからとおすそわけだ。が、皮付きのままなので、アク抜きをしなければならない。本来なら米ぬかを使ってアク抜きするのだが、そんなものはないので、ビールを買ってくるついでに食用の重曹を買ってきた。ネットで調べると、簡単なアク抜き方法と出ていたので、早速やってみることにしたが、大体簡単にできるというのは、できないことのほうが多い。

 ちなみにタケノコのアク抜きには、アクで炊くときに唐辛子も入れるといいとあった。そのほうがアクが抜けるそうだとあるが、真偽のほどはわからないと説明してあった。おいおい、そんなあやふやなことを載せるなよ。

 とツッコミながらも、とりあえず鷹の爪をいれてみるアベさんなのであった。
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久々レンタカー

2023-05-25 07:52:43 | 日記
 僕の場合、レンタカーを借りて乗るという機会はほとんどなく、思い返してみると、今までに4、5回くらいしかない。ほとんどが自分の車しか乗らず、ごくごくたまに家族や知人の車を貸してもらうということはある。あとは車検や点検に出したときの代車くらいだろうか。

 大分に来て、毎日ママチャリを足として利用しているが、どうしても遠出しなければならない用事が2件あり、仕方なくレンタカーを予約した。電車やバスで行けるような場所ではなく、タクシーではバカ高い値段になる。とりあえず一日だけなので、24時間借りる予定で連絡した。普段、ホンダ車を利用しているので、ホンダの軽自動車でどんなのが用意できるか聞いてみると、Nワゴンなら貸し出せます、とのこと。それなら、車検の代車として使ったことがあるので、頼むことにした。

 24時間で5,500円とのこと。安いと言えば安いが、これにガソリン代や高速道路の料金もかかるので、1万円は超えそうだ。なんたって、今日一日で大分県の北の端から南の端まで、あちこち寄りながら走らなければならない。

「そんなに走るのに、軽自動車じゃないほうがいいんじゃないか」と言う人もいるが、福島と大分の間を、多いときで年に6回軽自動車で行き来していたのだ。大分県内だけなら、軽自動車でじゅうぶんだ。世の中には、会社とコンビニくらいしか行かないくせに、でっかい高級車と言われる車を乗っている人もいる。が、全国を旅した経験で言えば、初めての場所に行くのに、軽自動車ほど便利なものはない。漁町や城下町、山村なんかに行くと、軽トラックでなければ走れないような道路はたくさんある。そんなところにでっかいファミリーカーで出かけ、四苦八苦している人たちを僕は何度も目撃している。

 ステイタスで大きい車に乗るのはいいが、そのためにかかるストレスも比例して大きくなることを知っておいたほうがいい。
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成金根性

2023-05-24 11:31:10 | 日記
 成金という言葉をいい意味で使う人はあまりいないだろう。金は持っているが、なにかにつけて威張り散らしたり、高圧的だったり、周囲の人間を小馬鹿にしたりと、嫌なヤツだというふうに見られる。で、そういう人の性格のことを成金根性と言ったりする。要はお金がなかったときの裏返しであり、大金を手にしたせいで、天下を取った気にでもなるに違いない。

 それに反して、昔からの大金持ちの家なんかは、案外質素で慎ましく、性格的にもしゃしゃり出てきたり、周囲の人間を下に見たりはしないような気がする。もっとも、そういう謙虚な人だから、金持ちになったのかもしれないが。

 で、なんでこういうことを書いているかというと、人間という種族が、この地球上での成金に見えるとふと感じたからだ。「人間は進化の頂点に立っている」だとか、「道具を使うのは人間だけ」だとか、「人間が生み出したのは人間だけ」だとか、そういう言葉を耳にするたびには、「本当かなあ」と疑ってしまうからである。

 進化の頂点ということに関していえば、この地球上では植物である。そして次が昆虫になるだろう。人間がのさばり始めたのは、地球の歴史から見ればつい最近のことであり、まるでバブルで一儲けした成金みたいなものだ。

 限られた資源や環境の中で、生命のあふれる地球が存在しているということは、まさに神様が作ったとでも言わない限り、不可能に近いように感じる。そのくらい繊細で微妙なバランスの上に、地球というシステムは運用されている。生き物たちは、決して地球を滅ばさないように、慎重に暮らしている。バランスが傾けば、即座に元へ戻ろうとする力が働く。

 ところがである。そんな奥ゆかしく譲り合って暮らしている生物の世界にあって、人間だけがずうずうしく、うぬぼれて、好き勝手に暮らしているように見える。挙句の果てに、自分たちが地球上の頂点に君臨し、すべての環境、生物たちは人間のために存在しているかのように見下している。

 生物界から見れば、人間なんて「あいつら成金でどうしようのないな」というふうに見えているんじゃないか、という気になってしまう。
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正常性バイアス

2023-05-23 12:50:25 | 日記
 このところG7のニュースで持ちきりだった。ウクライナから突然ゼレンスキー大統領がやって来たり、G7に出席した代表が広島の原爆記念館を見学したりして、広島サミットにかけていた岸田さんの支持率はずいぶん持ち直した。とは言え、それで世界が平和になるわけでも、ロシアがウクライナを撤退するわけでもない。情勢はちっとも変わらないのである。

 と、他人事のようにニュースを見ながら、別のニュースについてはもっとやばいかも、と思わざるを得ない。伊豆諸島で震度5弱の地震が発生し、一日の間に43回も揺れを観測したという。そうでなくても最近は日本のあちこちで地震が頻発していることもあり、もしかしたらいよいよ南海トラフ地震の前触れなんじゃないかと心配だ。

 そもそも起きるか起きないか、人間の努力次第でなんとかなる戦争と違って、地震だけは人智を超えている。おまけに周期的に起こる地球規模の自然現象でもあるので、「起きない」と考えるほうがどうかしている。

 が、どんなに目の前に危機が迫っても、それに対する備えに腰が重いのが人間だ。そういった人間の特性を、心理学上では「正常性バイアス」と呼ぶ。「自分にとって都合の悪い情報を無視したり過小評価したりするという認知の特性のこと」とウイキペディアにある。簡単に言えば、見ないことにする、ということだ。「前例がない」「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」と考え、とりあえずまずいことは後回しにしてしまう。

 そもそも、どうしてこんないい加減な性質が人間に備わったかというと、毎日の生活の中で、新しいこと、予期せぬことに接したとき、過剰に反応して疲れてしまわないように、ある程度の限界までは、正常の範囲として処理するんだという。

 が、問題は、「ある程度の限界まで」という部分だ。そのある程度が、一歩手前ならいいが、大概の場合一歩遅いから、大事件、大災害になってしまう。そんなことにならないためにも、ここはぜひとも人工知能を活用し、正常性バイアス抜きの判断を下せるシステムを作っておいてもらいたい。
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お宮参りランニング

2023-05-22 11:42:00 | 旅行
 今日は一年前もお参りした宇佐神宮までランニングすることにした。距離にしたら片道8キロほどだから、ランニングの目安にしている20キロには足りないが、広い神宮の境内は走るわけには行かないから、時間的にはけっこうかかってしまうのだ。

 というわけで、麦刈り真っ最中の黄金色の土地を横断し、宇佐神宮の参道に到着する。



 参道なのに観光客の姿が見えないのは、大駐車場が全然別のところにあるため、観光客は参道は歩かず、いきなり宇佐神宮内へと入っていく。地方の観光と言うことに関しては、地元にあまりお金が落ちないので、大駐車場の位置は大失敗と言えるかもしれない。

 ランニングの僕は、参道を走るのを避け、神宮内を流れる寄藻川の土手を走って境内へと入っていく。



 写真の赤い橋は呉橋という文化財(多分)だが、ここを一般人は渡ることはできない。



 で、スタスタを階段を駆け上がり、本堂の前に出る。持参してきたお賽銭をあげお参りしていると、隣でお参りしていた観光客が、「あれ、ここは二礼二拍手じゃなくて、四拍手なんだって」とビックリしている。「ホホホ、そうなんじゃよ。ここは全国でも出雲大社とここだけという四拍手なんじゃ」と、心の中で教えてあげる。

 四拍手なんて縁起の悪い数字が、出雲大社と宇佐神宮だけというのは共通点が必ずあるはずである。ちなみに出雲大社はアマテラス大御神によって滅ぼされた古来から日本にいたオオクニヌシが祀られている。となると、宇佐神宮もオオクニヌシ並の征服された大物が祀られているということになる。ところが、宇佐神宮に3つある神殿の中央に祀られているのは、ヒメオオカミという正体のわからない女神ということになっている。

 これをもって卑弥呼のホントの名前なんじゃないかという人もいる。なぜなら、卑弥呼というのは、日巫女あるいは日御子という役職目に違いないからで、本名は別にあるはずだからだ。

 といううんちくを心のなかで説明し、僕は神殿をあとにする。



 鎮守の森を抜けると、朱色の橋が見えてくる。あれを渡ると、再び僕は娑婆に戻ることになる。

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