一昨日新型コロナウイルスの2回目のワクチン接種に行った。世間で広く言われているのは、1回目より2回目のほうが強く副反応が出やすいということだ。僕の場合、1回目のワクチン接種では、翌日になって注射を打った左肩の下の二の腕の部分を、誰かにグーでゴツンとやられたような鈍い痛みが起きた。しかしながら、その痛みも翌日いっぱいで引き、二日後にはまったく影響を感じられなかった。
今回の2回目の接種も、同じように翌日になり二の腕の筋肉に鈍い痛みがあった。ただし今回は同じ痛みでも、痛みの範囲が少し広く、肩を中心にして周囲がぼんやりと痛む。もっとも、このくらいなら1回目より強く出たと言ってもタカが知れていると安心していた。
ところが接種から二日、今日になって左の脇の下の柔らかい部分が腫れ上がっている。痛みはそれほどではないが、ソフトボールくらいの大きさの腫れがあり、触るとブヨブヨしている。服を着ていても、なんだか脇の下に変なものが挟まっているようでなんとも気持ちが悪い。これも注射による副反応なのだろうか。
副反応が出ていることに敏感になったのか、朝から頭も重たいような気がする。もしかしたら布団も被らず寝ていたから寝冷えしただけかもしれないが、これも副反応かもしれないと疑っている。そういえば、腰もなんとなく重たい気がする。もっと言えば、今日は何にもしたくない気もする。注射の副反応に倦怠感というのもあったから、それかもしれない。そう言えば、肩こりもするからこれも副反応の恐れがある。
などと思っているうちに、すっかり頭の先から爪先まで点検する自分に気づいた。こうなって来ると、調子の悪いところはすべて副反応だ。虫歯の痛みだって副反応だと言いかねない。
高熱が出たとか、発疹が出たとか、目に見える症状なら副反応と言えるだろうが、痛みだとか気分だとか言うのは、主観が大きく作用するから、世間で言われている副反応にはずいぶん怪しげなものも混ざっているんだろうなと、改めて思うのだ。
さて、僕たちはその時の気分というものに支配されがちである。その気分がどこからやって来るのか、その正体はいくら考えようと判断がつかないものだ。僕の好きな哲学者のアランの「微笑み」という文章の中に、こんな一節がある。「気分にさからうことは、判断力のなすことではない。ここではなんの役にも立たない」。僕らは自分の気分に対しては、何ひとつ判断を下すことができないのである。
気分に対して判断を下すことはできないが、「わたしたちの身体のうちで、運動を伝える筋肉だけが、わたしたちが統御しうる唯一の部分だ」とアランは言う。「微笑したり、肩をすくめたりすることは、心配事を追いはらう策としてよく知られている。それに、いともたやすいこの運動がたちまち内蔵の血液循環に変化を与えることに注意するがいい。人は意のままに伸びをしたり、あくびをしたりすることができる」
いらしらしている人は、わざとあくびをしたり伸びをしたりという無頓着な態度を真似してみることなど思いもつかない。不眠に悩む人は、眠るふりをすることなどバカにしてやらないだろう。新型コロナウイルスの副反応を恐れて、注射に二の足を踏む人もいるというが、無頓着でいることが、時には平和でノンキな暮らしを送る知恵だとも言えるのである。