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おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

疫病退散

2020-07-31 10:22:41 | 日記

 焼き物をしている人から、新型コロナウイルスを撃退するようなキャラクターを作りたいという話があった。そういうものがあれば欲しいという人がいるので、焼き物で作ってみようと考えているのだが、どういうものを作ればいいかわからないので、アイデアが欲しいと言う。

 疫病退散のキャラクターと言えば、すでに妖怪アマビエが有名で、新年早々からやたらに露出しているが、どうやらこの存在を知らなかったらしい。日本人は昔から、都合のいい神様やら妖怪やらを、いくらでも考え出してきたのである。今更オリジナルキャラクターを考える必要がないくらい、探せば出てくるのである。

 大体、オリジナルの疫病退散のキャラクターだと主張しても、みんながそうだと思わなければ意味がない。自分で考えましたでは、世間では通用しないのである。と、いくら説明してもわかってもらえないので、とりあえずひとつだけアイデアを授けることにしようと思っている。アマビエをちょっと変えるくらいしか、今更やりようがない。

 とりあえず考えたのが、新型コロナをぶっ飛ばしそうなこんなキャラクター。おお、強そうだ。

 ところで、日本人なら疫病退散を妖怪に頼るということもあるが、キリスト教やらイスラム教ではまた違ってくるだろう。

 今読んでいる阿刀田高さんの「旧約聖書を知っていますか」を読んでいたら、昔若者の間で流行した哲学の「実存主義」について書いてあった。サルトルやらボーヴォワールやら、昔の大学生は訳も分からず心酔していたそうで、僕も成人してから、有名だから読んでおいたほうがいいかなくらいの気持ちで読んだことがある。結局なんのことかさっぱり分からなかったのだが。

 実存主義が現れるまでの世界というのは、人間でも動物でも植物でも、物体には存在するためには定義あるいは本質があり、その後実体が現れると解釈していた。が、実存主義は定義に関係なく実体はあると言う。まさになんのこっちゃなのだが、阿刀田さんは簡単明快に説明してくれている。

 例えば、エンピツというものを考えた時、人間が字を書くための道具としての定義、あるいは本質があり、その後でエンピツという実体が存在しているという。つまり、エンピツがこの世に存在しても、人間がいなければ無意味だし、そもそもエンピツは誕生していないだろうというのだ。が、それを実存主義は、エンピツが字を書くための道具でなくてもよろしい、と言ったのである。これが西洋社会では、ビックリ仰天の思想だったのである。

 阿刀田さんは続ける。西洋人はどうして実存主義の考え方にビックリ仰天したか。それは人間を神、エンピツを人間に置き換えれば、キリスト教やイスラム教を信仰している人たちの気持ちが理解できる。人間がいなければエンピツが役に立たない無用の長物なのと同様、西洋人にとって、神がいなければ人間はこの世にいる意味を失うのである。「神がいないのに、どうして生きていけるのか」という疑問は、日本人はほとんど持っていないだろう。

 日本人は生まれながらに実存主義者なのかもしれない。人間は神様が作ったのか、何か目的があって誕生したのか、というようなことはあまり重要ではない。その代わり、白紙状態の人間がこの世でどう生きていくのが意味のある生き方なのか、そしてそれは本人が決めて行くことだと思っているのが日本人の信仰なのである。

 というわけで、新型コロナウイルスも、神様がなんらかの考えがあって流行させているのだろうと考える人たちには、妖怪に疫病退散を任せようというような発想は生まれないのである、と書いて、話はこのブログの最初に戻る。

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まさかの痕跡

2020-07-30 11:31:56 | 日記

 去年の年末に、大昔に治療していた歯の詰め物が取れてしまったので、年明け早々から歯医者に通うことにした。詰め物だけでなく、あちこち悪いところが多いので、この際だからと保険の効く範囲で全部治療してもらうことにした。まだまだ総入れ歯なんてことになりたくないアベさんなのである。

 で、7月も終わろうとしている現在も、月に2回くらいの割合で出かけている。もっと集中的にやってくれればとっくに終わっているだろうと思うが、あまり集中されても金がかかりすぎて払えなくなりそうだ。歯医者も治療は済んだのに、治療費を取りっぱぐれるなんてことにならないように、わざと間隔をあけているのかもしれない。

 それでも、半年以上通ったおかげで、ほとんど治療も終わりに近づいた。今日は上の左っ側を治療予定で出かけ、早速歯茎に麻酔を打って治療が始まったが、突然歯医者さんが「歯茎から骨が出ています」とびっくりしている。僕に手鏡を渡し見るように促すと、心当たりはないかと尋ねて来る。

「一年前くらいから白い突起が歯茎から出ているのは気づいてましたが、今日見たほどじゃなかったです」と返事をすると、歯医者さんはもう一度レントゲンを撮らないといけませんねと、治療は中断してしまった。

 レントゲンを撮り現像を待つ間、なんとなく原因に違いないだろうということを思い出した。レントゲン写真を見せながら、歯医者さんは「歯が奥に引っ込んで、その代わり根っこの部分が外れてて前に倒れているんです。これでは予定の治療を変更しなければなりませんので、もう一度検討しましょう」と言う。

「多分なんですけど、8年ほど前に、以前飼っていた大型犬を散歩させているときに、急に引っ張られて顔を木にぶつけたことがあるんです。唇をずいぶん切ったんですけど、その時の傷が今でも残っているんです」

 歯医者さんは納得した様子で、「医者には行きましたか」と聞いてくるので、「ずいぶん腫れましたけど、医者には行ってません」と答えた。結局、その歯は使い物にならないから、抜いたほうがいいかもしれないということで、治療は1ヶ月後に延期となった。

 というわけで、思いがけず今頃になってドリとの散歩の痕跡が出現し、ビックリするやら、今となっては懐かしいやらである。あの時はまだドリと出会って時間が経っていない頃で、ドリは僕を試そうと、隙を見て猛ダッシュで走り出した。僕はリードをしっかり握っていたのだが、そのまま顔面から梅の木に衝突し、しばらくその場でもんどり打ってヒーヒー言っていたのだ。歯が当たったせいで、口の外も中も切れ、出血もかなりあった。痛みはそのうち引いてくれたが、まさか歯が根元から外れ、曲がっていたとは。今になって判明したが、歯の根元の先端部分が、歯茎から飛び出すほどの衝撃だったのである。

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大葉とシソ

2020-07-29 11:09:52 | 日記

 Yahoo!ニュースに、「大葉と紫蘇って何が違うの」という記事が出ていた。「そうそう」と思わずその記事の見出しをクリックした。ずっと長い間、何が違うのか気になっていたからだ。子供の頃は緑の葉っぱも赤い葉っぱもシソと呼んでいた気がするが、いつの頃からか緑色の葉っぱを大葉、紫色の葉っぱをシソと呼ぶようになっていた。ただ単に、色によって分けているのかと思ったが、もしかしたらそもそも植物の種類からして違うのか、とさまざまな疑問が浮かぶ。こういう時に、しっかり確認しておけば、これから恥をかかなくて済むのだ。

 で、記事によると、結論は大葉も紫蘇も同じものだとある。というよりも、紫蘇がそもそもあって、葉っぱや芽や実を利用してきたのだが、紫蘇だけではどの部分を利用するのかがわからない。そこで葉っぱを使う時だけ葉っぱとわかるように大葉と言うようになったらしい。

 が、待てよ、と新たな疑問が湧いて来る。スーパーで「大葉」として売っているのは、緑色をした葉っぱばかりである。「大葉」と表記して紫色をした葉っぱの束を売っているのは見たことがない。梅干しをつける時には、紫の葉っぱを使うが、これは大葉とは呼ばず、紫蘇とか赤紫蘇と呼ぶのが普通だ。となると、大葉と言うのは、紫蘇の葉っぱの部分でも、青紫蘇の緑のものだけをそう呼んでいるということになる。ちなみに大葉と紫蘇の区別は東北では区別する割合が低くなり、関西ではきっちり区別する傾向があるという。

 確かに梅干しを赤くするには緑のものではダメだし、刺身のつまなどに使う時には、香りが強く色が染まらない緑の葉っぱが好まれたのだろう。

 紫蘇の香りには、強い防腐・殺菌作用を持つほか、食欲増進や健胃作用もあり、活性酸素を抑えて生活習慣病を予防するという。夏になると食欲不振になりやすいという人は、単に刺身のつまや薬味としてだけでなく、天ぷらやサラダなど積極的に取り入れて、夏バテしないようにしましょう、と記事は締めくくってあった。我が家の大葉の定番メニューは、大葉とトマトを使ったパスタと、ひき肉、白菜、たっぷりの大葉を入れた餃子だ。夏はこれが抜群にうまい。

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思い出の品

2020-07-28 09:56:36 | 福島

 ジャガイモの収穫をしたので、1日でも早く野菜の収納庫を作りたいと焦っていた。連日の雨続きに、いつまでもその辺に転がしておくこともできないからだ。現に、早くも腐り始めているジャガイモも出てきている。

 で、この前から作りかけていた収納庫を、とりあえず昨日完成させた。扉をつけようと思っていたのだが、意外と費用がかさみそうなのと、通気性が悪くなってしまいそうなので、しばらくは遮光ネットを利用することにした。

 ドリが使っていた横長の巨大犬小屋の屋根を切り取り、それを縦にして、切断した屋根を上に乗せた。

 ここに今度はコンテナが入るように棚を作ったのだが、普通の棚だと通気性が悪いので、両端から腕のように棚を伸ばし、中央は風が通るようにする。

 で、最後に遮光ネットを折りたたんで取り付けてみた。果たしてこれでうまく行くのやら。

 トト小屋のほうの利用は今のところ考えていないが、とりあえず肥料や花壇の土の袋でも入れておこうかと思っている。

 かつては犬たちと大きな犬小屋で占拠されていた我が家の中庭も、最近は時々テオが昼寝をしているくらいで、静かなものだ。

 ともかく、野菜の収納庫を見るたび、しばらくはドリやトトのことを思い出すだろう。

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白河の関

2020-07-27 08:09:33 | 福島

 オリンピックのための連休は、テオと始めての山登りに出かけようと考えていた。犬を連れて行くとなると、どうしても行ける山は限られる。そこで候補として会津駒ケ岳を挙げ、テント泊をして二日がかりで出かけるつもりでいた。が、新型コロナと、長引く梅雨のため計画は断念した。

 で、検討した結果、白河の関までドライブしてくることにした。さすがに県外に車で出かけるのは、時節柄はばかられる。白河の関なら栃木県との県境に当たり、県をまたぐドライブにはならないのだ。

 白河の関は福島に来てすぐに行ってみた。芭蕉さんの奥の細道ゆかりの場所はあちこち訪れていたので、そのひとつとして見ておきたかった。その時はトトと一緒だったが、今度はテオと一緒だ。

 のんびり一般道を2時間近くかけて白河市まで行く。以前来た時には白河の関だけ見てすぐに移動したので、今回はゆっくりするつもりで、市街地にある南湖公園に立ち寄った。ここは白河市のホームページによれば、「寛政の改革で知られる名君・松平定信によって1801年に築造された日本最古といわれる公園です。定信は身分の差を越え誰もが憩える「士民共楽」という理念を掲げ、塀がなく、いつでも誰もが訪れることのできる地を造りました」とある。

 朝から小雨が降っていたが、池の周囲を歩き出すと幸いにも雨が上がった。

 途中、旅行気分を盛り上げるため、売店でわらび餅入りのアイスクリームを買って食べ、ブラブラして1時間ほどで池の周りをグルっと歩く。

 腹が減ったので、じゃあ次は白河ラーメンでもということになったが、ちょうどお昼時で混んでいそうだったので、白河の関に先に行くことにする。

 白河の関は、昔の関所の跡で、行ったところで目を見張るようなものがあるというわけではない。昔の人は江戸を旅立ち、白河の関まで来ると、ここを境に「みちのく」へ踏み入ったわけで、東北の入り口として特別な場所だったのである。

 白河の関が現役だったのは、奈良から平安時代の頃だという。その頃、都の文化人たちにとって、みちのくは憧れの土地でもあり、関所としての機能を失っても、西行さんなどは和歌の名所として白河の関を目指したのだ。芭蕉さんは、西行さんなど昔の歌人の足跡を追って、奥の細道の旅に出たのである。

 涼しい木立の間をテオを連れてブラブラすると、いよいよ白河ラーメンを目指す。最近は旅行に行くと、なぜだかご当地ラーメンを食べてみるというのが当たり前のようになりつつある。茨城県の鉾田市で食べたしじみラーメンは、しじみのスープがシンプルであっさりしていた。飯坂温泉で食べた飯坂ラーメンは、普通だなと思ったが、食べてる途中で観光客が、「ここのラーメンを目指して来ました」と言いながら入って来たので、味覚は人それぞれ、当てにならないのである。

 白河ラーメンは想像していたコテコテではなく、あっさりしたスープで、麺がものすごく縮れていて、麺をすするというような食べ方はできなかった。うまいかどうかは人それぞれなので、感想は書かない。

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降ったり止んだり

2020-07-25 11:20:31 | 福島

 朝からザブザブと雨が降っていたので、今日はケンくんとのボール投げはお預けだ。テオにレインコートを着せて、いつもより短い散歩に出ると、ケンくんが家の中からこちらを見つけて、サッシの向こうでワンワン吠えている。あんまり吠えてると、叱られるぞ。

 今日の午前中は、家庭菜園の周囲の草刈りを予定していたので、この雨では中止せざるを得ない。この後も大雨の予報が出ているので、今日できないとなると厳しい。あっという間に伸びた雑草に囲まれ、我が家の畑は少し離れたところからだと、どこにあるのかわからなくなりつつある。

 草刈りが中止となると、その空いた時間をどうするか。ジャガイモの保管庫を作る予定なので、材料となる木材を買いにホームセンターに出かけることにする。保管庫の箱そのものはドリ小屋を利用するので、実際に作るのは棚の部分と扉くらいだ。ホームセンターには開店時間ぴったりに到着すると、店の前では開店を待つ人たちがかなりの人数集まっている。マスクをしている人が多いが、以前に比べるとマスクなしで来ている人も結構見かける。なかなか収束しない新型コロナウイルスの恐怖に、だんだん麻痺してきているのだろう。政府には、Go To トラベルキャンペーンもいいが、Go To 検査キャンペーンも実施してもらいたい。

 木材を物色していると、雨が止んだようで、店の外が明るくなってきている。このまま午前中いっぱいもってくれれば、草刈りもできそうな気配だ。そう思うと、材料選びもそこそこに買い物を済ますと、一目散に家に帰る。その足で長靴と手袋、草刈り機を車に乗せて畑に向かう。

 1時間半ほど草刈り機で畑の周囲をきれいにし終える頃、再びポツポツと大粒の雨が落ちてきた。どうやらギリギリ間に合ったようだ。草刈り機を片付け家に戻る頃には、かなりの本降りになった。それでもなんとか気になっていた草刈りを終えることができたので、ホッとしているところだ。天気予報では、東北の梅雨明けは8月にずれ込むらしいと言っていた。

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知らず知らずのうちに

2020-07-24 10:53:41 | 日記

 朝起きると、久々に青空が広がっていた。天気予報では午後から雨になり、週末はあまり天気が良くないようだが、今朝は梅雨明けを通り越して、なんだか秋の朝みたいに涼しい。早朝からヒグラシがカナカナカナカナと鳴いている。僕はこの声を聞くと、小さい頃にお盆になると山奥にある親父の里に連れていかれ、林の中にあるご先祖の墓参りをした時のことを思い出してしまう。思い出というのは、視覚でも聴覚でも嗅覚でも、ほんのちょっとした手がかりさえあれば、まざまざと蘇ってくることがある。

 普段ならいないケンくんが、祝日で仕事が休みという飼い主さんに連れて来られ、ボール投げをしていた。テオも早速一緒になって追いかけっこをする。雨の日には思う存分体を動かすこともできないので、全力で走り回って嬉しそうだ。

 ところで、この前買った北杜夫さんの「どくとるマンボウ昆虫記」を読み終え、文庫本の後ろにあるほかの本の紹介を見ていたら、阿刀田高さんの本が気になった。それは西洋美術や文学を知るには欠かせない聖書を、今更じっくり勉強するのも面倒なので、旧約、新約の入門書のようなものを書いたという。阿刀田高さんと言えば、ショートショートの名手くらいしか印象がなかったが、きっと切れ味の鋭い面白い文章で解説してくれるんだろうと、ネットで探してみた。と、中古本が数百円で売っていたので、旧約と新約の二冊を買い求めた。それでも送料込みで1000円くらいだったので、知識を得るには本はコストパフォーマンスがいいのだ。

 届いたのは「旧約聖書を知っていますか」と「新約聖書を知っていますか」の二冊。とりあえず旧約のほうを数ページ読んだだけなのだが、アブラハムやらイサクやらヤコブやら、知ってるような知らないような名前が出てくる。旧約といえば、ノアの方舟とかモーゼの十戒とかなら、映画でも見たことがある。乱暴な言い方をすれば、旧約はユダヤ教の聖書で、旧約と新約を合わせたものがキリスト教の聖書だ。

 日本の宗教には、この聖書にあたるものがない。イスラム教でもコーランというのがあるが、日本古来の神道についても、仏教についても、聖書のように体系だててまとめた書物はない。そのことから、日本人は日常的に聖書みたいなものに馴染んではいないので、どうしても無宗教だという思いがある。

 が、信仰というのは、紙に書かれたものを守るというようなわかりやすいものではなく、自分ではあまりに自明で当たり前だと思っているものが、実はほかの世界では通用しないというのが信仰であり、宗教なのである。

 例えば、お米は外国人にとっては野菜の一種だ。だから、ほかの野菜と一緒に煮たり炒めたりして、決して主食というような意識はない。ところが、日本人にとってなぜだかお米だけは、「お百姓さんが大切に育てたのだから一粒残さず食べなさい」というような教育がなされる。天皇陛下も新嘗祭のような、新米が採れた時には神事を行うが、肉や魚についてはそういう神事は行わない。日本中で豊作を祈願したりお米の収穫を祝ってお祭りをするが、肉に関しては供養をしても、盛大に祝うというようなことはしない。これはおそらく、日本人以外にはわかりづらい風習だ。

 阪神タイガースのバースが引退後に牧場主となったように、アメリカ人は成功した人は隠居後は牧場を持つことがステータスだと聞いたことがある。アメリカという国の開拓史が、そうした憧憬を生むのかもしれない。日本では事業に成功したり、何事かを成し遂げた後、隠居して牧場主になったという話は聞かない。こういうところに、その人の信仰が表れる。

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空き家の再利用を考える

2020-07-23 10:47:20 | 福島

 散歩をしていると、犬小屋が置いてあるとすぐに目に留まる。テオが犬好きなので、犬がいたら友だちになってもらいたいということもあるのだが、犬小屋はあるものの犬はいないという家は結構ある。以前は飼われていた犬も、死んだ後は次を飼うこともなくそのままになっているのだろう。

 我が家で以前飼っていたドリとトトが死んで約2年が経過した。当時使っていた犬小屋は、解体するのが面倒なのと、犬たちが暮らしていた小屋をなくしてしまうというのに何となく抵抗を感じてしまうのとで、ずっとそのままになっていた。ただ、大型犬と中型犬の小屋は、狭い我が家の庭の中では占拠率が高く、ほかの利用法がないか考えていた。

 大型犬のゴールデンレトリバーのドリの小屋はともかく、テオには中型犬でトトと大きさがそう変わらないので、そのままトト小屋を使ってくれれば良かったのだが、ほかの犬の匂いのする小屋を警戒しているのか、決して中に入ろうとしない。結局使い道のないトト小屋は、近頃は雨に濡れないように犬用の蚊取り線香を焚いていたりしている。

 で、問題は主人のいなくなったドリ小屋で、これは大工さんが少々のことでは壊れないようにと頑丈に作ったので、解体しようにもビクともしない。釘やらビスやらやたらに打っているし、作りも複雑でどうなっているのかわからない。考えた挙句、収穫したジャガイモなどの野菜を貯蔵しておくスペースに使うことに決めた。

 ドリが横になっても心配いらないほどでかいドリ小屋を、立てて使えばかなりスペースが少なくて済む。そこで、電動の丸ノコで屋根の部分を切り取ることにした。これだけでも重労働だ。

 予定では、これから棚をつけ、プラスチックのコンテナがひとつずつ収納できるようにする。日光を避けたいので、扉もつける予定だ。これで粗大ゴミとして出さなくても良くなるかなと思っているが、さて、トト小屋の方はどう再利用したらいいだろう。ほったらかしにしていたらいつかは朽ちてしまうだけに、どんな形でもいいから残したいとは思うのだが。

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今日は大暑

2020-07-22 10:44:44 | 福島

 二十四節気で言うところの今日は大暑だ。二十四節気と言ってもピンとこない人もいるだろうが、春分とか秋分とか夏至とか冬至とか、耳馴染みのあるものもいくつかある。で、大暑というのは一年で一番暑い時期ということになるらしく、今日から次の立秋(8月7日)までを指す。暑中見舞いはこの間の挨拶になり、立秋を過ぎれば残暑見舞いということになる。

 とは言え、梅雨はまだ開けず、8月の初旬が秋だと言われても納得できない。一番暑いのは8月のお盆前後じゃないかと子供の頃から思っていたが、暦と感覚のズレというのは、実は二十四節気が中国のものだということから来ているようだ。つまり二十四節気は中国大陸での季節感なのである。

 ということなので、大暑といっても朝から雨が降ったり止んだりしている。夏の花であるムクゲも、雨に濡れて元気がない。

 道にキノコが転がっているのをテオが発見、とりあえず食べられるかどうか吟味している。

 雨の中、ヘクソカズラの花、早乙女花がひっそり咲いていた。今年は新型コロナウイルスのおかげで、山登りも旅行も出かけていない。異常気象でいつになっても本格的な夏はやって来ない。もたもたしていると、あっという間に秋がやって来てしまいそうなのである。

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ふさぎの虫

2020-07-21 10:56:56 | 日記

 人気の若手俳優が自殺したというので、ニュースで話題になっている。さまざまな原因を追求したところで、おそらく死ぬに値するだけの理由は見つけられないだろう。出演しているドラマでさえ見ていない僕は、人気俳優の死にショックを受けることはないが、若者が自分自身の死を選ぶということに関しては残念でならない。仕事で、あるいは人間関係で悩んだところで、死ぬほどの苦しみしかそこにないなら、さっさと逃げ出すことを僕はオススメするからだ。この世は広い。見当もつかないほど広大な世界が自分の周囲に広がっているのだと思えば、現在の自分に固執する必要はない。

 アランさんの「幸福論」に「ふさぎの虫」という章があって、それには「深い悲しみは、肉体の病的状態の結果であるのが常である」と書いている。ところが、情念というのは病気にかかることよりも強情で意固地だ。アランさんが抑鬱病と呼ばれる患者たちのことを考察した結果、「どんな言葉も彼らを傷つける。同情されればされたで侮辱されたと思い、どうにもならぬほど不幸だと感じる。同情されなければされないで、もはや友人もなく世界でひとりぼっちだと思いこむ」。いろいろと落ち着きのない考えが頭をいっぱいし、不快な状態に追い込む。ついには自分自身の悲しみの味を、食道楽のように噛みしめることしかできなくなる、という。

 悲しみは病気に過ぎず、歯痛や腹痛と同じように病気として我慢しなければならない。歯痛や腹痛の理由を考えても仕方がないように、悲しみの理由を詮索したところで痛みはなくならない。解決策はじっと我慢して時が過ぎるのを待つしかないのである。そうしていればそのうち心が休まる。昔から宗教の祈りというものが目指したものは、まさにこれであった。

 アランさんが言うように僕は祈ることはないが、どうしようもないようなストレスが、ちょっと体を動かす、部屋の中を整理整頓してみる、といった何気ないことでも解消してしまうことを経験から知っている。悲しみに打ちひしがれた人は、そのちょっとしたことでさえ気が重く体が動かないと主張するだろうが、だまされたと思っておてんとうさまの下を汗をかいて歩いてみるだけで、意外と自分の悩みがちっぽけなことに気づくことはあるはずだ。

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