おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

夏空のアン

2022-05-31 12:30:46 | イラスト

 以前に、夕暮れの空を背景にテオの絵を描いたので、アンの絵も描こうと思っていた。サイズは同じように横長の扁平サイズで、テオが夕景だったので、アンは明るい夏空を背景にした。猫も犬も、毛の感じを出すのが実に難しい。うまく行ったかどうか自信はないが、可愛くは描けたので良しとしよう。

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夏を走る

2022-05-30 11:41:50 | 12音詩

 明日の天気予報が雨になっていたので、今日は急遽ランニングをすることにした。最初は自転車に乗って、近所をイラストのモチーフ探しに出かけようと考えていたが、あまりに気持ちのいい夏の風に、体を思いっきり動かしたくなったのだ。

 気温は25度。走るにはちょっと暑いが、涼しい風が吹いている。今日は長い距離を走るつもりがないので、阿武隈川の土手を風に吹かれながら、走ったり歩いたりとほとんどハイキング気分だ。今日みたいに爽やかな夏も珍しい。これ以上暑くなればぐったりするし、湿度が高くてげんなりする。風がなくてもバテバテになるが、今日は何をとっても不足はなく、ちょうどいい夏日なのである。

 というわけで、走りながら早速一句ひねる。「走れば夏のど真ん中」

 河原でカラスの大群に餌をあげているオバチャンに遭遇する。都会にあっては迷惑な「カラスおばさん」としてニュースになりそうだが、この辺ではいくらカラスを餌付けしようと、誰に迷惑がかかるわけではない。それよりも、カラスに餌をばらまくことで精神的に満足を得ているオバさんの人生のほうが気にかかる。

 河川敷の両側に広がる田んぼの上を、スーイスーイと気持ち良さそうにツバメが低空で飛んでいる。夏の風が僕の後方へとツバメをうながしていく。「ツバメ追い越し夏の風」

 1時間半ほど土手を行ったり来たりした後、すっかり日焼けし、夏を満喫して帰路に着くアベさんであった。

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豊作への道

2022-05-29 11:05:50 | 福島

 昨日、今日と天気予報は晴れだったものの、昨日は強風が吹き、寒いくらいだった。今日は30度越えの真夏日予想なので、梅雨入り前の貴重な晴れ間なので、大事に使わなければならない。

 朝の散歩に出ると、すでにギラギラと太陽光線が強い。田植えの終わった田んぼに光が差し、どこを歩いてもキラキラと輝いている。

 道端や田んぼの畔には、ムシトリナデシコやハルシオンが咲いている。

 シロツメクサも青々と茂る。

 タミちゃんが途中で、フキを採りたいと言い出し、寄り道して行くことにする。世界で一番うまい食い物がフキだと信じているタミちゃんは、フキのためならどんな労力も惜しまない。その間、僕とテオは道端で待っている。ちなみに僕が世界一うまいと思っている食い物はカキフライだ。フキと比べるとなんと高尚な食い物なんだろう。考えた人は天才だと思う。

 朝食後は家庭菜園に行って、トマトの苗を植え、キュウリのためにネットを張ってくることにする。

 畑に行くと、去年植えて大きくなった新玉ねぎが僕らを迎えてくれる。

 スーパーでは値段が高騰しているタマネギも、自分で作れば新鮮なものをいくらでも食べられる。家庭菜園ばんざーいである。

 それにしても今年は畑が順調だ。温暖化で適度に暖かいうえに、雨も多いために水やりもしなくて済んでいる。毎年失敗しながらも少しずつ進歩しているので、次第に収穫量も増えてきている。

 ちょっと前に植えたキャベツは結球し始めた。

 キュウリもツルを這わせるためのネットが必要になった。

 ナスは去年初めてうまく行ったが、今年も豊作が期待できそうだ。

 豆もちょっと植えたら、毎日10個ずつくらいは採れるので、食卓にはいつも青い物が並ぶ。

 そしてジャガイモは害虫のテントウムシダマシの被害もなく、いよいよ花を咲かせた。このままで行けば、今までにない豊作になりそうな気配だ。

 世界はロシアのウクライナ侵攻の影響で、いろんなものが値上がりし、物価高になってきている。都市生活者は大変だろうなと思うものの、少なくとも食べ物に関してはあまり影響は受けていないアベ家なのであった。

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開かずの押し入れ

2022-05-28 11:25:50 | 日記

 昨日のバカみたいな大雨が上がったので、朝から庭木の剪定をする。近くの二本松では竜巻で車が空中に放り上げられる動画がニュースで紹介されていたが、その時間、遠くでひっきりなしに雷が鳴っていた。自然災害はピンポイントで起こるので、宝くじに当たるようなものだろうが、くじ運のない人間ほど、そういう災難に遭いそうな気がして怖い。

 庭木の剪定が終わったので、次は押し入れの片付けをしようと、ホームセンターで収納ボックスを買ってくる。この10年、押し入れの手前の部分はしょっちゅう使っていたものの、奥の方には何が入っているのか見当がつかない。カフェを始める時に、とりあえず必要のないものを詰め込んだのは確かだが、それが何だったかすっかり忘れているのだ。

 押し入れの中を全部出してみるのは10年振りである。ほとんど開かずの押し入れとなっていたので、全部出してみると、押し入れの床にはカビが生えている。こうなることは見当がついていただけに、見て見ないふりを続けていた。仕方がないので掃除機をかけたり、雑巾で拭いたりと、押し入れの掃除から始める。

 それにしても出てくる出てくる。よくこれだけの物が入っていたもんだと感心するくらい、次々にいろんなものが出てくる。カバンだけでも見たことのないのも含め10個以上は出てくるし、帽子や靴だって山ほど出てくる。壊れた電化製品も出てくる。こんなのはさっさと捨てればいいのだが、燃えないゴミの日までとりあえず入れておこうと考えているうちに、10年が経っているのだ。

 掃除の間、暗いところや狭いところが大好きなアンが、出たり入ったりと忙しい。そのうちテンションが上がったのか、部屋中に並べたさまざまなものの間を探検し、ピョンピョンと飛び回る。臆病なテオは見たことがないものが散乱しているので、怖くて中庭に退避している。

 それにしてもである。そのうち何かに使うかもと考えたものは、絶対に使う機会がない、ということをつくづく思い知らされた。ケニアの副環境大臣のマータイさんが「モッタイナイ運動」を世界的に推奨していたが、もったいない精神はゴミ屋敷を生み出す元凶にもなっている。

 余計なものは買わない、ということと同時に、日本の贈り物の風習はゴミ文化の別名でもあると、声を大にして言いたい。そのくらい貰ったものは申し訳ないからと、後生大事に押し入れという名の宝物入れに押し込められているのである。

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不測の事態だからこそ

2022-05-27 11:49:32 | 日記

 ニュースを見ていたら、広島と長崎で原爆を落とされた日に開催されていた平和の祭典に、ロシアを招待しないことを決めたと言っていた。核所有国の指導者たちに招待状を出すのが決まりごとになっていることから、苦渋の決断だったと説明していたが、ニュースを見ながら「こういう時期だからこそ平和の祭典に招待するのが本当じゃないか」と思ったのは僕だけではあるまい。ロシアのウクライナ侵攻は明らかに平和への道を閉ざすものだ。だからと言って、戦争をしているから平和の祭典に来てもらっては困るというのは、果たしてどうなんだろう。

 広島市長の記者会見では、「政府に相談したところ、日本として世界に間違ったメッセージを与えかねないから」ということだったと言うが、核廃絶を目指す祭典にロシアを招待することが、日本の親ロシアをアピールすることになるとは思えない。少なくても、正しい意味を世界にアピールするのが日本政府の仕事である。

 長崎市長は、「ロシアを招待することで不測の事態が起こらないとは限らない」と言う。「不測の事態」とは何を指すのだろう。そもそもロシアのウクライナ侵攻が、世界にとって不測の事態だ。ロシアの指導者を招待し、万が一テロでも起きて暗殺されるようなことにでもなれば、今度は日本がロシアの侵攻を受けるということだろうか。つまりは「不測の事態」が起これば、招待した人間の責任問題になる、というのが、招待しないことの本音なのだろう。

 起こってほしくないなら、どうすれば起こらないようにできるかを考えるのが常識だ。が、日本人の思考方法には、起こってほしくないことは最初からないことにしておけばいい、というおかしな方向に向かう傾向がある。

 福島原発は、いかに安全かを周囲の住民に説明するために、あえて避難マニュアルは作らなかったという。避難マニュアルがあるということが、原発の危険性を証明しているという反対派からのツッコミを受けるからである。

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迷子になる

2022-05-26 13:48:35 | 日記

 月曜日、火曜日と雨が降ったので、ランニングに出るのを延期していた。水曜日は山ほど溜まった洗濯をしたり、片付けをしたりしていて、走るタイミングを失った。天気予報では明日は再び雨になるらしいので、今日はどうしても走っておきたい。気温は30度近くまで上がるようなので走るには暑すぎるが、そんなことも言ってられないのだ。

 で、4分の1ほど凍らせたペットボトルに水道水を入れて出発する。ランニング用のリュックにはペットボトルのほかに、汗を拭くためのタオル、低血糖予防のためにどこかで缶ジュースでも帰るように小銭も入れてある。もっとも何年もこの小銭を使ったことはない。

 気温は高いが風があるので、思ったより涼しく快適だ。川沿いの単調な道を避け、山の中を突っ切っているバイパスの歩道を走る。阿武隈川の土手は、高低差がなく走っていて単調なので、すぐに飽きてしまうのである。

 出発からずっと上りが続く。30分ほど走ったところで、バイパスを外れ、一般道に降りるのだが、この前走った時に近道があるのに気づいた。そこだと車の通りもないし、田んぼの間を通っているので、気持ち良く走れそうなのである。

 思い切って今日はその道に出て、雑木林に囲まれた細い道を下り始めると、すぐに考えていた道と違っていたことに気づいた。バイパスから見えていたのは、本来走るはずの道ではなかったのだ。とは言うものの、今更バイパスまで戻る気はない。適当に走っていればどこかに出るだろうと、木陰の道をどんどん走る。

 が、行けども行けども民家もなく、自分が一体どこにいるのかわからなくなってきた。細い道は右にくねり左にくねり、次第に方向がわからなくなってくる。そのうち車の走る音がすると思ったら、頭上に高速道路の入口が見えてきた。ここでようやく自分の位置がわかったが、まるっきり方向違いの場所をうろうろしている。

 さて、大体の位置はわかったが、本来のコースに戻るにはどう行けばいいのかまるっきりわからない。ここに来て、いい歳をして完全に迷子になっている自分がいることを思い知らされた。

 そうこうしていたら、突然見覚えのあるお寺の正面にひょっこりと出た。ああ、こんなところに出るのか、と驚きながらもひと安心する。道には迷ったが、当初のコースと距離にすれば大した違いはなさそうなので、体力的には問題ない。それにしても、普段車で移動している場所だからといって、道に詳しいなんて思っていたら大間違いで、ちょっと脇道に入った途端、見たことのない場所を彷徨う始末だ。と言って、スマホで道を調べながら走るなんて僕の趣味ではないのである。

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霧を描く

2022-05-25 12:02:17 | イラスト

 昨日、今日と朝の散歩の時に霧が出ていた。霧が濃いと、カメラを持って出かけても、一体何を撮りたかったんだろうというような、ただぼんやりした写真しか撮れない。その点、人間の目というのはよほど感度がいいと見えて、霧の朝は霧の朝で世界が一変して感動的な風景に感じる。

 最近、陰影の強い絵を描いていたので、たまには霧の世界のような曖昧な風景が描けないものだろうかと考え、以前撮った霧の日の写真を参考にしながら、霧の朝の絵を描いてみた。季節が早春だったので、木々に葉っぱはなく、柿の木には干からびた柿がいくつかぶら下がっている。

 早春には散歩の時にしばしばキジの甲高いケーンという鳴き声を聞くので、絵の中にキジも描き加えることにした。オスメスの2匹を描いたのは、つい二、三日前につがいのキジがいるところを、間近で目撃したからだ。

 成功したかどうかは怪しいが、霧の朝の静けさみたいなものは、ちょっとだけ表現できている気がする。と、自画自賛しておく。

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初ほととぎす

2022-05-24 13:25:38 | 12音詩

 二日続けて雨降りだった。おかげでテオの散歩はレインコートを着せて歩くことになり、帰ってくる頃には足元はビショビショになった。人に触られるのが大の苦手なテオは、濡れた体をタオルで拭くだけで、キャオ〜ンと甲高い情けない声で鳴く。近所に人に聞かれたら、虐待を受けているのではないかというくらいの勢いで鳴く。

 今朝はちょっと先が見えないくらい霧が出ていた。霧を透かして、空の青さがわかる。こういう日は、お日様が高くなるととんでもなくいい天気になる。

 と、どこからか霧の中からホトトギスの鳴き声が聞こえてきた。この夏初めて聞くホトトギスの声だ。毎年この時期になると、ちゃんとやって来て夏の間鳴いている。姿を見かけることは少ないが、姿形はカッコウと見分けがつかない。ただ鳴き声は全然違っていて、カッコーは「カッコー」と鳴き、ホトトギスは「ホットトギスッ」と僕には聞こえる。

 そこで一句「霧の中 初ほととぎす」

 散歩の途中で畑に寄り、玉ねぎをふた玉持ち帰る。スーパーに行くと玉ねぎ一個が150円なんてバカ高い値段で売っている。カフェを終了して以来、とても高くて買う気になれないので、玉ねぎを使った料理は避けていたが、ここに来て家庭菜園の玉ねぎがぼちぼち食べごろになってきたので、我が家の野菜不足はそろそろ終了だ。

 午前中は、昨日買い損ねたメルケルさんの本を買おうと、本屋に出かける。ついでに家の片付けに必要な補修シートと目隠し用の布を100円ショップで買って帰る。

「アンゲル・メルケル 東ドイツの物理学者がヨーロッパの母になるまで」(マリオン・ヴァン・ランテルゲム著)。定価は1980円なり。昼飯を食ったら少し読もうと思っていたが、あまりの天気の良さにトロトロと眠くなる。どうしようかな、読もうかひと眠りしようか考えていると、裏の林から「ホットトギスッ」と何度も聞こえて来た。

 

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ボケ予備軍

2022-05-23 12:25:06 | 日記

 メルケルさんについての本を読み終えた。久しぶりに面白い読書で、途中からは連続ドラマを見ているようで、最後は読み終えるのが惜しいくらいだった。もうちょっと楽しみたかったなと考えているうちに、そういえば本屋にもう1冊メルケルさんについての評伝があったのを思い出した。2冊のうちどちらを買おうかずいぶん迷い、表紙のしっかりしたカラー写真がある高いほうの本を買ったのだ。こうなったら、あと1冊の方も買ってきて読むことにしよう。

 というわけで、お昼前に買い物に出かけたが、本屋に寄る前にホームセンターに立ち寄ることにした。家の中の片付けで、使わなくなった食器などを片付けるために、段ボール箱がいくつか必要になったのと、棚を片付けるのに、収納ボックスもいくつか欲しいからだ。ついでに部屋の中に飾ってある植物の容器が小さすぎるので、シャレた植木鉢も見てこようという魂胆だ。

 で、収納ボックスと段ボールを買うと、両手が塞がったので、一旦車に戻って荷物を持って再びホームセンターをうろうろする。が、欲しかったサイズの植木鉢が見つからない。ほぼ全部大きすぎるのだ。そこでプラスチックのポットを見にいくと、今度は少ないものでも20個セットで、たったひとつでいい僕にとっては、無駄な買い物になる。だったら、自分で作れないだろうかと、しばらく店内を歩き回っているうちに、隣に100円ショップがあることを思い出した。あっちのほうが利用できそうな容器がいろいろありそうだ。

 というわけで、100円ショップをうろつき、小さな植木鉢と、それを入れるブリキ缶を買う。が、思ったより高さがあるので、部屋に飾った時のことを想像すると、これではイマイチだ。そこで、高さのない横広のブリキ缶ももうひとつ買うことにした。こちらは自分で底に穴を開ければ、植木鉢代わりになるだろうという魂胆だ。植木鉢だけなら110円で済んだが、とりあえずレジで330円払って店を出る。これでなんとかなるだろう。

 次はスーパーに寄って、今夜予定しているタコ焼きパーティーの準備をしなければならない。粉とタコとネギはあるが、天かすや青のり、紅生姜、ソースは途中で足りなくなりそうなのだ。ここでも、ついでに他の食材やワインも買って帰ることにする。そうこうしていたら、膀胱が我慢できなくなりそうになってきた。家に帰るまでは余裕だと思っていたら、近頃はもよおしてから限界までの時間が、若い頃より早くなっている。

 スーパーで用を足すことも考えたが、一旦車に戻って食材を置いてからトイレに行くのは面倒臭い。家まで我慢できそうなので、慌ててスピードを出して家まで帰る。

 トイレに入り、ホッとした後、買ってきた物を片付けていたら、「あっ、メルケルさんの本」と、一番肝心なことを忘れていた自分に驚いた。そのために出かけたのではなかったか。

 仕方ない、本屋はまた出直すことにしよう。

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メルケルさんを読む

2022-05-22 09:55:09 | 日記

 数日前から読み始めた「メルケル 世界一の宰相」(カティ・マートン著)を、もう少しで読み終える。久しぶりに面白く興奮させられる本で、読んでいない時も読み終えた箇所を思い返したりしている。

 4期16年の長期に渡って統一ドイツ、EUのリーダーとしてトップにいたメルケルさんは、そのことだけでもいかに優れた政治家だったかということが分かる。そんなメルケルさんのことを簡単に説明するとしたら、2019年に行われたアメリカ・ハーバード大学の卒業式に招待され、卒業スピーチをしたときの話が分かりやすいだろう。

 アメリカの学生たちは、メルケルさんがキャンパスに到着すると、ネルソン・マンデラが卒業式で講演した時のような雰囲気になった。彼女が登場すると、誰もがそこに道徳的に正しいことを貫く勇気を持った、歴史に残る人物がここにいると感じていた。今後はもう存在しえないかもしれない一つの生き方を体現する最大にして最後の希望がそこにいる、と学生たちは考えていたのだという。

 メルケルさんは大学の同窓会の会長からこう紹介される。「欧州のリーダーであり、同性婚を推進し、ドイツ初の最低賃金法を成立させ、100万人を超える移民に対して自国を解放した人物」と説明した。

 こういうところを読むと、いまだ男女別姓をどうするとか、女性天皇を認めるか否かの決着をつけられず、戦争から逃れてきたウクライナ人に新型コロナの検査を自費で受けさせているような国が、残念なほど貧相に見えることだろう。

 メルケルさんが尊敬していた人物は、科学者として2度のノーベル賞を受賞したキュリー夫人である。そのキュリー夫人の言葉を、メルケルさんは自分の人生の柱としていた。「人生に恐るべきことは何もありません。ただ理解するだけで良いのです」

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