おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

蛙飛び込む

2022-02-07 11:43:14 | 日記

 ネットで注文していた「西行」を読み終えたが、近年になく何を書いてあるのかさっぱりわからない本だった。偉い専門の先生が書いてはいるのだが、西行さんという人を身近に感じることなく、執筆者も書いていて面白かったんだろうかと心配になった。

 そもそも西行さんという人は平安時代の人だから、確かな史実というのは少なく、かなりの部分が伝説なのだろう。が、伝説になるにはなるだけの理由があるわけだから、素人の読書はそういった西行さんの魅力を知りたいのだが、今回の読書ではそれが果たせなかった。こうなったら、やはり西行さん自身の歌集「山家集」をじっくり読む以外、西行さんへの道はないということなのだろう。

 西行さんは日本全国を旅した人である。その足跡の多くは、万葉時代の歌人ゆかりの地を巡るもので、後の芭蕉さんの奥の細道は、西行さんの歩いた足跡を辿るものだった。芭蕉さんは、昔の歌人で尊敬する人は西行さんと実朝さんだと言っているくらいなのである。

 西行さんの本が面白くなかったので、次はもう少し時代が下り、史実のはっきりしている芭蕉さんの本でも注文しようかと考えている。

 そう言えば、僕は学校が大嫌いで、授業中は上の空で、全然先生の言うことを聞いてなかったいい加減な生徒だったが、高校の古文の先生の話だけは面白く聞いていた。と言うのも、授業そっちのけで、自分の大学時代の話ばかりするような文学者崩れみたいな先生だったのだが、学生時代は下宿でみんな集まり、酒を飲みながら朝まで連歌を作ったりして遊んでいたと話していた。今思えば、当時の大学生というのはずいぶん高尚だったんだなあと思う。今時の大学生で連歌を作って遊ぶなんてことをするような連中がいるだろうか。それどころか、「れんかって?」というのがオチだろう。

 その先生の授業でひとつだけ覚えているのが、芭蕉さんの「古池や蛙飛び込む水の音」には、習作のようなものがあり、「古池や蛙飛ンだる水の音」だったのだが、芭蕉さんはどうして「飛ンだる」を「飛び込む」に訂正したのかというものだった。

 この訂正の意味がわかったのは、実は最近のことで、ある日ふと「なるほど」と合点がいったのだ。というか、突然あの時の授業を思い出したのだ。「飛ンだる」は確かにカエルが飛んでいる様子が表現できている。が、「飛ンだる」から「飛び込む」に訂正したことで、句そのものの主題が、池にカエルが飛び込む様子から、カエルが飛び込むことによって聞こえた水の音へと変わったのである。

 「古池や蛙飛び込む水の音」では、実はカエルの姿は必要ない。ポチャンと聞こえたのは、きっとカエルの飛び込む音だったのだろうというくらいである。古池やの句は、視覚から聴覚の句へと変化したのである。

 で、もっと言うなら水の音は実際に聞こえる必要でさえない。古池の水面に広がった波紋は、実は芭蕉さんの心に広がった波紋でもあるからだ。心の古池のイメージに、静かに波紋が広がっていくその様子が、この句の主題でもある。ここで初めて「飛ンだる」という俳諧の滑稽さや洒脱さから、芭蕉さんのワビサビの世界へと飛躍したのである。

 というようなことが、あの時の古文の先生は言いたかったんだろうなと、数十年経て今頃思うアベさんなのである。

 

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