おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

春の妖精

2017-03-31 11:39:50 | 福島

 暖かくなったかと思ったら、翌日には真冬並みの気温になり、時々雪が舞ったり積雪があったりして、なかなか春真っ盛りというわけにはいかない。それでもようやく梅の花が満開に近くなり、あぜ道や土手にはツクシや踊子草、菜の花、福寿草などが顔を出している。

 去年の写真を見ると、カタクリの花の写真を撮ったのは4月7日頃になっている。ということはそろそろ土の中から葉っぱや茎が出てきているだろうと、毎日散歩の途中でカタクリが自生している場所を確認するが、昨日の朝までは発見できなかった。

 昨日、今年一番になるくらいまで気温が上がったせいか、今朝の散歩でついにカタクリの葉っぱが地面から出てきているのを見ることができた。花はまだだが、ちゃんと茎を伸ばしていて、あと一週間もすれば花を咲かせそうな気配だ。近くには同じスプリング・エフェメラルのキクザキイチゲも顔を出し、小さな白い蕾をぶら下げている。たった1日でこんなに成長するなんて、名前の通り春の妖精なのである。

 調べて見ると、スプリング・エフェメラルは温帯の落葉樹林に適応した植物と書いてある。冬に落葉した森林では、早春にはまだ葉が出ていないから、林床は日差しが十分に入る。この明るい場所で花を咲かせるのがこの種の植物で、春先には森林の林床はとてもにぎやかになる

 スプリング・エフェメラルは別名を「春植物」とも言うらしいが、ギフチョウやウスバアゲハなど、春先だけに成虫が姿を見せる昆虫もスプリング・エフェメラルと呼ばれることがあるらしい。きっと明るい林床をフワフワと飛んでいる蝶々の姿が、「春の妖精」という言葉を連想させるのだろう。

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アドリブに思う

2017-03-30 10:56:56 | 福島

 ジャズやロックの演奏では、演奏者が自由に奏でるアドリブというパートがあり、楽器を始めた人間は大抵カッコいいアドリブ演奏に憧れるものだ。が、実際に挑戦してみると、必ずと言っていいほど音を外す。音を外さないようにと決められた音階を追いかけると、実にダサい演奏しかできなくなる。そこで初めてプロと呼ばれる人たちが、いかに自由奔放に見えて基本に忠実に繊細な注意を持って演奏しているかを思い知るのである。

 悲しい曲を演奏中、仮に1音でも外せば台無しになる。演奏はうまく行きませんでしたが、テーマはこんな風に重く悲しいのですと説明しても、音楽というのは音がすべてだということは誰だってわかる。だから、そんな言い訳は誰もしないのだが、これが絵の世界になってくると少し事情は変わってくるようだ。

 というのも、絵を描く関係上、僕も同じような素人の人たちの展覧会に顔を出すことは多いが、なぜこんな色を塗ってしまったのか、別の色を検討しなかったのかと思う絵は多い。だが、描いた本人はそれは失敗だと感じながらも、こういうテーマだと説明してくれる。展覧会会場でも、描かれている絵についてよりも、そこにあるテーマについて解説する人は多い。が、音楽も絵も違いはない。音をひとつ外しただけで曲が台無しになるように、色をひとつ間違えるだけで、絵を台無しにしてしまっているのである。

 マティスやピカソの絵を見ても、僕は本当に感動するということはないが、プロの絵描きには絶賛する人は多い。それはプロの演奏家が音を外したことに気づかない聴衆の耳同様、細心の注意と大胆さでそこに塗られた色に、僕の目が気づかないということなのだろう。炎の画家と呼ばれたゴッホでさえ、奔放に見える作品の裏に、どれだけの習作があり色の組み合わせを検討したかは、ゴッホの書簡集を読めば驚くばかりだ。

 なぜその1音でなければならないのか、本物の音楽家ならその大切さを熟知している。なぜその色をそこに配置するのか、本物の画家なら徹底的に検討するだろう。お笑い芸人だって、ボケのひとつで舞台が台無しになることを痛感しているだろう。たまたまパレットにこの色が出ていたので使ってみた、というレベルでは、決していい絵にはならない。

 なんてことを、音楽を聴きながら肝に銘じてみた近頃のアベさんなのである。

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春の山

2017-03-29 13:57:04 | 福島

 トトが若い頃は、毎週末や連休には山登りに出かけていた。九州の山が中心なので、雪深い時期というのはほとんどなく、トトが歩ける深さの積雪なら真冬でも山登りに出かけていた。

 ただ、昔から春先の山登りはあまり好きではなかったのは、麓から山頂までの間、必ずどこかで雪解けでグチャグチャになった登山道に出くわすからだ。それだったらコチコチに凍った時期に登ったほうが汚れる心配も泥で滑る心配もない。

 近頃はトトも高齢になり、足元がだんだんおぼつかなくなっているので、過激な運動は避けるようにしているため、山登りからも遠ざかっている。その代わり、ひとりでも短時間でできるランニングに精を出しているが、走っている最中も、真っ白になっている東北の山々を眺めながら、今頃行くと面白いんだろうなと考えている。

 最近のニュースで、那須の茶臼山付近で春山登山の訓練をしていた高校生たちが雪崩に遭遇し、その後、福島の安達太良山でも雪崩で高齢者が巻き込まれた。どちらも山もここから見ることができる山で、散歩の途中はよく雪の積もり具合などを確認しているので、より身近な事件として感じる。

 それにしても、この時期の雪がいかに溶けやすいか。

 昨日の朝には真っ白だった景色も、今朝は穏やかに晴れ上がり、ぽかぽかと春の陽気だ。

 

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雪の日は窓の外を見て過ごす

2017-03-28 10:44:39 | 福島

 一晩中降り続いた雪は、朝には水分をたっぷり含んだみぞれになり、お昼過ぎには雨に変わった。せっかくの休日がこれではどこにも出かけられないので、窓辺にパソコンを移動させ、傍にカメラを用意して外を眺めて過ごした。

 あたりが真っ白になったせいで、野鳥たちは草むらの虫が獲れないのか、今日に限ってやたらに家の周りにいる。ヒヨドリが群れになってやってくるし、スズメもいつもより団体でやって来ている気がする。これではせっかく給餌台に餌を置いても、こいつらに占領されるからと、追い払うためにも窓辺に陣取ったのだ。

 樹氷の間に見慣れない鳥がいるので、望遠レンズで狙うと、それはシメだった。普段はほとんど顔をみせないが、どうやらスズメたちが我が家の餌を狙っているのを見て、ここには何やら食べ物があるとでも思ったのだろう。

 窓辺にいる僕に警戒しながらも、恐る恐る近づいてくる。「何もしないから、餌でも食べていけば」と声をかけると、不審そうに頭を傾げる。

 シジュウカラはいつもの調子で、スズメやシメの隙を見て、さっとヒマワリの種をくわえていく。

 ヤマガラも雪は苦手と見えて、我が家の軒先で休憩をとっている。

 せっかくの休日をこんなことに時間を使うのはもったいないという気持ちもあるが、たまにはじっくり外だけを眺めて過ごす時間というのも貴重なものだ。

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食事のマナー

2017-03-27 08:18:49 | 福島

 今の家をあちこちリフォームした時、庭にふたつの巣箱と三つの給餌台を作った。せっかく庭も綺麗にしたので、どうせなら森の中にある家のように、野鳥の来る家にしたかったのだ。と同時に、野鳥たちが食べる虫の量は半端じゃないので、庭木なんかにとって殺虫剤を撒くよりも、ずっと環境に優しい害虫退治になると本で読んでいたからだ。

 最初の頃はなかなか野鳥はやって来なかったが、そのうちスズメが来るようになった。最初の頃は「やあ、スズメがやって来た」と喜び、逃げないようにカーテンの陰から観察していたが、時々ジョウビタキやシジュウカラも来るようになり、可愛いヤマガラが来るようになると、もっともっとほかの野鳥が来ないか期待するようになる。

 ところが、スズメというのは意外と意地悪で、自分たちが食べる時には給餌台から離れようとせず、ほかにやって来る鳥を追い払おうとする。スズメ同士でも激しくバトルを始める。そのせいでスズメがいる間はほかの野鳥は近づかなくなってしまった。おかげで給餌台に餌を置いた時には、なるべくスズメが近寄らないようにしばらく監視しなければならなくなった。

 シジュウカラやヤマガラなどは、スズメとは違い、その場で餌を食べるようなことはしない。エゴの実とかヒマワリの種をひとつずつくわえては、少し離れた木の枝まで持って行き、そこでゆっくりと食事する。その場で食べれば労力が少ないのにと思うが、せっせせっせと行ったり来たりを繰り返す。

 ヒヨドリは給餌台の餌には反応しないけれど、軒先にぶら下げた干し柿には目がなく、人の目を盗んで巧みにかじっていく。仕方がないので給餌台に干し柿の切れ端を載せておくと、近くの木の枝まで運んでそこで食べている。ツグミなんかは給餌台の餌には目もくれず、地べたを歩き回りながら、草むらの虫たちを探している。

 こうしてみると、やはり一番行儀が悪いのはスズメかな。

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雨男か

2017-03-25 10:55:32 | 福島

 東京では桜の開花宣言が出たが、その後再び寒気がやってきて真冬並みの気温になっている。寒い時に桜が咲いたってちっとも嬉しくないのだ。やはり桜が咲いたら、その後は暖かい日が続かなければ、花見をしようなんて気にはなれない。

 週末の天気予報を見ていたら、次の月曜日の福島県は雨か雪の予報になっていた。気分はすっかり春真っ盛りで、今度の休みには久しぶりにさくら湖周遊ランニングコース(勝手にそう名づけている)を走ってこようと思っていたのに、そんな天気じゃテンションは上がらない。仕方がない、月曜日がダメなら今日は時間がないが近くの阿武隈川の土手を走る15キロコースにしようと、朝からせっせと走ってきた。

 それにしても月曜日になると天気が悪くなる。認めたくはないが、どうやら少しだけ僕には雨男の気があるらしい。

 描きかけていた絵は、背景を春らしい青空にして見た。同じ青でも、春と夏の空の青さはずいぶんと異なる。ただ、僕の絵としては、今ひとつ物足りない。いわゆる個性というやつが不足しているんじゃないのか。

 というわけで、犬たちをつけ足してみた。

 

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口利き、忖度というお仕事

2017-03-24 11:42:46 | 福島

 連日森友学園の問題がテレビで放映され、見たくなくてもなんとなく見てしまうという毎日が続いている。籠池さんが総理夫人から寄付金をもらっただの、契約書が出す役所に応じて3種類あっただの、経歴に嘘があっただの、いろいろ枝葉の部分が多すぎて、問題の本質にはなかなか迫らない。誰だって役所に書類を出すときには、少しでも有利になるように書くだろうし、履歴書だって面倒だから適当に書いて済ますというのは多々あることだ。

 僕が知りたいのは、国有地の払い下げが格安で行われたことに、間違いなく政治家の関与か役人の忖度があっただろうから、どうすれば政治家や役人は一民間人のために動くのかということだ。

 口利きが悪いとか忖度が悪いと言ったって、大体選挙になると、おらが村から、おらが街からも議員さんをと考える人が多いというのは、政治家の仕事は口利きだと思っているからに他ならない。もし町全体、地域全体、国全体を考えるのが政治家なら、選挙区という考え方がそもそもおかしい。

 お役所にしたって、要望を出してもなかなか聞いてもらえないものが、政治家を通すと一発で実現したりする。お役所を動かすのは、お役所のお偉いさんと知り合いか、政治家くらいだと誰もが思っている。

 森友学園が人々の興味をひくのは、籠池さんがどんな手を使って、自分に有利な条件でことを進めることができたのかというその構造だろう。普段はいくら訴えてもまるっきり相手にしてくれない政治家やお役所が、時々びっくりするほど親切に対応することがあるのだから、その方法を知りたいと思うのは当たり前のことだ。

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春の絵

2017-03-23 12:55:04 | 福島

 来週、近所の人たちと作っている会のために、「はな」をテーマにして絵を描かなければいけない。すでに犬たちをモデルに2枚描いたが、今ひとつピンとこないので、間に合えばもう1枚描こうと試行錯誤している。

 できればスプリング・エフェメラルであるカタクリとかニリンソウとか、早春の花をモチーフにしたいが、福島の春は遅く、スプリング・エフェメラルどころか、梅の花でさえ満開まではもう少し時間がかかりそうで、題材が見つからない。仕方がないので、昔撮った写真を使って描けないかと以前のデータを物色したら、使えそうな写真は絵の資料として使ったものばかりだ。

 ちょっと描き直してみたいなという絵があったので、今回これを描き直してみることにした。以前描いた絵は、水を張った田んぼのあぜ道で咲いているタンポポとツクシの子がメインだ。

 で、今回はタンポポとツクシの子は変わらないが、モチーフの中心はモンシロチョウにしてみた。犬を入れようかと思ったが、それだとスケールが違い過ぎて、画面に収めるのが大変だ。同じ題材でも、生き物が入るか入らないで、画面の動きが全然違ってくる。

 次に問題になるのが背景だが、はてさて一体どうしたものか。できれば青空を背景に飛んでいるモンシロチョウにしたいのだが、うまく行くかどうかは描いてみないことにはわからない。

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自分というプレッシャー

2017-03-22 12:59:53 | 福島

 3月20日で、地下鉄サリン事件から22年が経った。当時僕は、事件直前まで地下鉄丸ノ内線を利用していたが、仕事を変えたおかげで直接事件に遭遇することはなかった。地下鉄は3分に一本は出ているから、丸ノ内線に乗っていたからと言って事件に遭うとは限らないが、ちょうど通勤時間帯だったことを考えれば危なかったと言えるかもしれない。

 仕事場が永田町から新宿に変わり、その頃僕は病院でアルバイトをしていたが、事件発生と同時に病院内にサリンの扱いに関するチラシが配布され、被害者を収容するかもしれないと緊張が走った。僕はそれまでの報道から、オウム真理教が起こしたテロに違いないと確信していた。事件は教祖の逮捕により明るみになったが、未だにサリンの後遺症に苦しめられる被害者を思うと、人生なんていつどこで何が起こるかまったくわからない、としか言いようがないんだと強く感じる。

 事件に関与した人間の中には、今では若者に安易に宗教に頼る怖さを伝える活動をしている人もいる。そういう人の話を聞くと、神を信じる怖さとは、自己判断をすべて神に委ねてしまうことだと言う。神の御心は人間にはわからない。「神様はどうしてこんなことをされたのだろう」と考えても、最後は自分が至らないために神の御意思がわからないのだ、と考えるようになる。ついには、妄信的に言われるがまま行動するようになる。オウム真理教では、その御意思なるものがテロリズムだったのだ。

 自己判断を委ねるということで言えば、星占いや手相などにハマっているのも同じことだ。また、誰かの知恵を借りたり助言を求めると言うのも、ある種の自己判断の放棄と言えるかもしれない。人は自由に憧れるが、自由の代価は大きく、精神的なプレッシャーは重い。何かの拍子に弱ってくると、自由を放棄したくなるのも人間の習性だ。

 昔からそういうことを独裁者やカルトの教祖はよく知っていて、必ず利用してきたのである。

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食習慣

2017-03-21 12:11:57 | 福島

 普段、お昼にカフェをオープンさせるため、その前に昼飯を食べることになるが、なるべく簡単に済ませたいのと、満腹になると料理をしたくなくなるので、どうしても少食になる。

 昨日の休みは、昼ご飯のおかずがなかったので、久しぶりに外食することにした。サラリーマンの頃はほぼ毎日だった外食も、今では年に数度という頻度で、最近は外食をするという食事の選択肢は、旅行をしたときくらいしか頭に浮かばない。

 で、何を食べようということになって、家ではやらないものにしようと思い、カキフライかトンカツにしようと決めた。出かけたのは人気のお店だったので多分は入れないだろうと思っていたが、幸い待っている客は1組だけだったので、そのまま待つことにした。

 ところが、たったの1組なのになかなか順番が回ってこない。待つ間にメニューを渡されたのでカキフライを頼むと、2月いっぱいで終了という返事。じゃあ、トンカツ定食だ。やっと順番が回ってきてカウンターに向かうと、なんとどんぶりに山盛りになったサラダが出てくるではないか。その量は尋常じゃなく、これだけで腹一杯になりそうだ。思わず、馬じゃないんだからと突っ込みたくなる。ご飯もお代わりしてくださいと、大きな茶碗に盛られたのが出され、味噌汁も漬物も二人分くらいの量が出る。

 ちゃっちゃと食って出ようと思っていたが、腰を据えてかからなければとても食べ切れそうにない。なんとか30分以上かかって食べ終わったが、これでは順番がなかなか回ってこないはずである。それにしても、人気店というのはこの量にあったかと改めて納得した。そういえば、年配の人の姿は見かけないもんな。

 というわけで、あまりに腹一杯になったので、午後は何もやる気が起きず、夕方の散歩を簡単に済ますと、夕飯も食わずにグタグタ過ごしたのであった。昼飯代にしては割高だったなと思っていたが、夕食を食べずに済んだので、案外安上がりだったかもしれない。

 それにしても、いつの間にか少食になっていた自分にビックリだ。

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