日々草

「つれづれなるままに・・」日々の事を記す。

目を眩ませ マリメッコ

2017-03-27 | Weblog
足踏みしている春を感じながら、我も足をふみ鳴らす。
ドタバタと踏み替えて、同じところで闇雲にぐーるぐる。
10000歩/日を目標にするも、今日の達成率はこの時刻にして20%。
なかなか忙しくてバタバタしているはずなのに、せめて微妙でも60%とかであってほしいのに、悪あがきというのに相応しいほどの20%だもの。

にんげんだもの 相田みつを

久しぶりに仕事でやらかしまして、今日はしおらしく落ち込んだ(フリ)。
ちゃんと落ち込むべきレベルのやっちまいで、思わず今日の運勢をチェックしに行くほどの状況なわけさ。

にんげんだもの 相田みつを
失敗もあるもの にんげんだもの 相田みつを




失敗は成功の父、成長の母と言い聞かせて両親共々、気を引き締めねば。
でも、娘はやっぱり、ドジでノロマな・・・・・(お年がバレる)と膝を抱えるのです。
今日一日はしょげますけども、明日は復活予定。

マリメッコの春のよそおいについて書こうと思っていたのだけど、メソメソは止まらないからこのまま垂れ流しにして、春に浮かれていた矢先、まさかの冬の陽気で寒くて、なんだか気分がすっきりしないのところに追い討ちということで、月曜日のブルーをおすそ分けすることにします。

以上、おやすみなさい。

レペットのjazz&白いアンティパスト

2017-03-19 | ドレステリア
冬が緩んだ岡山からすぐ、こんどはまだまだ冬が元気な北陸へ。
ナニコレ的な吹雪に身を縮めながら仕事に精を出す。
水墨画のような光景に浮かれ気分は彼方に持っていかれて、なんだか悲しくなっちゃうくらい。
季節が移り変わるのと同じく、自分を取り巻く環境というのも着々と変化をしているのに、季節は次を待ち遠しく、楽しみに思うのに、仕事とはどーしてそうもいかないのか?
変わることが当たり前なのにね、不思議。
季節は否応なく進むのに、時にぎゅっと急転直下で変化する陽気にもなんとか対応して言っているはずなのに、それと同じようにはいかない。 風邪をひき、体調を崩しっぱなしの形相である。


寒波再来、寒いと覚悟して冬の北陸へブーツでいくも、革。
革のブーツはあかんかった。
消雪パイプからぴーぴーと出ている水のおかげで足元は雪がどろどろ。
きっちり仕事をしている消雪パイプから出る水はきっちり染み込んで、足元からあたしから暖かさも消してくれる。
物悲しさは、足から這い上がる冷気のせいか?多分違うけど、もしかしたらそうかも。
あまりに冷たい仕打ちに意気消沈して、帰りがけ金沢駅で靴を買う。
レペットの白いjazz 、靴下もついでに春のantipast。


水墨画の世界よろしく白と黒から白の方を選んで。
黒より白でjazz 少しでも明るさと軽やかさと春を選んでみる。



軽やかな足元に替えたから、スキップする機会をうかがっている。
それはきっと春より遠いことが必死で靴ぐらいじゃあ、もう・・・・。
季節は望むと望まざるとめぐるのだから、まあそういうことで乗り切ろう。
さあ、あたしの足元にはjazz、antipast まだまだ前菜。
メインはこれからさ!




DEVID BOWIE展 で 出火吐暴威

2017-03-18 | ギャラリー
いつだってわっせ、わっせで前のめり。
変わらないのは悪であると思っているのだけど(変わるというのは好転だけでなく、逆も含む)って変化さえあれば、もがきながらもなかなか楽しめちゃうこの貧乏性体質に本日、大きく美しい偉大なる壁が立ち塞がる。

その壁をDAVID BOWIEと呼ぶ。

天王洲アイル 寺田倉庫にてデヴィッド ボウイ展


こんなに世界観にどっぷり浸れる展覧会なんて久方ぶり。
入口で渡されたヘッドホンからは展示が変わるたび、音楽も変わってデヴィッド ボウイのデヴィッドボウイたる聴覚から「DAVID BOWIE is ・・・」を楽しめる仕組みになっており、聴覚からも圧巻のデヴィッド ボウイの世界観が愉しめる。
改めてボウイの写真に見入れば、恐ろしいほどのイケメンで美形!

視覚からの満足度が半端ない。もううっとりと魅入るしかない。
見るべきは美しい顔貌だけでなく衣装も。
レディー ガガが追悼パフォーマンスの時に着ていた山本寛斎デザインのあの出火吐暴威のマントもちゃんと展示されている。


手書きのライナーノーツ、イラスト、ポスター、映像 在りし日の映像、変わらないのは魅力のデヴィッド ボウイ。




そして、なんだこれはという衣装からシックな衣装まで隅から隅までデヴィッドボウイが溢れ出す。



映像が何より秀逸で、展示品と一体となって迫ってきて、衣装を見ているだけで泣けてきそう。
DAVID BOWIEの曲ほとんど聞いたことないないけど、知らないけど、大回顧展といいながら、回顧するものがないにわかファンだけど。
やっっぱり衣装がすごくて、すごくて、今日はやりすぎかもと思いながら着てきたコムデギャルソンが霞むことこの上ない。



スタンダードなテイラースーツでさえ、どこかしらに色香と艶があり、なんじゃこりゃなシルクドソレイユ的なものも着こなせすデヴィッド ボウイという稀有な存在感に圧倒されるばかり。
そして何よりの発見と感動は20代でもボウイ、69歳の直前でも、そして死して今なおボウイという存在であること。
そりゃ人間、歳をとりますわさ、老けますわね、それでも変わらない!と言い切れる何かがあって、変わらないということの凄さに畏怖すら覚える。
音楽性も衣装もより進化を求め続けていたはずなのに変わらないという凄さ。
これを確認するだけでモトをとれたような気がして、cafeのビールで一息はいちゃうぐらいの打ちのめされよう。
もう一度、言っておこう「変わらないことの素晴らしさ」。


でも、向上心と好奇心を持ち続けて、変化を恐れないからこそ、「変わらない存在」でいられるわけで、子羊レベルではどうしたらいいんだー飲みに行くしかないよーと、これから飲みに行く!!と出火吐暴威な勢いで会場を後にする。
酔えば少し火を吐き出す勢いが得られるかもしれぬと期待して、暴威、暴威。






倉敷でアクセサリーを繊細の頂 『呂舎』で

2017-03-12 | Weblog
繊細の頂
我が人生において「繊細」という言葉は何度となく発せられ、感嘆に値する褒め言葉だと思ってきたのだけど、その繊細の頂を見る。


倉敷 美観地区のアクセサリーショップ呂舎にて。


記憶に埋もれた倉敷をこんなんだったかしら、こんなんだったかしらとウロウロと歩けば、メインストレートの奥に網目のようにひろがる路地。
行けども行けども美観地区。
記憶より遥かに奥深く、ひろがる街並みに点在するオシャレ ショップ。
ひっそりと小さな個性ある自分好みのお店に出会うのは宝探しみたいで楽しい。



美観地区の奥、外れの手前。アンティークのような佇まいのお店を見つけて、何のお店だろうと覗いてみれば小さなアクセサリーショップであったのだ。

細く、華奢なリング。
色石一粒を引き立たせる極細のワイヤー
もちろん什器もきっとアンティーク。
こつこつと足音が響く床板を踏みならして、くるり店内で回ってみれば、あっという間に我が指を彩る指輪。
お値段もお手頃で3000円とか雑貨の価格帯。
それでいて雑貨でなく、きちんとアクセサリーなのは店主が奥でこつこつと手ずから生み出したものだから。


HPはないそうです。
通販も基本していないそうです。
でも、メンテナンスはきちんと受け付けますとの心意気。

あまりに華奢ですぎて、無くしそうなガサツな自分が怖い。
華奢と繊細さは儚さを経由して女らしさとなるとなる。
そんな 呂舎のアクセサリー。
深い森で迷って、見つけた小さな灯りみたいな感じで、美観地区で迷って先、この小さなショップ 呂舎にたどり着いて頂きたい。





島は結界   ー犬島と犬島精錬所美術館ー

2017-03-11 | Weblog
岡山から電車で西大寺へ。

はだか祭りの準備で大わらわを横目でみながら、はだか祭り当日にここにいるなんて、なんたる偶然、なんたる幸運、さすが私、何かを持ってるかもと鼻息荒くする。
男たちが締め込み姿でぶつかりあうという勇壮な奇祭が今夜なんて。
でも妄想だけ。
妄想でお腹いっぱいにふくらんで、陽の高い西大寺地区を抜け、宝伝港を目指す。
バスの運転手さんに拍手を贈りたいほど、なぜこの道をこの図体(車体)で行くというようなアトラクションのようなバスに乗って目指すのは宝伝港から船にのって先、犬島。
犬島のアートを目指して。







船をまるでバスやタクシーのように乗りこなす瀬戸内海住民の生活に驚きつつふれてちっさい犬島を目指す。
昨今、犬派より猫派の方が増えていて猫(に触れ合える)島を売りにするところが多いけどそれより遥か昔、犬派猫派なんてなくて生活のそばにもっと動物がウロウロしていたに違いない頃より犬島とよばれていたこの島でみられるのは犬でなく、猫でなく、アート。


島の生活のに溶け込むようにアートがある。
隣の家から漏れ聞こえるTVの音や近所の人との会話、洗濯機の音がBGMの家プロジェクト。
小さな島の小さな集落をまわるという展示の仕方も良い。
島を散歩するきちんとした口実と目的になる。
もし同じところに固まってその家があったなら、多分他には行かないだろう。
きっとそういうことなんだと思う。点在の意義。



そしてメインは近代化産業遺構である犬島精錬所を美術館にした犬島精錬所美術館。



廃墟のようにひっそりとした空間に近代の象徴として三島由紀夫をモチーフにした柳 幸典の作品群。
暗く、静謐に潜む意志の強さと警鐘の三島由紀夫。


ここで三島由紀夫に逢おうとは、つゆほどにも予期せぬことでなんの因果で犬島と三島由紀夫が結びつくのかを問えば、美術作家 柳幸典は近代化に対する警鐘として三島由紀夫をイデアとし、近代産業の遺産にそれを配置したのだという。



それら作品群はイカロス セル と名付けれた暗く、厳しい風音がする通路をぬけると、ひろがるソーラー ロックという空間。
奥のイカロス・タワーと同様ここには三島由紀夫が実際に住んでいた松濤の家の廃材がつかわれ、三島由紀夫を感じられる作品となる。
さらに生身の三島由紀夫を感じてのち、作品は三島由紀夫が三島由紀夫たる世界へ誘う。
襖をあけると三島文学が滴る血のような映像で映し出されるミラー・ノート
三島家の一室のような空間に三島由紀夫の最後の声明文 「檄文」が金色に羅網のように下げられた ソーラー・ノート。


これらを総じて「ヒーロー 乾電池」と呼ぶ。


もうアートすぎて外界ここで言うなれば島の外にはもう戻れない。
犬島精錬所美術館という空間だけでなく島全部がアートに覆われていて、普段の生活に島という概念がない身にはさらに隔離された特別感が半端ない。

そもそも島というのは海に護られ区切られた結界であって、さらに凡人ごときが思いつきもしない世界に迷いこまされるともう何が何やら。
島と芸術はすごく相性がいい。島は結界。
作品は結界に護られたお宝となる。
非現実と現実が交差する島とアートの旅。 ここは犬島。






裸のある光景 ー久保裕子 人魚の石文鎮ー

2017-03-10 | Weblog
裸、すっぽんぽん ヌード
同じようでいて、同じじゃない言葉の羅列。

日本酒の銘柄に「すっぽんぽん」といういささか衝撃的なネーミングがあって、どうしてか人類ちゅうのは幼き時分よりシモ系の言葉に異常に反応するのか?というお題目すら思い出すこの状況。

目の前にはガラスの文鎮。


ついに久保裕子さんの 石文鎮を手に入れたのだ。
倉敷意匠アチブランチの別注品、限定の人魚が泳ぐ石文鎮 海色。
川やら池やら淡水の風景を切り取った石文鎮は白いのだけど、海を切り取ったこの石文鎮は海の水色をしている。


以下、倉敷意匠のカタログより
分室カタログ7「裸のある風景」は、2012年に発刊いたしました分室カタログ5「生きものをめぐる22人の作り手たちの物語」の続編としてのカタログとなります。前回の「生きもの」に続く今回のお題は、「ハダカ」です。
このお題を各作家がをどうとらえ、何を表現したか、各ページをお楽しみいただきながら、皆にとっての永遠のテーマであろう「ハダカ」に思いを寄せてほしいと考えたカタログです。


手に入れたのは裸をテーマに久保裕子さんが創り出した人魚が泳ぐ石文鎮のある光景。
確かに、裸のある風景。
裸もある情景。
なんだかハダカっていうことばを聴くとドキマギしちゃうのは三つ子の魂ってやつであって、生き物からハダカに続くお題選びは秀逸で、さて次がどう繋がるのかが気になるところ。
生き物であるが故の裸好きだとすると行き着いた感がしないでもないけど、ハダカをテーマに創られた石文鎮に添えられた文章をよむと、つながってがっている先の何かを知ることができるような。


久保裕子さんの
人魚の石ぶんちん
以下、倉敷意匠のHPより商品について。

川上弘美の小説に「離さない」という短編があります。
久保裕子さんの石ぶんちんを見ていちばんに、
それを思い出したのです。
ある日、海で拾った小さな人魚を自宅に持ち帰り、
浴槽に離すとぐるぐるとひたすら泳ぎ続けるのですが、
眺めているうちになんだか離れがたい気分になってきます。
日が経つほどに側にいる時間が長くなり、
やがては、食べることも仕事に行くこともおっくうになって、
じっと浴室に閉じこもったまま人魚を眺め続ける日々となってしまいます。
まるで魂を吸い取られるように、
人魚に深く引きつけられてしまうという話です。

久保さんの可憐な石ぶんちんに、
この人魚のような恐ろしさなどないのは言うまでもありません。
しかし、ガラスの透明性がそういう気分にさせるのか、
気持ちが吸い込まれていくという感じはたしかにあるのです。
石ぶんちんを手に持って光にかざすと
ガラスの中の魚たちは水面の凹凸に屈折して
きらきらとヒレをなびかせ、
まるで本当に泳いでいるかのように見えます。

光は、ガラスの身体中に吸い込まれ、折り曲げられ、蓄えられて、
やがて、さらなる輝きを放ちながら吐き出されます。
そのあいだも、ただじっとしているだけの透明のかたまりは、
優しげに人の心を揺さぶりながら、
握り取った心を決して離さない力強さを秘めています。

それをいま一度確かめたくて、
「久保さん、人魚の石ぶんちん作ってください。」とお願いしたのでした。




生き物、ハダカ、物語。
小さな石文鎮の中を覗き込むと、今のあたしとは違う時間が漂っている。
いっときを俯瞰するような、盗み見るような不思議な感覚。
これは物語と同じなのだなあ。
小説などは文字を媒介として他の時間とつながることなんだと思うけど、久保さんの小さなガラスのオブジェもこの役割を果たしてくれるような気がするのだ。


裸のある風景が物語ある風景に置き換わった瞬間、その文鎮を手に取り、歩き出した。






フルーツの王国 岡山の本領  -cafe&bar-

2017-03-05 | Weblog
昼も





夜も



まだまだ寒い冬の陽気でも
フルーツ王国 岡山の本領発揮。



スイーツでフルーツより、バーでフルーツの方が圧倒的に好き。
フルーツの盛り合わせじゃあアレですけど・・・・
季節のフルーツを使ったカクテル。
お酒にあまり旬はないのだけど、やっぱり季節にあった飲み物というのは必ずあって、寒い冬の燗酒、真夏のギリギリと冷えた生ビール 中ジョッキ。
大ジョッキでは大きすぎて最後は温くなっちゃうし。かといって小ジョッキ小さすぎるよねと乾いた喉を潤す生中。
その点、カクテルには旬があるのがよい。
リキュールで旬を。
桜の時期の桜リキュールをつかったやつ。
目に青葉にはグリーンティーのリキュールの照葉樹林をデザートに。
夏の夜のチャイナブルーも好き。

Seasonal best choiceは勿論、旬のフルーツを使ったモノ。
あまおうのダイキリ
キンカンのジントニック
デコポンのマルガリータ。
フルーツのオフシーズンのこの時期でもフルーツ王国の岡山の実力をみたり。

でも寒いこの季節、ホット バタード ラムもbarの定番。
ラム cow と呼ばれるミルク入りも名付けの妙で好き好き。

冬のbarのお楽しみ。