日々草

「つれづれなるままに・・」日々の事を記す。

何を見ても、何も思い出せない。

2023-10-16 | リブレリア

角田光代「いつも旅のなか」
ひさしぶりの再読、ひらいたところからぽつりぽつりと。
そこでみつけた一文。

 

「何をみても何かを思い出す。」

 

文章の連なりのなかでのささいな一文ではあるのだが、はてどこであったか・・・記憶のなかで何かこつんとひっかかる。
まさに「何をみても何かを思い出す」の例ではなかろうかと思うけど、思い出せず。 

思い出せないとき、困ったときのGOOGLEである。安直な方法(こうやって人間は退化していくという典型的ダメパターンのお手本ともいう)で、でてきた答えは アーネスト・へミンウェイの一文 「何をみても何かを思い出す。/Igass everything remains you of something.」求めていた上の回答がでてきて、「あれ、まあ」である。

 

 

ヘミングウェイといったら教科書には必ずでてくる有名な小説家で、「老人と海」や「誰がために鐘はなる」の作品名も時にテストの答えとしてでてくるからしっかり記憶はあるのだが、読んだことはない。
あたしに同じく、知識としてしっているが、読んだことはないという人が大半であろう。こんなところでヘミングウェイ先生とまみえるのも何かの縁だろうからと早速と本を買ってみたのだが読むきっかけをつくり、読むべしとした短編「何をみても何かをおもいだす」を買ったはずが届いた本には入っていなかった・・・・というオチであって沼は深いのである。

 

記憶沼に沈んでみるとはじめてこの一文を見たのは京都 恵文社の有名店長であった堀江篤史のブログタイトルであった。

「何を読んでも何かを思いだす。」

心に残るタイトルで、ブログも楽しみにしていたことを思い出す。知る人がみればこのタイトルがへミンウェイの短編のタイトルをもじったものであり、読書のプロである堀江氏のセンスのよさも気が付けたのだろうけど、今更ながら元ネタにたどり着いたわけだ。

知らないというのは勿体ない。 
もし、知っていれば堀江氏はちゃんとヘミングウェイを読んだことがある人だということに気が付けたのだから。

さて、冒頭の角田光代のエッセイである。ああこの人も「何かをみても何かをおもいだす」人であり、ヘミングウェイを読んでいるのだなと思って、どの話だったかな・・・とペラペラとページを探したのだがどういうことかまったくその一文に出会わないのである。

こんなことってある?

カバンの中に入っていた本は2冊あり、一方は壇一夫の「美味放浪記」。

もしかして本を読んでいた途中のネットサーフィンでみかけた一文とおもったけど、角田光代=「何をみても何かをおもいだす」→ああ、そういうところが角田光代らしく好きなとこ!と思ったから調べはじめたはずなんだが、読み返しても、読み返してもその一文がみつからないのである。

角田光代 「いつも旅の中」、「何をみても何かを思い出す」とGOOGLEに問うても答えはでてこず。

非常にもやもやとしている
「何をみても何も思い出せず」
こうなると無知の方がましであると言わざるを得ない。
誰かたすけて!


完全強壮レシピ

2022-12-03 | リブレリア
台湾で物議をおこしたというその本を探していた。

料理のレシピがいつしか詩行に変容し、複雑な歴史も、薄汚れた権力も、欲望に駆られたセックスも、すべてを食べつくす極上のコースが完成する。文学なのか、料理本なのか、台湾で物議をかもしたベストセラー詩集、完全収録。


台湾の現代詩人 焦桐
その名も「完全強壮レシピ」




お料理のレシピだったものがいつの間にかに詩にかわっていく
それは一本の茄子が彼の手のなかで麻婆茄子となっていくように
レシピという言葉のつながりが詩に料理されるかのように。

長田 弘 「食卓一期一会」の台湾版みたいなものかなと思いながらも、もっと刺激的に違いないと期待して
論争と物議をまきおこしたというスパイスにまみれた言葉を味わいたいと切に望んだのだった。

感情にひろがるであろう刺激を、麻と辣を欲す。
予想だにしない酸と甜
心地よい咸
言葉は時に栄養となり、体中にいきわたり、蓄えられるもの
珍味を味わう。
レシピはつくってみて真価がわかるのだけど
どんな味がするのやら。

酸いも甜も一緒になった人生の味とはこれいかに。



オマケに鳥肌が

2020-12-12 | リブレリア









シンガポール は楽しすぎて




飛行機の中で映画を観るならコナンのシンガポール が舞台になったやつがよろしいかと。


シンガポール旅の旅本。
なんでこの本を選んだと問われ、面白きゃいいんじゃね?としか答えられないけど


表紙の装丁にも鳥肌がたっている穂村弘『鳥肌が』
旅は面白がることに意義があるということで、8月11日はノラ猫記念日にもれたハイライト。
鳥肌ものではないけど、シンガポール に行きたいと思わせたなら私は幸運である、幸運の鳥肌が立つ。



そして 誠光社へ

2020-12-09 | リブレリア
ガーディアン紙による「The world’s 10 best bookshops」にも選ばれたことのある、京都の『恵文社』。
はじめてここを訪れた時の新鮮な感動は今でも反芻できるほど。
沢山の本がありながらも駅前にある大きな書店とは違う独特な品揃えであり、ピンと張り詰めたような静寂さと柔らかな時間がまみえていて特別な雰囲気を作り出していたのだ。少し昔の辻仁成・江國香織の『冷静と情熱の間』という小説のタイトルを思い出す。
古書と雑貨と新刊が絶妙に溶け合って整然と並んだ本棚は、まだ見ぬ世界への扉が並んでいると同じことだ。
開けたいと思える扉がここには必ずある。
恵文社にはそんな扉を沢山持つ本が醸し出す期待みたいなものが満ちているからいつだって行きたいと思わせる。

そんな恵文社の名物店長 堀部篤史さんが独立して誠光社という本屋をつくったのは数年前。
恵文社の恵文社たるコアが動いて、恵文社イズムを色濃くより濃密にした本屋が新しく京都にできたということだ。
行きたい!と思うのは必然であろう。



本に対する造詣と愛情が色濃く滲み出るような文章を書く人が選ぶ本はどんな扉がついていて、その先には何が見えるのだろう。
店主堀江さんの文章は文庫の解説だけで一個の読み物だし、そこから本屋の矜恃と覚悟と未来が見えるからいつだって何かを期待する。
新しい扉が開かれることを。


そうだ、誠光社の扉を開きに。






水で、火で消えゆく言葉

2020-12-09 | リブレリア
尾道 20dbで手に入れた水に文字が漂う水温集。
儚くて、不思議な一冊。
もったいなくて水にページをはなつことができないけど、その刹那をたのしみたいと強く思う。
本に出会うということはいつだって一目惚れに近い。
新鮮な驚きと確かな確信を持って惹かれてゆく。
いつもはそれが感覚の中ではじけてなくなっていくのに、この本の言葉は事象として散ってなくなるから面白い。
いろんな思いがない混ぜになった感情が水に溶けていくということ。





さて、もう一冊。
千葉のmitosayaから取り寄せたもの
本に火を放てという。
水で消えゆく言葉の次は火で消えゆく言葉。
火で立ち上ってゆく詩、レモンの香り。




果実は空に投げ たくさんの星をつくること





消えゆく言葉は事象で残像は心象であり、
失われるものほど記憶にのこりけり。

真夜中の本屋   【尾道 古本屋20db】

2020-12-08 | リブレリア
只今 ‪23時‬の10分ほど手前。
 
地の肴を地酒と一緒に流し込んでのち、てくてくと暗い夜道をいく。
時折流れるヘッドライトの光。
ひっそりと静まった店をのぞき込んだりしながら‪23時に‬むけてあるいてゆく。
細い路地をまがった先にぼうっと光る小さな看板店名は『20db』。
尾道にある小さな本屋 20db(デシベル)。
風にゆれる葉音のような店名である。



その昔、町の医院であった建物が今は本屋になっていて真夜中にひっそりとひらく。
営業時間は‪23時〜‬27時。
 
 
古い医院の佇まいをした本屋で、さらに真夜中のみ営業なんて本好きをドキドキさせてくれるシチュエーション。
どんな本たちがこんな素敵なお店をつくった店主の選美眼にかなったのかも気になるところ。
ここ数年の行ってみたい場所№1に輝きつつもなかなかその機会に恵まれなかった幻の場所。
深夜とはいえ平日の仕事帰りにおいそれと立ち寄れる場所ではない。
行きやすい大きな都市ではないことと、週末の休みを利用できる営業時間ではなかったことがこの店を訪れるハードルを高くしていると思われ、いつか、いつかと憧れだけが募るばかりであった。
 
 
古い扉をあければ時が止まったような空間に本が並び、積み上げられ
新しい読み手がくるのを夢見ている。
タイル張りの受付はキャッシャーにかわりオレンジ色の光がやわらかい。
奥の診療室であったであろう場所でも本が新しい持主に出会うのを待ちながら静かに眠っている。




 
手に取ったのは古い詩集。
北海道、東北と北の土地にまつわる旅の詩をあつめたもの
水木しげるの画集
蕎麦についての文庫本は薬袋のデザインのカバーをかけられた。
そして特別な一冊「水温集」。
 
水温集は
水色の箱の中にページ(綴じられていない紙の束)入っているという不思議な装丁の一冊。
どうしてもと頼み込んだら、店主の自宅に保管されていた貴重な在庫を頂けたのだった。
 
水にとける紙をつかった詩集で、紙が溶けて、水面に文字だけ漂うというまだかつて出会ったことがない本なのである。
水面に揺蕩う文字で読み進める小さな世界。
一度読んだら、もう読み返すことができない貴重な一篇。
尾道の裏小路に夜中しかひらかない幻のような本屋みたいな本。
 
 
 
買った本をかかえてBARへ
まだ明けぬ夜のうちにすべりこむ。
不思議な本に心が浮き足立つ。
今夜はなかなか眠れないだろう。
こんな夜はまたとないから。

小さな個性的な本屋が好き。
こんな本屋に出会えるからこそ旅が好き。

宿題をちゃんとしてきた人

2020-11-14 | リブレリア
あなたは何を手がかりに一冊の本を選ぶのだろう。
作者、タイトル、表紙、解説、あらすじ。
自分の本と呼べる一冊に辿り着くのに、膨大な数がありすぎるけど、宝探し、砂浜の砂の一粒にたどりつく醍醐味を考えればそれもまた趣であろ。

電車の中で今朝のあたしの背中を押し、つまらない日々もまんざら悪くはないと思わせる一編にであう。
そしてああ、やっぱり、この人はちゃんと宿題をしている人だと思い、自分もそういう人になりたいし、なるための今日だと思う。




この本をはじめ、彼女の書く一連のストーリーを読みながら思うのが、何とまあ、真っ当な旅人であるかということだ。希有と言っていいほどの、真っ当な旅人。

中略

中村さんは処女作でもある旅の本『インパラの朝』で開高健賞を受けている。
それで思い出したのだが、文豪開高健の文庫、『夏の闇』の解説でCWニコル氏が、母国のウェールズではこんな言葉があると書いていた。
「宿題をちゃんとしてきた男」
そして開高さんがそうだった、と続くのである。それぞれの時代でやるべきこと、経験すべきことをちゃんとやって年を重ねている人物という意味合いだろうと思われる話である。男であれ、女であれ。

当たり前のようでこれはなかなか大変なことである。
もとより、ふつうの日常を積み重ねて、出来る「宿題」もあるとは思う。だが、極論と思われるかもしれないが、生きるか死ぬかのような極限状態、非日常の極地を経た(そのような宿題をした)上での自然体、優しさ、迫力みたいなものである。ニコルさんがいうのは、そんなことではないかと思う。
そして、中村さの文章に、そのような「ちゃんと宿題をしてきた」ということを感じた。凛とした人物をかんじさせる文章。文は人であると改めて思う。
「私は、自宅のテレビから得られる膨大は知識よりも、旅で得られるわずかな手触りにこそ真実があると考えています。(中略)さあ、旅にでよう。世界を楽しもう」
この本なかにある、ネットで知り合ったルーマニアの少女に向けて書いたというメールの一文である。足すこともない。この一文に彼女の旅が表象されている。

『食べる。』
集英社文庫 中村亜希著
引用は森枝卓士の解説から。

この解説が旅の本質をそして、中村亜希のすごさをまさに端的に「解説」をしていたのだった。
本来なら本文を紹介すべきであろうそれをしなかったのはあたしにとって二冊目の中村亜希本を読んでいてこの解説をおもいだしたからだ。


彼女の著作は読んでいくうちに、なんと硬派にそして楽しげに旅をするのかと羨ましくもあり、その胆力、度胸と気力に羨望と畏怖を感じさせる。
女一人旅。
ここまで淡々と爽やかに旅ができることの凄さに感動すら覚えるのだ。
自分の旅と比べてなんとバランスの良いことか。
騙し騙され、信じて人の機微に触れやっぱり旅は人なりと思えるかどうか。
ああ、とてもステキな一冊に出会ったと解説を読めば、オマケの解説すら極上の文章であったのだ。

そして今朝の手元の一冊。
中村亜希著『もてなしとごちそう』




どれも文字通り味わい深い文章である。
彼女の文章はちゃんと五臓六腑に沁み渡る。
消化不良をおこさない文章といってもいい。
地味滋養
臓器のひだに何かが流れ込んでくる今朝の一編。
森枝卓二の解説を思い出させるほどの一編。


ヒン
九年越しの食卓ーミャンマー


この章にでてくる「スーチー」とはまさにあのアウンサンスーチー女史のことであるはずなのに、それ以上の意味を持って語られている。
タイトルの通りでいえばメインはヒン、ミャンマーのご飯のおかずの総称であったはず。
なのにそれはあくまでも脇役で「スーチー」と言葉を交わす友人との話である。
ごちそう(ここではヒンのこと)よりやはりヒンをもてなす彼女ともてなされる彼女の話なのである。
ごちそうともてなしでなく、もてなしとごちそうの話。

もう、朝からいろんなものがつまってつまって、思わず上を見上げる。
何かがこぼれ落ちそうで、冒頭の文章を思い出したのだ。
ああ、著者はちゃんと宿題をしてきた人なのだと。




こんな友人に出会うには、もてなす側の真摯さも必要であるが、それを引き出すための魅力を中村亜希という人物がちゃんと持っていたということだ。
旅で一期一会の出会いすら貴重なのに、そこを軽々と超えてまた会いに来たよといえる関係を築けるということ。
毎日、顔を合わせる人とですら友人関係をつくるのは難しいのに(毎日だから余計に難しいのかもしれないけど)通りすがりの一時で友人とも呼べるべき人を得るということは奇跡ともいうべき出会いではなかろうか。
お互いがお互いを思いやり合うということの難しさを、日常を生きるあたしたちはちゃんと知っているはずだ。
そこを軽々と、気負いなくすることの難しさも。
だからこそ彼女の人間力の高さに裏打ちされた文章は朝のあたしに天を仰がせるし、宿題をちゃんとしてきた人ということを思い出させる。
自分は彼女ようにヒンを食べ、ミャンマーの友人のことを思えるかと考えながら、いま一度、この話を読み返す。

日常でこそ、中村亜希の人間としての軽やかさを見習いたいものである。
こういう人間力で人間関係を作れたらすごいことだと思う。
いつかあたしも「宿題をちゃんとしてきた女」と評されたいものだ。
旅が遠い日常のそんな朝に思う事。

七時間半

2019-05-23 | リブレリア
映画を観にいくつもりで出かけたとしよう。
映画館についてすぐに観られるはずだと思ったのに買えるチケットは二時間半後であった場合、さて?

1、あきらめる
2、チケットを買って二時間半をつぶす覚悟を決める。

髪の毛を切りにヘアサロンへ行ったとしよう。
予約の時間に店に着いたら、まさかの時間間違いで二時間半後にもう一度来てくださいといわれた場合はどうする?

1、あきらめる
2、ブラブラと二時間半をやりすごすことにする。


神田明神のジブリ展に行く。
すぐにチケットが買えたから、すぐに観られると思ったら、入場整理券の指定時間が二時間半後だった場合はどうしたら?

1、1300円をドブに捨てたことにして諦めて帰る
2、時間をドブに捨てたことにして長蛇のカフェの列に身を委ねる。(もちろん物販、御朱印の長蛇 の列でも可)
3、どこかへ行って帰ってくる


二時間半。
つぶして、やり過ごすにはなかなか手持ち無沙汰な長さである。
一人の場合はなお、近隣にお目当がない場合は特に。
東京大阪間、新幹線で二時間半。
新幹線で旅行気分に浸れるほどの長さだものと白目をむく。
そうそう「四時間半」という小説もありましたと思索の沼に足をとられることもできる二時間半という事態に遭遇した神田明神。
ジブリ展をたのしむ前にはこんな艱難辛苦があったわけです。
しかも小説は四時間半ではなく、「七時間半」だったし。

二時間半、四時間半、七時間半。

久しぶり、思い出しついでに再読。
獅子文六の「七時間半」

昭和30年代、東京大阪間の往来に七時間半かかっていたころの話。
江戸時代は歩いて歩いて、時には駕籠で14日間の行程であった。
七時間半とは、江戸時代から比べるとあっという間の短い時間ではあるが、一本の小説になってしまうぐらい長いとも言える。



獅子文六の小説「七時間半」




女性が社会に進出し始めた頃の自立した働くオンナ 給仕係、藤倉サヨ子と食堂車のコック矢板喜一の恋の行方、いつだってこういうオンナは火中の栗になる美人乗務員 今出川有女子を取り巻く人間模様、乗車中の総理大臣の命を狙う爆破事件のウワサが駆け巡り・・・・・特急「ちどり」を舞台にしたかくも濃い七時間半の物語。
先日のブログではうっかり「四時間半」と書いてしまい、何事もなかったかのようにさらっと訂正済。(申し訳ありません 訂正致しました。)
今や2時間半の東京大阪間でありますから4時間半でも長いよねーの感覚で書いていたら、昭和30年代はまだ7時間半もかかっていたわけで、ああ昭和は遠くなりにけり。

獅子文六の小説は古くて新しく、新しくて古いから時空が歪む。
明治生まれでフランスに遊学、国際結婚。今ではコーヒー、海外旅行なんて普通だけど明治、大正、昭和初期ではどんなに目新しく、珍しいことであったことか。
明治生まれのインフルエンサー、その洒落者ぐあいは、今でもとても眩しい。
獅子文六が新幹線を舞台に描く「二時間半」
どんなストーリーにしてくれるだろうか。






何かを読めば何かを思い出す、欲しくなる、いつだって

2019-04-24 | リブレリア
小川洋子の小説が読み終わった。

 
その作品達は水の中にブルーブラックのインクが一滴、滲んでひろがっていくような語り口。
静謐で淡く無色のようでいて、そのなかに溶け込む色を探し出すような世界観である。
粛々と日常で、ありえないシチュエーション。
相反する二つの時空が幻想的なのにファンタジーにならないぎりぎりのところでからみあって、物語を面白くしている。
小川洋子の小説を読むとまぶしすぎる強い光の白い世界のなかを、薄眼で浮遊する実態を探すような印象になる いつだって。
読んでいたのは「琥珀のまたたき」、ついで「凍りついた香り」の二冊。


 
「琥珀のまたたき」
外界から隔離された小さな世界に住まわされた3兄弟 オパール・琥珀・瑪瑙と母のお話
外界の煩わしさと無縁な小さなユートピアで母の庇護のもとに暮らす生活は静かで安全でとても歪んでいる。

この話を読んで思い出したのは孤高のヘンリー・ダーガー。
映画にもなった彼の半生はまさにこの小説にでてくる琥珀に重なる。
琥珀が小さな世界を飛び出して外の世界とかかわりを持ちミスター アンバーになったとき自分と家族のためだけに作り上げたものが世の中で奇異と称賛をもって迎えられる。
その過程もまさにヘンリー・ダーガーと重なるのである。
琥珀の世間から隔離された時間を圧倒的に凌駕する60年の歳月をもってして作りあげられたヘンリー ダーガーの現実世界は小説より奇なり。
→ヘンリーダーガー 非現実の王国はこちらから


 
何かを読むと何かを思いだす。
思い出したのはヘンリー・ダーガーという孤独のうちに死んだ男のことであり
欲しくなったのは新しい香水
 
「凍り付いた香り」
自死をした調香師の彼がつくった香りと残されたヒントから、彼の死と半生の謎をさがす物語。
 
 
新しい香水が欲しくなる一冊。
買ったのはルイ ヴィトンの香水 「Sur la route(スール・ラ・ルート)」
深い木々
吹き抜ける風
まっすぐに光さす一条の木漏れ日
森の奥、忘れ去られた場所に実る黄色い果実
そんな香り。
メンズ用ですがあたしはこういう甘くない香りが好き。

 
よい小説に出会うと、何かを思い出すし、何かを欲しくなる
それはきっと物語が五感を刺激するからだろう。
GW目前、読みたい本がたまっている。
あちこちを少しづつ刺激されながら本まみれになる楽しみが、目の前にあるということだ。
 何かを読めば何かを思い出す、欲しくなる、いつだって。




 
 

カレーの歌

2019-02-25 | リブレリア
読み終わったのは穂村弘のエッセイ。



歌人の文章はリズムがあってあっという間に読み終わった。ふわふわと軽く読了感良し。
穂村弘を読んでいたからか、このところニュースをみながらしみじみと思い出す一首がある
どこでみかけたか覚えてないけど穂村弘選 詠み人忘れの歌
 
 
 
病院で今のうちにと渡される君の得意なカレーのレシピ
 
 
池江璃花子選手の白血病のニュースにつづいて堀ちえみ舌癌の公表。
立て続けに公表された二つの病。
なんで私がという絶望とこれから予想される苦労を想像するに胸がふさがれる想い。
それでもそこをくぐりぬけた先駆者、経験者の強みとノウハウをもってさらなるご活躍と希望になっていただきたいと切に願う。
公表する勇気と使命感は病と闘う人に薬となり、社会を変える。
あたしのような人間にすら届く生きる意義。
 
 
 
著名人がプライベートの最たるものである自分の病名を公表するようになったのはいつからだろうかと思えば、逸見政孝氏のがん公表会見を思い出す。
あれ以来、多くの著名人が病を公表し、無事に復帰したり、鬼籍に入られたりした。
逸見政孝氏のような売れっ子が休むには果敢な決断と大義が必要だったから、ああいう会見という形になったんだろうけど、いまはもっと個人的な思いから病気を公表してるような気もしてる。
闘病の証として、希望、慰め、情報の共有と提供と使命感からであるなら本当にすごいことだと思うのだ。
公人というメリットを最大限につかって自身の闘病の励みとしてもらいたいし、その恩恵としてあたし達一般人が得られるものもあるね、きっと。
 
カレーのレシピさえ渡すことができない身としては暴飲暴食を慎むことしかできないし、病気に負けず!としか思うことができない。
だからこそ詠み人忘れのこの短歌、31文字からあふれでてくるものが多すぎる。
病院で、カレーで、今のうちで。

美味しいカレーを家で食べる幸せは重い。