日々草

「つれづれなるままに・・」日々の事を記す。

雲の先、星空の向こう

2021-07-24 | ホーム
昼ごはん、昨日の残り。





酒器は琉球ガラス  末吉清一氏の「銀河」
沖縄から大事にもって帰ってきたもの。

手前の箸置き くじら、沖縄那覇の やちむんの里でみつけたもの。
くじら色が夏らしくて○。

お酒は新潟の今代司
すっきりと辛口が蝉の声をきく昼ごはんにちょうどいい? いい!


ああ、どこかに行きたいと思いながら昼ごはん。
きちんとお皿に盛り付ける手間を惜しまなければ気分は雲の先、空むこう、星空の彼方まで旅をする。


プレートはJohn DerianとASTIER de VILLATTEがコラボした満点の星空。
黒地の器は料理が映えるからよい。


銀河、満天の星空とくれば小皿はスターウォーズがよかろう。


デザートは松江 彩雲堂の夏の菓子 「満天」




一つはR2D2 かたや絵柄は全く見えていませんがダースベーダー。

あの雲の向こう行きたい。


飛行機から見下ろす満天の星空のような羽田空港を心置きなく楽しみたい




日本全国はたまた世界各国から飛んできたいろいろで昼ごはん。
早くも気分はサマーなバケーション。








万古の青天、霹靂飛ぶ

2021-07-24 | ギャラリー
練馬区立美術館 「電線絵画展」より早数ヶ月。一年の半分が過ぎて、オリンピックの開会式までたどり着く。
オリンピックなんてまだ先だと思っていたのにあっという間。
紆余曲折、賛否両論のオリンピックですが、本来の意義の通りスポーツの祭典として感動を届けてほしいものである。


わたくしも電線絵画を真っ直ぐに観に行ったのち、紆余曲折な線をだどり転勤やらなんやらで死にそうな日々。
暇で死にそうから、忙しくて死にそうで、行き着くの先はどんな死亡要因か。
おかげ様でコロナ禍に関わらず、家にいる時間がほとんどない。
こんなにバタバタしてるのにプライベートも仕事も中途半端になっているのが、モヤモヤの原因と思われ、こんがらがって、お団子状になったタイの街角の電線のようである。


そろそろ電線からの更新もしないとね。


仕事も忙しく、現実逃避(プライベートともいう)の充実を目指して。
せめて脳内ぐらいは好き勝手にさせていただき、願わくば思い描く理想の正夢化が実現すれば良い。

雲の糸のごとし4連休である。
夢すらみない連休初日、惰眠にうかんでは消えてゆく不思議な物語の2日目を経て、寝すぎて体が痛い3日目の連休中日。
ああ、もう休みの詰りが見えてきている。
目下、我が頭上の青天の霹靂、晴天の辟易を憂うことなく、夏の晴天の霹靂を愉しむためための休みであるのだ!


夏の夜空にあらわれた霹靂





オリンピックねえといいながら、感動を感じるのはあたしだけであるまいよ。




万古の青天の忽然とあらわれた霹靂



その名を「まさゆめ プロジェクト」というのだそうだ。
以下、アーティストによる言葉。
抜粋じゃなく是非、すべてを読んで頂きたい。
まさにいま社会が抱えるモヤモヤに対して、出来ること、やらねばいけない事をつかんでいる。
ある日突然、空に浮かぶ大きな顔が意味するところ。
以下、ホームページより転載。

公式ホームページ まさゆめ

私たちが直面している現在の危機。この中では「何かを計画して実行する」という、私たちの行動の根幹を支えてきた構造そのものが崩れている。もう一年余り続いている危機の中、その日々の実感は、地に足をつけ確実に歩んでいるはずの現実であるにも関わらず、まるでずっと先の未来のように、とても不確かで実態をはっきりと捉えることができない。日々見聞きすることになった医療や経済という観点は、言うまでもなく欠かすことができないものであるが、しかし、この現実を捉え、それを受け入れるには充分ではなく、別の観点「ものの見方」が必要である。チリのコピアポ鉱山落盤事故(※1)では、69日間地下深くに閉じ込められた鉱山作業者たちが、困難な生活の中である日から突然、牧師や医師、記者となって、暗く狭い空間の中に「小さな社会」を見出した。「ものの見方」は、時に私たちの生存にも直結する。
人流の災害ともいわれるこの危機は、間違いなく人類によってもたらされたものであるが、いまだに受け入れ難くやり場のない感情さえ抱くことがある。しかし、どんな困難な状況であっても私たちはそれを見ようとし、感性を持ってそれを捉えようとしなければならない。何かを見出すのは後からでもいい。誰に頼まれたわけでもなく既にここに存在する人類は、これまでも広く大きな視野を持って、想像によって「後から」この世界やその存在の意味を見出してきた。この危機の渦中、それはとても難しいことだが、しかしそれでも、私たちはものを見ることを諦めてはいけない。

唐突に巨大な顔が東京の空に浮かぶ。
「当時14歳のどこにでもいる日本の少女が見た夢」のごとく、はっきりとした理由が添えられることのないまま、日常を一瞬無化するように、前もって予告することなく、突如として実施する《まさゆめ》。この実在する誰かの顔は、SNSやメディアを通して、様々な場所から多くの視点によって眺められることになるだろう。そして、その顔はこのパンデミックの空から私たちを見返している。まるで、この状況に加担しているのは紛れもない私たち自身であるというように。
《まさゆめ》は、この困難と向き合い続ける。何かを見出すその時に向けて、どんな時も想像を続けそれを分かち合いたい。


目[mé]




夢に見た光景を実現させるまさに「まさゆめ」、我が願望であり、野望の小さい事よ。
惰眠を貪り、現実逃避をしている場合じゃない。
はじめの一歩すら進めない自分の愚かさを棚に上げて、
わたしがあいつと、あいつを踏んづける日も近い!←どんな夢だよ!
どんな言葉をもってして、この夢のステートメントとすべき。