日々草

「つれづれなるままに・・」日々の事を記す。

美術館ミステリー 「信濃のコロンボ 失われた時を求めて-敦煌の砂埃と長野の霧に消えた女」

2023-09-27 | ギャラリー

ブログを書いていないが故に時系列がめちゃくちゃで、なんなら時空を飛び越える話で恐縮ではあるが、先だっての「ツタンカーメンの青春」展にいったときに長野県立美術館の新装開店(?)で行われた「スーパークローン文化財」展をおもいだしたのだった。

スーパークローン文化財
文化財の保護・保存・活用」という観点で文化財を周辺の環境までも含めて再現したもの。
流出や消失した世界中の文化財を最新のデジタル技術をつかって精密に復元する技術

 

劣化・損傷は経年という要因だけではなく、急激な気候の変化や戦争や紛争という要因もある。
その場にあってこそのものもあるし、物理的に動かせないものが圧倒的に多いなかで、保存・補修をスーパークローンという「技術」で補うことは本当に大切なことだ。
美術館の使命として保存・補修そして活用と、時に矛盾すらはらむ状況をいかに乗り越えて、この「財」を後世に正しく継承していくかが問われている。
本物より本物らしくすることによって得られる技術、ついには技術そのものを継承していくことになるわけで、偽物だといってしまえばそれまでだけど、偽物にも大義と思うのだ。
ツタンカーメン王墓の副葬品のレプリカもそれはそれは見事であったもの!
彼の者を「彼」とよばせる人間味と親近感そして王様とは権力のシンボルであり、やっぱり富は権力は同義だと納得させるものたち。
技術によって複製がオリジナルを超えて意義をもつ。
当初の意図や意匠をみることができるのはスーパークローンだからこそのもの。


さて、長野県立美術館のスーパークローン展示をさらに印象深くしたのが展示会開催の理由であった。
なぜにこけらおとしがスーパークローン展だったかということを知って、美術館にまつわる秘密にふれたようで、美術館という場所がいままで以上に興味深い場所となる。

 

 

 

それはまるで、美術館ミステリーシリーズ 「信濃のコロンボ 失われた時を求めて-敦煌の砂埃と長野の霧を消えた女」。


プロローグ
濃い霧がでてきた。視界はあっというまに白濁して隣にいるはずの人の姿もみえない。
霧はさらに濃くなり、周りの世界とどんどん切り離されていくなかで、空を見上げくっきりと浮かび漂う雲を食べたらどんな味がするだろうと夢見たころ、
頬を撫でていく風を感じながらわた菓子のようなふわふわの雲のうえで昼寝をしたいと願っていたころをおもいだしていた。

霧がうごき遠ざかる足音がきこえた。そしてうなり声のような一陣の風。
その風でわたしは霧ではなく、敦煌の砂埃に視界を奪われていたことに気が付いたのだった。
つつむような霧ではなく、なにもかもをのみこみ隠す砂。 

「そこにいるのは誰?」
風のやってきた方に顔をむけるとそこにはマメクロゴウチのワンピースに身を包んだ女が一人倒れていた。
手には食べかけのマドレーヌ・・・・・・・・みたいな。

 

 

新しい美術館の最先端の建築、すばらしい設備で最高のアートを提供するという理想を阻むゆゆしき事態、難問、大いなる事件がおこるのである。
それは誇るべき新しい美術館という箱の多くは鉄筋コンクリート造であり、つまりコンクリートが使われている。
躯体に打設したコンクリートや仕上材からアンモニアなどのガス成分で文化財や作品が変色をさせてしまうことがあるらしい
だからすぐには展示品搬入を避けるのだという。その時期約一年。
多くの人にすばらしい美術館を文化財や作品とすぐにでもとどけたいのに、一年間は枯らし期間として貴重な美術品等の展示ができないのである。
立派な美術館に美術品がないなんて事件以外なにものでもない!!

 

そこへ中村梅雀がコートをはためかしてさっそうと登場するかのごとくの救世主 スーパークローン。 


どんな難解な問題でもさらっと解決するコロンボのおでましである。
つまりスーパークローン展とは本物は展示できないが、本物以上の本物であり、美術館の使命を体現しうる展覧会となるということである。
美術館が本領を発揮できない不毛の時間をなくし、特別に企画された展覧会でアート界に爪痕をのこす展覧会。
何より、新しい美術館を早期開業させたいという思惑にもぴったり合致し、世界各地の至宝を集めた奇跡の展示ともなれば集客のネタもバッチリ!

とまあこんなあんなで記念すべき初めての展覧会としてスーパークローン展は開催されたのである(多分)
BGMは中島みゆきの「地上の星」ナレーションは田口トモロヲでお送りするドラマであり、
原田マハの小説のごとく。なんなら本家のコロンボも登場させとく?

 

すごいねーなんて赤子レベルの感想で展示をみてしまうけど、舞台裏やら準備段階を考えると展覧会ってなかなか壮大なプロジェクト。マドレーヌをたべなくても記憶と情景が解き放たれていくんだから。


行きたいと思った展覧会にはちゃんと行かないと後から後悔することになるのだよ。
日本全国各地にある立派な美術館をみて箱もの無駄遣いなんてことを1mmも思ってはいけないのだ。
最近アフター5に出かけるなんて、根性および体力がない夏バテ気味の自分に発破をかける必要あり。
ホックニー展は11/5 山口晃は11/19迄 ミヤケマイは今月中!

ちなみに文中に登場した霧は長野県立博物館アイコン作品である中谷芙二子の《霧の彫刻#47610》。
美術館の制服はマメクロゴウチのワンピース。

  マドレーヌは売っていない。

 


そして長野県立美術館は東山魁夷画伯の作品を展示している「東山魁夷館」を併設しており、こちでは真筆の幽玄に出会える。 
もうスーパー救世主となったクローン美術品には出会えないけど、本物に出会える場所になった長野県立美術館にまた行きたい!


あかべこE6系

2023-07-24 | ギャラリー

E6系

いわずと知れた赤い新幹線、東北方面。
雑な説明で申し訳ないのだが、門外漢なものですから多くは語るまい。
電車好きに語らせたら、それはそれは多くの謂れやら、エピソードがあるに違いないのだけど。

新幹線に乗った回数で言えば、圧倒的1位は東海道新幹線。
仕事でもプライベートでもお世話になっている。
だから新幹線といえば白とブルーの車体を思い浮かべる。
そして次に新幹線といえばこのカラー。

 

それがいつのまにか赤やら、青やら、エヴァンゲリオンカラーまでご登場。
車体カラーなんて気にしたことがなかったから、一口に新幹線といっても方面毎に色が違うなんて気づいているようで気がついておらず(つまり興味なし)だったけどこれを機に大いに気にしていこうと思っている。

 

これを機に。

 

コロナ明け、久しぶりに会津若松へ行った。
2019年9月 4年ぶりである。
前回の会津若松旅のハイライトは皆川精肉店の坦々麺。
かわいいブタのイラストとは対照的な刺激ある坦々麺を求めてでかけたのであった。


美味しかったなあ、また食べたいと2023年夏の会津旅行を計画したのにまさかの、閉店情報!

 

※写真は2019年のもの

よくよく調べてみれば移転で、現在は新店舗で華々しい営業とのこと。
この4年で閉店→移転→再開→変わらず大いに繁盛!
店名も皆川精肉店から「担々麺とお肉の会社みなかわ」へ変わっていた。

 

※2023年 今回行った新店舗

 

ああ、時の流れの早きことよ。
4年で変わったものと、変わらないもの。
店舗はピカピカで広くなり、雰囲気はかわっても味は変わらず、繁盛店なのも変わらず。

 

 

美味しいお店がコロナ禍を経て、なくなるのではなく進化して存在し続けるとことに安心してうっかり同じものを注文してしまった。 迂闊。
全メニュー制覇の野望は遠のくばかり。
何を食べたか忘れないうちに再訪するのが大事なのだと思い知る。
次回こそは夜の部にも行きたい!(←これも全く4年前と同じ感想を述べてしまった。)

 

いろいろ忘却な彼方の会津若松。
そして忘却の彼方に目をこらせば「あかべこ」のご登場である。

 

あかべこ

べことは東北の方言で牛のこと。
くびをゆらゆらと傾げる赤い牛。会津地方の張り子の郷土玩具。
体の黒い斑点は痘の治癒跡で病が重くならないよう疾病退散の意味もあるとか。
このご時世に見直され、注目されたみやげものでもある。

 

共通項は「赤」である。

新幹線E6系
みなかわの担々麺、麻婆麺
あかべこ

 

これを機にというのはつまりここへ通じていたのだ!
赤い新幹線にのって、会津若松へいって担々麺をたべ、あかべこを買うという機会のことである。


あかべこの家内安全・無病息災・疫病退散の効果に商売繁盛(みなかわの繁盛ぶりにあやかりたい!+JRの商魂の逞しさ!)のご利益も追加しつつここにあかべこE6系が誕生したに違いない。

 

きっと、そうだ!そうに違いないと買う人、ワタシ。
もちろんあかべこE6系の他にE5系、E7系もありますが、赤いべこだけに買うのならE6系が良い。黒い斑点は黒い窓、赤はまさに新幹線E6系のそれ。

 

 

思い起こせば、忘却の彼方のその向こうにあかべこ好きのワタシが見える。
まさかの2頭目。
あかべこ 一頭目はこちらから→会津若松七不思議 5の謎

 

 


鈍感力と感動力

2023-06-01 | ギャラリー
鈍感力という言葉がはやったのはいつのことであったか。

戯れに調べてみたら、渡辺淳一の著書によって流行語になったのであった。

本のタイトルだという記憶はあったのだが、渡辺淳一の著作であったことは覚えていなかったから意外な名前がでてきた感。



鈍感力
大事をなすには日々の些末なことに心を惑わされないようにと解釈し、ストレス要因を真っ向からうけとめるのではなく、
のらりくらりと上手にかわす能力という認識でよかったかと2007年を振り返る。
もうあれから16年もたっているのね・・・・。



あらためて鈍感力というスキルの大切さをかみしめているところである。
望むと望まざるとにかかわらず、抗うとも抗わざるとにも関わらずすべては、流れるべき方向に流れていくのである。
コロナを取り囲む状況なんてまさにその典型であった。
なるようにしかならないかったというのが、偽らざる感想である。



状況はいつだって変わるから、嫌な状況が続くわけではないと言い聞かせて、いろいろなことを乗り越えてきたわけで、確かにそうだと言い切れる経験値ももっているけど、この数十年で学んだことは嫌なことはカタチをかえてやってくるものだということである。
とどのつまり、嫌だなあと思うことが0になることはないのである。


なかなかの真理だとおもうけど どう?
そうすると呪文のように唱えるのは「鈍感力・鈍感力・鈍感力」。
すると嫌なことがあるのがスタンダードになって、日常の些細なことに心を乱されることもへるはずである。

鈍感力発揮しつづけると、仙人にできあがってくるのである。
日々の雑事への達観。
そして憂うべき事態につきあたる。
鈍感力発揮=不感症

日常の些末なことに惑わされないということは、日常の些細なことに動じないということであり、心動かないから、感動するということもないのである。
誕生するのは仙人ではくて生ける屍であったのだ。


頑張ってインプットしてるのにアウトプットができなくなっているのは、こういうことではなかろうかと暇にあかせて分析中。
これ以上重度の不感症になるのはいやだな。困るな。

面白いアートをみても「すごいね」の一言で片づけていけない!
去年のせっせと通った、新潟妻有の「大地の芸術祭」



















ちょっと残念なニュースもあったけど、
何かに気づくきっかけになったら幸いである。
論議の種火になったのならなおよい。

大地の芸術祭
修学旅行中の中学生が作品を破損
作品を破損されたクワクボリョウタの作品「Lost#6」
修復作業を経て再公開




※写真は修復前のもの

アートに興味がなくてもあるバンドのMVにつかわれた場所だと知れば行きたくなる人もいるにちがいないし、美味しいゴハン処もあるとなればいってみたい人もいるだろう。

マ・ヤンソン/MADアーキテクツ
Tunnel of Light

鈍感力に蝕まれた感動力を取り戻すためのアート。
最近は壮大に意味不明で考えても考えても理解不能で諦めざるをえないなんだこりゃというもものが好みである。
解らないのが当たり前、考え込んでも無駄だと前向きに諦められるこの経験こそがアートなんだと自分に落としどころをつけられるのがいい。
そしてそれを感動とよんでいる。

日々の落としどころが鈍感力によるものなのか、感動力によるものなのかで取り巻く世界は大きく変わるか考えるのは無駄な労力かそれとも。

万古の青天、霹靂飛ぶ

2021-07-24 | ギャラリー
練馬区立美術館 「電線絵画展」より早数ヶ月。一年の半分が過ぎて、オリンピックの開会式までたどり着く。
オリンピックなんてまだ先だと思っていたのにあっという間。
紆余曲折、賛否両論のオリンピックですが、本来の意義の通りスポーツの祭典として感動を届けてほしいものである。


わたくしも電線絵画を真っ直ぐに観に行ったのち、紆余曲折な線をだどり転勤やらなんやらで死にそうな日々。
暇で死にそうから、忙しくて死にそうで、行き着くの先はどんな死亡要因か。
おかげ様でコロナ禍に関わらず、家にいる時間がほとんどない。
こんなにバタバタしてるのにプライベートも仕事も中途半端になっているのが、モヤモヤの原因と思われ、こんがらがって、お団子状になったタイの街角の電線のようである。


そろそろ電線からの更新もしないとね。


仕事も忙しく、現実逃避(プライベートともいう)の充実を目指して。
せめて脳内ぐらいは好き勝手にさせていただき、願わくば思い描く理想の正夢化が実現すれば良い。

雲の糸のごとし4連休である。
夢すらみない連休初日、惰眠にうかんでは消えてゆく不思議な物語の2日目を経て、寝すぎて体が痛い3日目の連休中日。
ああ、もう休みの詰りが見えてきている。
目下、我が頭上の青天の霹靂、晴天の辟易を憂うことなく、夏の晴天の霹靂を愉しむためための休みであるのだ!


夏の夜空にあらわれた霹靂





オリンピックねえといいながら、感動を感じるのはあたしだけであるまいよ。




万古の青天の忽然とあらわれた霹靂



その名を「まさゆめ プロジェクト」というのだそうだ。
以下、アーティストによる言葉。
抜粋じゃなく是非、すべてを読んで頂きたい。
まさにいま社会が抱えるモヤモヤに対して、出来ること、やらねばいけない事をつかんでいる。
ある日突然、空に浮かぶ大きな顔が意味するところ。
以下、ホームページより転載。

公式ホームページ まさゆめ

私たちが直面している現在の危機。この中では「何かを計画して実行する」という、私たちの行動の根幹を支えてきた構造そのものが崩れている。もう一年余り続いている危機の中、その日々の実感は、地に足をつけ確実に歩んでいるはずの現実であるにも関わらず、まるでずっと先の未来のように、とても不確かで実態をはっきりと捉えることができない。日々見聞きすることになった医療や経済という観点は、言うまでもなく欠かすことができないものであるが、しかし、この現実を捉え、それを受け入れるには充分ではなく、別の観点「ものの見方」が必要である。チリのコピアポ鉱山落盤事故(※1)では、69日間地下深くに閉じ込められた鉱山作業者たちが、困難な生活の中である日から突然、牧師や医師、記者となって、暗く狭い空間の中に「小さな社会」を見出した。「ものの見方」は、時に私たちの生存にも直結する。
人流の災害ともいわれるこの危機は、間違いなく人類によってもたらされたものであるが、いまだに受け入れ難くやり場のない感情さえ抱くことがある。しかし、どんな困難な状況であっても私たちはそれを見ようとし、感性を持ってそれを捉えようとしなければならない。何かを見出すのは後からでもいい。誰に頼まれたわけでもなく既にここに存在する人類は、これまでも広く大きな視野を持って、想像によって「後から」この世界やその存在の意味を見出してきた。この危機の渦中、それはとても難しいことだが、しかしそれでも、私たちはものを見ることを諦めてはいけない。

唐突に巨大な顔が東京の空に浮かぶ。
「当時14歳のどこにでもいる日本の少女が見た夢」のごとく、はっきりとした理由が添えられることのないまま、日常を一瞬無化するように、前もって予告することなく、突如として実施する《まさゆめ》。この実在する誰かの顔は、SNSやメディアを通して、様々な場所から多くの視点によって眺められることになるだろう。そして、その顔はこのパンデミックの空から私たちを見返している。まるで、この状況に加担しているのは紛れもない私たち自身であるというように。
《まさゆめ》は、この困難と向き合い続ける。何かを見出すその時に向けて、どんな時も想像を続けそれを分かち合いたい。


目[mé]




夢に見た光景を実現させるまさに「まさゆめ」、我が願望であり、野望の小さい事よ。
惰眠を貪り、現実逃避をしている場合じゃない。
はじめの一歩すら進めない自分の愚かさを棚に上げて、
わたしがあいつと、あいつを踏んづける日も近い!←どんな夢だよ!
どんな言葉をもってして、この夢のステートメントとすべき。






見るべきは主役は電線である

2021-03-27 | ギャラリー
あまりにも見慣れすぎて、なんの感慨も感想もないけど、世の中にはなんともまあ酔狂ともいうべきマニアックさでそれを見つめる御仁というものが存在するという驚きを愉しむ美術展が絶賛開催中。
マニアックすぎるお題は見てはいけないものを見てしまうような興奮もともなって、期待は膨らむばかりである。

練馬区立美術館 「電線絵画展」



我が人生においてこんなにも電柱を愛し、電線を愛でる唯一にして最大の好機が訪れました!
この機会を逃すと電線や電柱に目を向け、思いを馳せる機会なんていうものは金輪際ないと言い切れるからいそいそと出かけていく。

電線が珍しく、文明開化の花形であった頃の浮世絵。
現代アートのオブジェにも通ずる碍子(がいし)の造形美。
電線に美を見出す画家たちの美意識に触れることができて、ここ数日はうっとりと電線を見つめる視点を手に入れたあたくし。





青空に桜、そこを横切る黒い電線すら愛おしい日本の季節美の光景。
ああバンコクの芸術的に絡まった電線を支える電柱の力強さ。


*バンコクの一コマ  この電線の絡み具合はartyと思って激写した一枚

何気ない日常をアートにかえるその視点、嗚呼、麗しき都市の産物という感慨を共有をいたしませんか、一緒に。


*大好き山口晃のエルメスでのインスタレーション  ガチ電線電柱。

こんな(言い方が悪くて申し訳ないが)超ニッチな企画展を小さな美術館にみに来る人なんかこの世には私一人に違いないと閉館間際の美術館に駆け込めば、思いの外、電線絵画を鑑賞している人が多くて、驚きを通り越して感動である。
景観の邪魔になるからと地中に埋めれれ、疎まれ感もある電線ではあるけど、1cmの電線にも五分の輝きを見出す人のなんと多いことかよ。(自分も!であったことに今更気づく。)
こういう企画を出して展示会として開催しちゃう美術館のセンスとチャレンジ精神に胸が熱くなる。
展示会として成立するぐらい巷に電線、電柱をモチーフにした作品が多数存在することにも衝撃である。


いろんな意味で衝撃的な「電線絵画」展。
人間的に一回り大きくなれたような気になれるのも「電線絵画」の効果と楽しみ方なのかもしれない。
美術館を出る頃にはすっかり電線愛好家。
図録まで買ってしまったわたくしも酔狂な物好きな一人なのであるから、そこんとこ胸を張って生きていこうと思っている。












が、

周囲にこの美術展の良さを熱く語ったところ「うっかり」レベルだよと引かれてしまったから電線はやはり地中化されるべきかもしれない。




今年のThe Last Supper

2020-12-27 | ギャラリー
The Last Supper 最後の晩餐



今年は忘年会、クリスマス、年末感もまったくなくて、一年なんだったのかというぐらいの早さでここまでたどりつく。
大好きな人たちと好きな時に、好きなように会えないのが残念でならないけど、きっと不毛とも思えた時間から生まれる何かもあるのだろう。
そう気づくのは来年になるのか、数年後になるのかわからないけど、ここから学び、変化のきっかけになったと思えればいいなあ。

今年最後の晩餐は鴨のロースト。
ちょっと贅沢に。
静かにしみじみとゴハン、家人と。
出かける時はマスクを忘れずに。




アート納めは長場雄のThe Last Supperでありました。







シンプルな線で描かれるイラストレーション。
あちこちでお見かけする機会があって、満を持してのエキシビション。
大好きな最後の晩餐をモチーフにジョン・レノンや、デヴィッド・ボウイも登場。
やはり晩餐は皆んなでワイワイと密密でやってこそである。
イラストの人物ですらマスク姿で描かれて、違和感がない状況に違和感を感じられる日がはやくきて欲しいものである。


稀代の静かな年末まで残り数日。













パラミタ 波羅蜜多

2020-11-25 | ギャラリー
宗教についてはほとんど知識がなく、無宗教といっている。
とはいえ、人智を超えた存在は信じているからそれを神=宗教とするなら、私はなにかしらの信者であろう。
一神教のストイックさは持ち合わせていないから、神羅万象に神はおわすという考え方であり、付喪神もいると思うし、強大で雄大な自然や現象にはやはり人を超えたものをみる。色変わる大海原、雲が覆う山の頂、そびえ立つ太古の木々すべては神だ。
腹ペコの炊きたて新米のおにぎりも神、積まれた帯付きの紙幣も崇めたてられ神になる。


神を見た。


神は優雅で圧倒的で、慈悲であり、祈りであった。
偶像を禁止されているイスラム教であっても厳かなアザーンが流れる中、モスクに行けばそこは神聖な場でより近くに神を感じ、限られた光の中で仏を見上げれば、慈愛の視線で庇護を感じる。
それらは単に作られた建物や像ではなく、神の気配を感じさせるもの。
となれば芸術は神に捧げられる供物なのである。

パラミタミュージアム
このかわった名前のミュージアムで没後30年 須田剋太の回顧展が行われている。
司馬遼太郎の『街道をゆく』挿絵の須田剋太といえばわかる方も多いだろう。




力強い原画の数々。
印刷ではわからなかった絵具の盛り上がり。
書画の勢い。
凛とした感触は寺社仏閣の気配。
画伯のパレットはオブジェと化し、厳かに鎮座する。





須田剋太の作品を目指してこの美術館に来たのだが、常設も素晴らしいものであった。

池田満寿夫 圧巻の波羅蜜多シリーズ
美術館名もこの波羅蜜多から転じ、パラミタと名付けられている。
美術館の根幹とも言うべきこの作品群は神々しいほどの存在感であった。
異国の神々のような派手さはないけど、日本の八百万の神の一つであることは間違いない。
書、画、陶、映像、文学、版画そして料理と多彩で異彩をはなった芸術家を私は池田満寿夫の他に知らない。
その多彩さから生まれた般若心経を刻んだ陶板やら、仏をみていたら、ああ神は芸術を愛するのだと思ったのだ。

ツチクレや、石ころ、ひいては無より姿を取り出す人に神の奇跡をみる。

こうやって地方の小さな私設美術館で心動かされる作品に出会うことを一言で言うなれば「神」という。


腹を満たす美味しい浮世絵

2020-09-01 | ギャラリー
コメディを演じることができる役者が一流説というものをきいたことがある。
シリアスな演技よりコメディ。くすりと可笑しみを紛れ込ませることができてこその本物だというのだ。
誰が、誰をさしてそういったのかうろ覚えだけど、確か三谷幸喜が女優 沢口靖子を評していっていたような。
真剣に真面目に演じれば演じるほど滑稽に映る、それが芝居の魅力になるというような趣旨だったと記憶する。
確かに、お笑いの芸人として一流の方が、同時に役者としても超一流であることも多いもの。
いかりや長介、志村けん・・・・他多数。
 
喜怒哀楽の喜が際立つからこそ怒哀がはっきりして、楽がはじける。
涙が流れていればそこに悲しみはうまれるけど、口角をもちあげるだけでは喜は生まれない。
人が必死に生きている姿ほど滑稽なものはなく、不条理であればあるほど時に笑いを誘う。
それをさらりとみせることができてこその一流俳優なのである。
あらためて俳優という職業の深淵をのぞく
 
 
話題の「半沢直樹」
最終回 幹事長役の柄本明の怪演っぷりといったら!
脱兎のごとく逃げ出す可笑しさが、物語のカタルシスとなって最高の場面であった。
あちこちで絶賛の声があがっているけど、まさに役者の凄みを見せつけられた感。
 
 
喜劇同様、「食べる」という行為も演者の本質が透けてでてくるから、
食べる演技というのも難しいものらしい。
 
何気ない動作に感情の片鱗をみるから、見る側は心が揺さぶられてしまう。
食べるのが巧い俳優で思い出すのは岸田今日子。
原作 柴田錬三郎  主演 渡辺謙 「御家人斬九郎」
渡辺謙演じる斬九郎の食べるの大好きお母上 麻佐女役の岸田今日子。
麻佐女様の見事な食べっぷりとキュートさといったら天下一品である。
 
食い意地のはった居丈高な性格を
上品さとユーモアでくるんで嫌味なのに可愛いいという類まれなキャラクターに仕立て上げてしまった。
江戸きっての名店から取り寄せるご馳走を「うん、うん」と賞味するする姿からは後光がさしている。








お重につめられた料理のおいしそうなこと、ウナギのかば焼き一切れ、ぶーぶー文句をいいながらも食べている
一汁一菜のめざしだけのお膳もご馳走にみえる演技力
 
江戸時代は今につながるグルメブームの先駆けであったことを思い起こさせ、
見る人を仕合せにして、けむに巻いたところで、あたしもおいしいものを味わいたい。
何を? 江戸グルメの何を? 何が美味しい?
 
 
いろんなことが思い通りにいかなくて、落ち込む日にこそ美味しいものを!
こんな日にこそ気分転換は必須である
麻佐女様のように美味しいもので浮世のウサを忘れて安穏と一日を終えるべし
美味しい浮世絵展
 


このコロナ禍、勢いででかけてみれば夕刻の美術館は貸し切り状態。






やれ花見だ、祭りだ、お芝居だとかこつけて季節の美味いものを旬にあわせて食すべし。
食べることがイベントとなり、ひいてはそれが人の一生の糧となり。
天ぷらの衣に目をこらし、宿場の名物にヨダレをたらす。


 
喜怒哀楽どれが欠けても日常は面白くない
何かに怒ってもいい、哀しんでもいい。 
喜んで、楽しいのは負の感情があるからこそ際立つ。
コロナ禍でであったことのない感情や苦境を咀嚼して飲み下すことは本当に難しいことだけど
それを消化することが大切とばかりに
続く訃報を振り払うように美術展の開催情報をチェックする。
美味しい浮世絵にみるおいしい人生。
コロナが怖いか、コロナがあぶりだした不安がストレスか、そのストレスを消化できないことが怖いのか。
消化できないのなら消化不良で調子が悪いと認めて、声をあげることが大事なんだと
美味しい浮世絵を整腸薬に。
こんなご時世だからこそ美術展ひとつがこんなにもありがたいなんて。


記憶の珍味

2020-04-26 | ギャラリー
食べることだけが楽しみとなり、行き着く記憶。
記憶美術館便り

2020年 1月18日〜3月22日 諏訪綾子展 「記憶の珍味」









「食」を通して感情、記憶などを表現する諏訪綾子。
こんな切口で表現する方法があるんだと感嘆した福光屋とコラボしたエモーショナル エッセンス。
過去ログ 感情のテイストについてはこちらから→酒×感情

感情を味わうなんて考えたことなかったけど、それをアートにまでしたということに非常に興味を持ったのが出会いであった。
よく考えてみれば喜びを噛み締め、苦渋を舐めるのだから他の感情も味わうことができるんだと納得ができる。

それからのち、偶然にも金沢21世紀美術館で「感覚で味わう感情のテイスト」というインスタレーションをみることができて非常に興奮したのを覚えている。
美食、グルメ、栄養学から見地からも一線を画す「食」に接する機会は貴重。
感情、記憶、感覚にアプローチする「食」なんていつもの朝食、昼職、夕食の「食」ではないからな。


今回初めて幸運にもその作品を味わう機会を得た。
美味しい、不味いをも超越した作品然とした「食」はどんな味がして、どんな感情を味わわせてくれるのでしょうか、期待は高まるばかり。

手渡された記憶の珍味の味わい方

いくつかの「ある記憶の匂い」を嗅いでひとつ選ぶ。
それをスタッフに伝え、チケットをうけとる。
記憶の珍味を味わうブースへ入る。

アーティストの言葉によると
匂いは考えてるのではなく感じるままに直感で、記憶をいちばん鮮やかに呼びさますものを。
食べるか食べないかは自由。
記憶珍味が味わえるかもあなた次第。




手渡された味わいかたに目を通して、自分のための匂いを探す。
むせかえるほどの香り、ひそやかな香り、湧き立つ香り、漂う香り。
標本のように用意されたいくつかの匂いは香水のようでもなく、浮世離れした不思議な匂い。不思議な記憶。

その中から選んだ私の記憶。
記憶の珍味。

孤独と自由
鮮やかな藻が生えている。緑がかってよく見えないけれど、水槽の中できっと自由を謳歌する金魚。
ずっと雨が降っている。
濡れなくて誰もいないけれど部屋の中で時間をもて余すわたし。
満たすものがない、比べるものがない。何もない。誰もいない。答えがない。きっと孤独。
だけど心地よいたぶん寂しい。もしかしたら自由。


そんな味。
なかなかおもいもよらぬ衝撃的な体験(味)でありました。
あれから1ヶ月後、部屋の中で時間をもて余すわたしの味を記憶の中から引っ張り出す日が来ようとは考えだにせず。
記憶の美味ではなく、まさしく珍味の記憶。

あなたの記憶の珍味は?


期待して当たり前なんだし。

2020-04-26 | ギャラリー
暇で死にそうで。

毎日繰り返される自粛に次ぐ、自粛の勧告。
志村けんさんに次ぐ、岡江久美子さんの訃報、増え続ける感染者数、死亡者数。
外出を減らすことでしかコロナ禍には立ち向かえないから粛々と自宅待機、時々目一杯仕事。


皆がそれぞれ最大限の努力をしているかもしれないけど、それぞれの分母が違うから一言で自粛といってもなかなか難しい。
それぞれが個々に置かれた中で最大限の努力すべきことだけは事実。
すると、暇で死にそうでという思いも浮かんでは消え、浮かんでは消えとなんとも複雑な気分なってくる。
暇で死にそうでというだけで不謹慎感が漂うからな。
でも、当たり前に旅行にも行きたいし、買い物にも行きたいし、美術館にも行きたいと思うのは現実として仕方ないし、その楽しみをご褒美に乗り切るしかない。
それまでは仮想旅行、睡眠ショッピング、記憶美術館で行ったつもり、買ったつもり、見たつもり。

記憶美術館より
2013年 イチハラヒロコ展 「期待して当たり前なんだし。」



改装中の仮囲いにイチハラヒロコの刺激的な言葉が作品として展示される趣向であった。
googleのcmでも有名なった「恋みくじ」。→恋みくじ体験談

日本語がわからない国で「万引きするで。」と書かれたショッピングバックを配るというインスタレーションをするイチハラヒロコ。
ゴシック体で表現される言葉はシニカルで力強く目に心に、飛び込んでくる。

イチハラヒロコの作品はまっすぐな説得力があるから肯定力が半端ない。
しんどいはずの状況でも、悲観するのでなく受け入れて消化しちゃおうという気概を感じる。
これを希望というのだし。
だから御宣託にも似た有難さ。



まずは良きにつけ悪しきにつけ肯定してみるという積極性がいまのこの状況では大事!きっとそう!
コロナ禍の世の中にイチハラヒロコ作品を置いてみると含蓄と皮肉さが際立ってさらに秀逸になるのも興味深い。
是非、今の状況を想像してからイチハラヒロコの作品を味わってください。
もちろんポジティブにもなれるからスバラシイ。









何をいつ思い出すかはその時になってみないと分からないからこそ、
好奇心は常に新鮮でないとダメだと思っている。
現況ではその好奇心を満たす術は多くないけど好奇心は腐らせずにしよう。
最近、個展をやってないようですが状況が、好転した頃、イチハラヒロコ 新作を見れたらいいね。