本日(1月22日)の朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”の相談を読んで、ついに我が亭主が配偶者である原左都子の“落ち度”を公に訴えるべく新聞投書行動に出たか!?? と一瞬焦った私である。
冗談はさておき、普段亭主の話題をほとんど出さない「原左都子エッセイ集」であるのだが、それはある側面から考察すると我が夫婦関係が比較的良好である証拠とも言えるであろう。
はたまた別の見方をすれば、それは家庭内における“独裁者”ともいえる立場の原左都子の独りよがりの感想に過ぎず、あちらは日々大いなるストレスを溜め込んでいるとも想像できるのである。
それでは早速上記“悩みのるつぼ”に寄せられた60代無職男性による 「口汚い妻にうんざりです」 の相談内容を、以下に要約して紹介しよう。
妻も私も70歳手前であり、3人の子どもは独立している。 結婚前、妻を口数が少ない理知的な女性と思い結婚を決意した。 ところが結婚後、性格がひどく強く妥協を知らない頑固な人間だと分かった。 やがて長女が産まれた後妻は母としては模範的であるが、私とは衝突するばかりで私は離婚に同意した。 長女は私が引き取り、“離婚”とは言えども妻が直ぐに戻ってくると読んでいた反面、いざ妻がいなくなると自分の我がままでこうなったと反省し結局復縁した。 その後さらに2人の子供に恵まれたが、相変わらず妻の口汚いののしりに悩まされたが子どもが独立するまでと耐えた。 今は妻と2人きりの生活だが、もう10年以上家庭内別居状態である。相変わらず口汚い妻を殺したくなる時もある。 家庭内暴力は女性が被害者とされているようだが、私のような男もいる。 今後、このような妻とはどのように婚姻を続けていけばよいのか?
この相談を読んだ直後の原左都子の私論を述べよう。
結婚・離婚・復縁後70歳手前にして尚、それ程までに妻のことを受け入れ難いと言うならば、妻側とても、そんな夫はこちらこそ願い下げたいと言うものだ。 今すぐにでも「とっとと離婚すればいいじゃん!」 それのみである。
それはそうとして、何だかこの相談に書かれている「妻」とは確かに私に似ているのだ。
原左都子が理知的であるかどうかはともかく、決して元々口数が多い人種ではないと自己診断している。 (私の場合は若い頃よりいつ何時も“客観性”を重点に置いているため、集団内や複数の人間と会合する場合など、とりあえずは多角的視野で周囲の状況判断をしたいがためにいきなり自分から多言を吐くことは皆無である。)
そのため、特にさほど親しくない人々の評価によると「おとなしい」などと言ってもらえることも昨今問わず少なからずあるのだ。 つい先だっても高校時代の同窓会に出席したところ、私のことを“おとなしい人だと思っていたのに何だこの変わりようは??”などと感じた男性も存在したようだ。
ところが人間とは誰しも、元々多面性を内在させている生き物である。
人間とは相手の多面性を洞察できるキャパを備えるべく努力するべきであり、決して相手の“上っ面”に惑わされて安直な判断を下してはならないのだ。 自分の相手を見る目の薄っぺらさを棚に上げて、相手の人格が歪んでいるとか、あるいは変わったなどとの安直な結論を導かれたものでは評価される側としてはたまったものではない。
話を“悩みのるつぼ”の相談に戻して、この夫婦は子どもを一人設けた時点で一度離婚しているのだ。
ところが復縁を申し出たのは、妻に嫌気がさした相談者本人である夫の方である。 その時には、この夫は自分の我がままも認めた上で元妻に復縁を迫ったとのことである。 そして復縁後さらに2人の子どもを設けた程の夫婦仲ならば、年老いた今となってはもうそろそろ妻のプラス面での持ち味も認めたらどうかと、同じく妻の立場の原左都子として言いたくなるというものだ。
にもかかわらず、70歳が近い今にして尚妻への不平不満が夫の内面で渦巻いているとは、これはもはや夫である相談者本人の責任範囲の問題であろう。 こんな“キャパ貧”亭主をいつまでも抱え続けねばならないとすると、妻側としてもとことん嫌気がさすというものである。
ここで、今回の“悩みのるつぼ”の回答者であられる 作家・車谷長吉氏 による 「人形を抱いて寝られますか」 と題する回答内容の一部を、再び原左都子の私論を交えつつお伝えすることにしよう。
どうやら、車谷氏が48歳にして晩婚に至った結婚生活は今に至って尚円満であられるようだ。
車谷氏の長い独身時代の夜には、夏目漱石氏「三四郎」の登場人物からとった“美禰子”と名付けた「木目込み人形」を日々抱いて寝た時代もあられたとのことである。 その後、高齢にして婚姻が叶った奥方と今尚仲睦まじく人生を歩まれている車谷氏の“つめの垢”でも煎じて飲ませていただきたい思いの原左都子でもある。
車谷氏同様に晩婚にて婚姻に至った原左都子の場合、独身時代に「木目込み人形」を抱いて寝た経験もなければ、婚姻後も夫婦が仲睦まじい訳ではなく“円満”などとは表現しかねる関係の家庭である。
それはそうとして、夫婦仲が如何に老後もうまく機能するべきかに関して推し量った場合、それは子供の成長とは係わりのない、夫婦個々人の事象と結論付けられるのではなかろうか?
今回表題とした「熟年離婚」に関しては、一時その現象が流行った時代もあったように記憶している。 国が世界的競争力を完全に失っているこの経済難の今時、熟年を迎えられているご夫婦の奥方も税法上や年金制度上その“取り分”が益々少なくなることを実感して、今は「熟年離婚」を断念してご亭主の老後を支えるべく精進されているのであろうか??
それにしても70歳近い熟年層の亭主側の、我が妻を批判し続ける短絡的発想の馬鹿さ加減にも辟易とさせられる思いの原左都子である。
本当に切り捨てられた場合、実はどちらが惨めなのか、各ご家庭の熟年ご亭主はよく考えるべきなのだ。
冗談はさておき、普段亭主の話題をほとんど出さない「原左都子エッセイ集」であるのだが、それはある側面から考察すると我が夫婦関係が比較的良好である証拠とも言えるであろう。
はたまた別の見方をすれば、それは家庭内における“独裁者”ともいえる立場の原左都子の独りよがりの感想に過ぎず、あちらは日々大いなるストレスを溜め込んでいるとも想像できるのである。
それでは早速上記“悩みのるつぼ”に寄せられた60代無職男性による 「口汚い妻にうんざりです」 の相談内容を、以下に要約して紹介しよう。
妻も私も70歳手前であり、3人の子どもは独立している。 結婚前、妻を口数が少ない理知的な女性と思い結婚を決意した。 ところが結婚後、性格がひどく強く妥協を知らない頑固な人間だと分かった。 やがて長女が産まれた後妻は母としては模範的であるが、私とは衝突するばかりで私は離婚に同意した。 長女は私が引き取り、“離婚”とは言えども妻が直ぐに戻ってくると読んでいた反面、いざ妻がいなくなると自分の我がままでこうなったと反省し結局復縁した。 その後さらに2人の子供に恵まれたが、相変わらず妻の口汚いののしりに悩まされたが子どもが独立するまでと耐えた。 今は妻と2人きりの生活だが、もう10年以上家庭内別居状態である。相変わらず口汚い妻を殺したくなる時もある。 家庭内暴力は女性が被害者とされているようだが、私のような男もいる。 今後、このような妻とはどのように婚姻を続けていけばよいのか?
この相談を読んだ直後の原左都子の私論を述べよう。
結婚・離婚・復縁後70歳手前にして尚、それ程までに妻のことを受け入れ難いと言うならば、妻側とても、そんな夫はこちらこそ願い下げたいと言うものだ。 今すぐにでも「とっとと離婚すればいいじゃん!」 それのみである。
それはそうとして、何だかこの相談に書かれている「妻」とは確かに私に似ているのだ。
原左都子が理知的であるかどうかはともかく、決して元々口数が多い人種ではないと自己診断している。 (私の場合は若い頃よりいつ何時も“客観性”を重点に置いているため、集団内や複数の人間と会合する場合など、とりあえずは多角的視野で周囲の状況判断をしたいがためにいきなり自分から多言を吐くことは皆無である。)
そのため、特にさほど親しくない人々の評価によると「おとなしい」などと言ってもらえることも昨今問わず少なからずあるのだ。 つい先だっても高校時代の同窓会に出席したところ、私のことを“おとなしい人だと思っていたのに何だこの変わりようは??”などと感じた男性も存在したようだ。
ところが人間とは誰しも、元々多面性を内在させている生き物である。
人間とは相手の多面性を洞察できるキャパを備えるべく努力するべきであり、決して相手の“上っ面”に惑わされて安直な判断を下してはならないのだ。 自分の相手を見る目の薄っぺらさを棚に上げて、相手の人格が歪んでいるとか、あるいは変わったなどとの安直な結論を導かれたものでは評価される側としてはたまったものではない。
話を“悩みのるつぼ”の相談に戻して、この夫婦は子どもを一人設けた時点で一度離婚しているのだ。
ところが復縁を申し出たのは、妻に嫌気がさした相談者本人である夫の方である。 その時には、この夫は自分の我がままも認めた上で元妻に復縁を迫ったとのことである。 そして復縁後さらに2人の子どもを設けた程の夫婦仲ならば、年老いた今となってはもうそろそろ妻のプラス面での持ち味も認めたらどうかと、同じく妻の立場の原左都子として言いたくなるというものだ。
にもかかわらず、70歳が近い今にして尚妻への不平不満が夫の内面で渦巻いているとは、これはもはや夫である相談者本人の責任範囲の問題であろう。 こんな“キャパ貧”亭主をいつまでも抱え続けねばならないとすると、妻側としてもとことん嫌気がさすというものである。
ここで、今回の“悩みのるつぼ”の回答者であられる 作家・車谷長吉氏 による 「人形を抱いて寝られますか」 と題する回答内容の一部を、再び原左都子の私論を交えつつお伝えすることにしよう。
どうやら、車谷氏が48歳にして晩婚に至った結婚生活は今に至って尚円満であられるようだ。
車谷氏の長い独身時代の夜には、夏目漱石氏「三四郎」の登場人物からとった“美禰子”と名付けた「木目込み人形」を日々抱いて寝た時代もあられたとのことである。 その後、高齢にして婚姻が叶った奥方と今尚仲睦まじく人生を歩まれている車谷氏の“つめの垢”でも煎じて飲ませていただきたい思いの原左都子でもある。
車谷氏同様に晩婚にて婚姻に至った原左都子の場合、独身時代に「木目込み人形」を抱いて寝た経験もなければ、婚姻後も夫婦が仲睦まじい訳ではなく“円満”などとは表現しかねる関係の家庭である。
それはそうとして、夫婦仲が如何に老後もうまく機能するべきかに関して推し量った場合、それは子供の成長とは係わりのない、夫婦個々人の事象と結論付けられるのではなかろうか?
今回表題とした「熟年離婚」に関しては、一時その現象が流行った時代もあったように記憶している。 国が世界的競争力を完全に失っているこの経済難の今時、熟年を迎えられているご夫婦の奥方も税法上や年金制度上その“取り分”が益々少なくなることを実感して、今は「熟年離婚」を断念してご亭主の老後を支えるべく精進されているのであろうか??
それにしても70歳近い熟年層の亭主側の、我が妻を批判し続ける短絡的発想の馬鹿さ加減にも辟易とさせられる思いの原左都子である。
本当に切り捨てられた場合、実はどちらが惨めなのか、各ご家庭の熟年ご亭主はよく考えるべきなのだ。