原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

閉塞感からの脱出

2009年04月17日 | その他オピニオン
 朝日新聞夕刊文化面に「閉塞感のほぐし方」と題する連載記事があった。
 一昨日の4月15日(水)の記事がこの連載シリーズの最終回だったのだが、“自分を笑う”と題して、美術家・森村泰昌氏の作風とそのバックグラウンドの思考について取り上げてられていた。


 その記事を部分的に抜粋して、要約してみよう。

 この人まで泣くのか。 秘書が政治資金規正法違反の罪で起訴されたことを受けての会見の場で小沢一郎民主党代表が涙するのを見て、森村氏はこう感じ、「今は人が大げさに泣き、悲しむ傾向にあり、皆が悲劇のヒロインになりたがっている。個人もマスコミもそちらに傾いてゆく。」と述べる。多くの人が職を失い、「砂上の楼閣のような実体のない好景気が消えた大変さやむなしさはわかるが、悲劇を求める気持ちが助長している気もする。」
 そこで、森村氏は“自分を笑う”ことにより気持ちに奥行きが戻ることを、自らの作品において提案する。
 他人を笑い他人に笑われる前に“自分を笑う”ことについて、森村氏は「笑いの先制攻撃」と呼び、「笑いには向上心はあまりないかもしれないが、自分を笑えれば、落ち込みそうな時でも、人間誰もが持つおかしみに気付き、免疫力が働くと思う」とこの記事において述べられている。


 さて、話をガラリと変えよう。

 この春、我が子が中学を卒業し高校へ進学した。9年間の義務教育期間が修了し、これが子育ての一区切りとなり、母であり、子どもが幼少の頃よりのお抱え家庭教師でもある私の子育て負担が大きく軽減するのかと楽しみにしていたのであるが、甘い考えは既に打ち砕かれている。
 我が家では、子どもの大学進学に向けての準備作業が早くも稼動したのである。
 幸いなことに、我が子の場合は本人の大まかな将来の希望分野が既に決定している。後は更なる分野の絞込みと、その分野の大学受験準備作業に入ればよい訳で、ある程度の方向性は描けているという意味において我が家では第一段階は既にクリアしている状況にある。
 親として今やるべきことは、子どもの将来の夢を叶えるべく後ろ盾をすることであろう。本来ならば、子どもの“明るい未来”に向けてのバックアップとは、親としても大いにうれしい業のはずである。

 ところが、その準備作業に早くも着手した私は現在、どんよりとした暗雲が立ち込めるがごとくの閉塞感に苛まれているのだ。
 この閉塞感の原因は既に自己分析済みである。それは上記の朝日新聞の記事内容と重複するのである。

 ♪あかるい未来に、就職希望だわ~~ イエイエイエイ~~ みんなも社長さんもイエイエイエイ~~♪♪(モーニング娘。「ラブマシーン」より引用) と歌って踊れた10年前の時代は、今思えばまだしも救われた。
 今や、100年に一度の経済危機の真っ只中である。まさに砂上の楼閣だった実態のない好景気は跡形もなく消え去り、人の心に虚しさばかりが漂う。

 子どもが夢を描いてその夢に向かって努力し続けたところで、その夢の受け皿が将来の社会に存在し得るのか? 我が子の場合、幼少の頃よりサリバン先生(私のことだが)の厳しい指導に忠実に従い、(まだまだ未熟ではあるが)自分なりの夢を描き、その夢に向かって努力を続けることの出来る能力を育んでくれている。そんな我が子が今後共大きく道を踏み外すことはほぼないであろうと、親としては一応展望している。(踏み外しそうになった場合、それをいち早く察知して対応できる一通りの自信も私にはある。) そのような未成年者の健気な努力が実を結ぶ受け皿が、近い将来の政治経済社会にあるとは到底思えないために、私は閉塞感に苛まれるのである。

 だが、こういう親の“閉塞感”を子どもに悟られてはまずいことも認識している。まだまだ社会の実態を体系的に把握できていない子どもの夢を、親の“閉塞感”で潰してしまうことは避けたいものである。 とにかく私が現在なすべき業は、表向きは健全に、子どものバックアップを陰ながら続行することであろう。


 そういう時には、美術家の森村氏がおっしゃるように“自分を笑って”みるのもよいのかもしれない。私には元々他人を笑う趣味もなければ、他人から笑われる機会もないと思っているのであるが(陰で後ろ指をさしている人がいるのかもしれない…)、それはともかく、閉塞感に陥った時にはまずは自分を笑える題材を探してみるのは効果的であるようにも思う。

 上記の朝日新聞記事には、「自分を笑える人が増えれば笑いの質が高まり、悲しみや怒りといった感情にも奥行きが回復される」との記述もある。
 医学的にも「笑い」がもたらす免疫力は実証されつつあるようだが、経済的危機の時代がもたらす閉塞感打破のために、とりあえずこの私も“自分を笑う”ゆとりを持ってみようか。  
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居酒屋の居心地

2009年04月14日 | 
 先だっての朝日新聞記事によると、居酒屋が繁盛する3大条件は「料理の質」「従業員のサービス」「店の衛生」であり、これらの要件のうち一つでも欠けると店の売り上げ不振に繋がるとのことである。

 確かにこの3大条件は、心地よく飲むための周辺環境として大いに重要な要素である。
 そのうち、飲兵衛の私が特に重要視するのは「従業員のサービス」であろうか。


 先だっても、4名で居酒屋の暖簾をくぐった。まだ開店後まもない時間帯で、客席はガラガラに空いている。このような場合、客の好みの席の希望を叶えてもらってもよさそうなものだが、係の店員が案内したのが電車のボックス席のごとくの窮屈な席で、4名が座ると鞄や上着を置く余裕さえまったくない狭さだ。
 「すみませんが、あちらの席でもいいですか?」と私が5名が座れるテーブルを指差すと、「あちらは、予約席です。」とのことで、やむを得ず案内された狭い席で飲む事となった。
 その後、予約席の主(ぬし)の5名が来店し、我々同様に「狭いので違う席にして欲しい」と店員に要望している。どういう訳か今回はその要望は聞き入れられた模様で、そのグループは広々とした席へ移動した。
 結局我々が飲み会をお開きにするまで、店内はガラ空きであった。

 こういうサービスの“不公平感”は、何とも居心地が悪いものだ。しかも店内は空席だらけの時間帯であるのに、懐大きく臨機応変な対応が出来ないものか、と落胆させられたものである。

 同様に、居酒屋に限らずレストランや喫茶店等においても、案内された“席”をめぐって不満を感じることはよくある。 どうも、客の居心地の良さよりも店員の働き易さの方を優先して席決めをしている店は多いようだ。空席が多いのに、客を店内の一部にまとめて座らせる店は多い。皆さんもご経験がおありのことと思うが。
 また、店の勝手な判断で女性客のみを店の片隅にまとめてみたり、年齢や家族構成等に応じて席の場所をある程度決めている店もよく経験する。私の希望としては、むしろ異質なグループをごちゃ混ぜに配置して欲しいものだ。同類同志とは話題が接近することが多く、席の隣近所と話の内容が交錯してしまい、周囲に遠慮して思い切って話せず欲求不満な飲み会となる経験がよくある。
 とにかく、居酒屋における“席”とは重要なポイントである。客の席の希望を出来る限り受け入れるのも大事なサービスなのではなかろうか。
 近年、いわゆる“お篭り系”と呼ばれる半個室の居酒屋が流行っているのは、このような客の要望によるものであろう。


 話は変わって20年程前のことだが、カップル客の多いラウンジバーのような店での経験だ。 彼氏と2人でブランデーのボトルをキープしたのだが、2人に出されたグラスの大きさが異なるのだ。私に用意されたグラスが彼氏のグラスの半分位の大きさしかない。 「これは明らかに男女差別だ!」と憤った私は、早速彼氏にグラスを交換してもらった。
 この例に限らず、ひと昔前は“女性は飲まないのが作法”とするがごとくの価値観が飲み屋の世界に蔓延っていたものである。例えば、ママさんが牛耳っている店のカウンターなどに座ると、男性客には水割りのお替わりをどんどん作ってサービスするのに、女性客にはそのサービスが一切なかったりすることはよくあった。 もっと極端な場合、注文を取る時に女性には「ジュースですか?ウーロン茶ですか?」と決まり文句のように聞いてくる飲み屋のママさんが多かったものだ。
 さすがに今の時代は、酒場における“男女差別”をすっかり経験しなくなっている。

 チェーン展開の居酒屋の場合、今や店員教育が徹底的にマニュアル化されている様子で、飲んでいる最中の対応においてはさほどの失礼は経験しなくなっている。
 個人経営の飲み屋が多かった一昔前の時代は、店員が酔っ払いを“馬鹿”として扱うがごとくの失礼もよく経験したものだ。 確かに酔っ払いとは“馬鹿”であることには間違いないのだが、認知症同様に頭の一部は不思議と働いているものなのだ。悲しいかな、飲んだくれている私を蔑む周囲からの“失礼”な対応を“無礼”として明瞭に認識できるのだ。これに関しては、“馬鹿”な飲兵衛とて傷つくものであり、さらなる悪酔いを招くものでもある。
 現在は“酔っ払い”に対して「迷惑防止条例」等で社会が厳しく取り締まる時代でもあり、飲兵衛とはやはり世において大いに迷惑な存在であることを心して言動せねばなるまい。
    

 市民が外で飲む機会が減少しつつあるこの時代に、よりよいサービスを提供して生き延びようと日々努力を重ねている居酒屋チェーン店をはじめとする飲み屋の存在に感謝しながら、一飲兵衛としては礼儀をわきまえつつ、品よくお酒を楽しむ時代なのである。   
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メタボ、メタボと騒ぎ過ぎ?!

2009年04月11日 | 医学・医療・介護
 今の世の中、メタボ、メタボとやたらうるさい。

 私自身はBMI(ボディ・マス・インデックス:体重と身長の比率から肥満度を求める計算式)が17台であり“痩せすぎ”の体型に分類されるようで、体型面のみで考察した場合いわゆる「メタボ」とはほぼ縁がないものと自分では捉えている。

 ところが、最近メタボリック症候群に関する腹囲の基準が論議し直されていて、特に女性の場合、今まで腹囲90cm以上を「メタボ」に分類していた基準を、80cm位が適当として見直しをする動きが出てきている。
 
 このメタボの「腹囲」とは測定する場所が特定されているようだ。それは私も承知しているのだが、特に女性の場合の腹囲とは測る部位により大きく測定値に開きが出る。BMIが17台の“痩せすぎ”の私でも、測定する場所によっては「腹囲」が80cmを優に超えるのである。
 早速あっちこっちの“腹囲測定”を自ら試行錯誤した私が、メジャー片手に「私もメタボか!??」と騒いでいると、家族から「それじゃあ、全国民がメタボだよ」と慰めてもらえたのはよかったのだが…。


 そもそもこの「メタボ」であるが、私に言わせていただくとこの言葉が出現した頃から少々騒ぎ過ぎのような感が否めないでいる。加えて、その基準に当てはまらないからと言って健康が保証されている訳でも決してないのに、「メタボ」測定値基準非対称者に“私は大丈夫”との安堵感を無責任に与えてしまっていると思しき現状についても、私は憂えている。

 そこで、まずはメタボリックシンドロームを定義するに至った経緯やその概要から簡単に調べてみることにしよう。

 高血糖や高血圧は、それぞれが単独でも人間の体内のリスクを高める要因となるが、これらが重複すると相乗的に動脈血管性疾患の発生頻度が高まる。そのため、それらの状態を早期に把握する意図で設けられた概念が「メタボリックシンドローム」である。特に日本人はその民族的特徴から、「メタボリックシンドローム」に悪影響を受けやすいと考察されている。 そして、一般人にも分かりやすい指標として、設けられたのが身長、体重、BMI、そして“腹囲”の測定値の「メタボ」の基準である。
 日本において2008年から開始された特定健診制度では、「メタボ」の概念を応用して糖尿病対策を行うことを目指し、一定年齢の国民を対象に特定健診を義務化し、「メタボ」及びその予備群と判定された者に対し特定保健指導を行うことを義務づけた。厚生労働省は、国民の約2000万人が「メタボ」とその予備軍に該当すると考えており、これを今後減少させるべく政策を打ち立てている。これにより、将来的に医療費2兆円を削減計画とのことである。
   (以上、ウィキペディアより引用、抜粋、要約)


 「メタボ」の概念を医療現場に導入し、一定年齢の国民にそれに伴う健診を義務化したことにより一体どこの誰が経済面でホクホクしているかについては、恐らくこのブログの読者の皆さんは一目瞭然にお分かりいただけることであろう。
 私が健診を受けない事に関しては当ブログで幾度か既述してきているが、その理由の一つとして、医療にまつわる“癒着”を批判的に捉えていることについて今まで記載し忘れていたように思う。
 
 医療を取り巻く環境の背景には、(国民の弱みにつけ込んで)今尚大いに“癒着”が存在することは否めない事実であろう。
 健診とは、普段健康と自負する人も、組織に所属している場合全員強制で受けざるを得ないように法的に義務化されている制度である。そういう制度を職場や学校等の団体に課すことにより、その人数が多いが故に莫大な経済効果が発生することは皆さんも想像がつく話であろう。 その経済効果を享受しているのは、医療機関であったり製薬業界等の医学関連企業である。
 私は医学関係の業務に従事していた若かりし頃から、行政と医療業界との“癒着”に関して疑問を抱き続けて来ているという訳だ。

 「メタボ」における女性の“腹囲”の基準を90cmから80cmへ厳しくすることにより、またまた、健診を受けようかと思ったり医療機関を受診する国民が増えるという図式、そしてまた“癒着”によりホクホクする一部の人種も増えるという図式をお分かりいただけたであろうか。


 女性にとって「腹囲」(ウエスト)がくびれていることは永遠の理想体型ではある。
 そして自分の健康は自分で守って欲しいものでもあるが、ウェストが多少太くてふくよかであっても、日頃健康で何の問題もなく元気に生きているのならばそれでよしとしていいのではないか、と考えるのが私の見解である。 
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15歳の出発(旅立ち)の春

2009年04月09日 | 教育・学校
 満開の桜の花びらが舞い散る春のポカポカ陽気の中、昨日、我が子の高校の入学式に参列した。

 我が子の場合高校は私立中学からの内部進学であるため、環境的には今までとさほど変わり映えがしないのであるが、法的に高校とは、中学とは一線を画した存在である。保護者の学ばせる義務が規定され、子どもの学ぶ権利が保障されている小中学校の9年間の義務教育からは、明確に区別されるのが高校である。

 進学校の高校生は、3年後に大学入学を目指すことになる。
 時はウン十年前に遡るが、私が入学した高校も生徒の100%が大学進学の実績を長年保ち続けている地方の公立のバリバリの進学校であった。入学前の3月の説明会時に高校の担当者から早くも大学進学を目指す心得についての話を聞かされ、楽しかった中学生活から一変して、心に重苦しさを引きずりつつ高校へ入学したことを今尚覚えている。

 当ブログのバックナンバーでも既に述べているが、私の高校時代は、結局上記の大学受験の重圧と不本意な親の偏った希望に翻弄された3年間であったと分析している。 進学色一色の学校へ入学したばかりに、私の人生においてあれ程つまらない時期はなかったと今尚悔やまれる私の思春期の一ページである。 (私はその後30歳目前にして再び大学受験に挑んでいるが、その時は自分自身の内面から湧き出る希望と強い意志による再チャレンジであったため、フルタイムの仕事を通常通り続けながらその合間を縫って受験勉強を楽しみつつ、難なく合格をゲットしたものである。)

 現役高校生時代に上記のごとくの不本意な思い出がある私は、我が子の思春期の貴重な成長時期である高校時代を大学受験一辺倒にすることだけは避けてやりたいという、親としての思いがあった。そのため子どもの高校でのコース選択についてはあらかじめ親子で十分に話し合い、“進学バリバリ”コースではなく、一般コースをあえて希望したことに関しても、当ブログのバックナンバーで既述している。


 さて、確固としたポリシーもなく偏差値偏重へ傾き続ける現在の揺らぐ教育行政の下、高校のランク付けが“大学合格実績”により判定されている実態は皆さんもご承知の通りである。 春先になると毎年恒例のごとく、どこの高校から東大へ何人合格した、どうしたこうしたと何ともくだらない記事を掲載する週刊誌の中吊り広告を、電車等に乗ると見たくも無いのに暴力的に突きつけられるものである。
 このような現状において進学高校が知名度を上げていくためには、一人でも多くの生徒にいわゆる“有名大学”へ入学させることを後押しするのに躍起にならざるを得ない実情なのであろう。


 昨年来の世界的経済危機の影響で、世界中に失業者が溢れている。日本においても、新卒者の就職内定取消し等、若者の就職難に追い討ちをかけている厳しい不況の社会情勢の真っ只中である。
 いわゆる“有名大学”を卒業したからと言って、先々の保証など何もない時代に既に十二分に突入している。目先の大学のブランドにこだわり一喜一憂するほど平和な時代は既に過ぎ去っている。残念ながらそんな安直な時代は当の昔に終焉している。
 今後大人になりゆく若者は、今まで以上に強く生き抜くべく自分なりの確固としたポリシーを育むことが要求される。 このように混沌とした時代に若者がやるべき事とは、この厳しい社会を生き抜ける真の力を身に付けることしかないであろう。

 高校生にしてみれば、親の希望に素直に従って目先のいわゆる“有名大学”へ合格することに躍起になるよりも、もっと優先するべき事が必ずやあるはずである。自分の人生の先を見つめ、自分なりの確固とした職業なり生きがいなりの目標を持ち、その目標に向かうための情報収集や準備作業をするべき時なのではなかろうか。 その道中に、大学進学があるという程度の話に過ぎないであろう。 大学(大学院も含めて)における学びとは、自己の成長の一過程ではあるが、決して人生の“目標”ではない。(大学、大学院において真面目に学問研究に励み、今尚その影響を堪能しつつ生きていると自負する私であるからこそ、これだけは申し上げておきたい思いである。)

 どこの大学を目指そうと基本的には個人の自由ではあるが、貴重な高校生という時期を大学受験勉強にのみ明け暮れるのではなく、その合間に、自分自身で自分の今後の人生に思いを馳せ、主体的に情報収集に励む習慣を身に付ける大事な時期でもある。たとえ、若気の至りの失敗を繰り返そうとも、そのような試行錯誤は必ずや先々訪れる人生に活きるはずである。 


 高校とは、義務教育から解放され「学ぶ権利」を自分自身で管理統制し始めることが出来る出発点である。15歳という年齢はまだまだ若く保護者の支えはもちろん不可欠ではあるが、どうか、目先の大学受験勉強の縛りと親の偏った希望のみに翻弄されることなく、自分の将来へ思いを馳せて、夢を描いて羽ばたいて欲しいものである。
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問いかける能力

2009年04月05日 | 人間関係
 先だって、春休み中の子どもと一緒に東京お台場方面へ出かけた折りに、青海の「日本科学未来館」へ立ち寄った。
 この博物館の一番の特徴は、スタッフとの“対話”により諸科学の情報収集が出来るところにあるようだ。 あらかじめ、知人よりその旨の話は聞いていたのだが、確かに館内の至る展示場に各種スタッフが配置されている。 そして、その中でもオレンジ色の制服を着た科学専門知識を持つ数多くのボランティアスタッフが、入場者に気軽に声をかけるというシステムになっているようだ。

 春休み中にもかかわらず入場者はさほど多くなく、むしろボランティアスタッフの方が人数が多いとも見受けられる館内である。
 5階の「地球環境とフロンティア」フロアのボランティアスタッフは、全員がご年配(失礼な表現をお許し下さい)の男性である。おそらく科学専門分野の仕事を定年退職されたのかと思しき男性達が、この博物館でかつての各々の専門知識をボランティアという形で活かされているのであろう。

 スペースシャトルコーナーでレプリカの室内を見学していると、早速ボランティアの一人の方が私に声をかけて下さった。
 「(世界地図を指差しながら)若田さんが乗っている国際宇宙ステーションは、今現在この辺を飛行しています。」
 「そうですか。どれ位のスピードで地球の周りを飛行しているのですか?」との私の質問に対し、
 「一日に約○回転半程です。(うろ覚えのため、ここでは詳細の表示は回避する点ご了承下さい。)」
 「へえー!! ものすごく速いスピードですね!」と私。
 引き続き、地上約4000kmの高さを飛行していることや、宇宙ステーションには一応小さい窓があること、宇宙ステーション自体は光を発していないが、太陽光や月との関係で明け方と日の入りの頃に地球からも飛んでいるのが見える時がある話、等々を伺った。
 
 その後、深海探索艦「しんかい」のレプリカコーナーでも、ボランティアの男性に声をかけていただき、このボランティアの方にはその後我々親子“専属”で海底探索科学コーナーにずっとお供いただいて、海底科学の現状と未来に関する相当詳細の知識をご伝授いただけたのである。

 さて周囲を見渡してみると、ボランティアスタッフから話を聞いている入場者はどうやら我々親子のみのようである。春休み中のためか子連れの親子グループらしき姿が目立つのだが、誰もボランティアスタッフを“有効利用”している入場者はいない。子どものほとんどは体験コーナーで遊ぶのに熱心で、スタッフの語りかけには興味がないようだ。 また、親や大人の入場者はスタッフと“話す”こと自体が面倒臭そうな様子で、あえて避けているとも見受けられる。

 一方、ボランティアスタッフにしてみれば、入場者と対話することにより自分の専門知識を活かすことがボランティアの趣旨であり、入場者からの質問を得ることによりできるだけ“対話”に持ち込もうと努力している様子である。
 入場者との“対話”の多いボランティアスタッフほど、達成感を得られることであろう。それを重々察知している私は、半ばサービス精神もあり、自分の専門ではない科学分野の「質問」に努めたのである。


 人に「質問」する事とは確かに容易なことではない。特に科学等の専門分野における「質問」とは、たとえこちらが素人とは言えある程度の知識がなければ「質問」になり得ない。そして、質問を受ける相手の「答える能力」の程も見極めないことには話が繋がらない。
 今回の科学未来館の場合、ボランティアスタッフの専門能力は相当高いとみなした私は、とっさに質問内容のレベルの程を吟味したものである。 加えて、相手が博物館のスタッフであるとは言え人間同志としての礼儀は当然ながら貫くべきであり、専門分野を定年退職されている(と思しき)人生の先輩のスタッフの方に失礼のないような言葉遣いや態度を吟味しつつの“対話”であった。 その成果もあり、こちらとしてはある程度有意義な情報が得られ、相手のボランティアスタッフの方にもおそらく有意義な時間を共有していただけたのではないかと思う。


 人間関係の入り口は「対話」にあると私は常々考えている。
 人が人としての関係を築き深めていくためには「対話」を続ける必要がある。 例えば、人間が複数存在する場で一人よがりに喋り続けたところで、決して「対話」にはなり得ない。その辺を勘違いしている人間が蔓延っている現状の社会に、辟易とさせられているのは私一人なのであろうか。
 「対話」の原点は人に対する“問いかけ”である。人に問いかける能力とは相手に対する配慮であり、相手の能力を見極める力量であり、何よりも相手と話したいと思う自分からの相手への愛情であろう。

 もしも誰にも問いかけることすら興味がないと言う人がいるのであれば、その相談に応じてあげたい気がする私でもある。

 今回の私の記事のごとく大袈裟に考えずとも、少しでも問いかけたい事があってその相手がいるのならば、それだけで人間関係は開かれているも同然である。
 とにかくその相手に“問いかけ”てみてはどうか。 
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