朝日新聞別刷「be」土曜日版において、この4月より“悩みのるつぼ”と題する読者の相談に回答者が答えるコーナーが新設されている。
本ブログの読者の皆様は既にご存知の通り、私はこの種の相談コーナーを以前より好んでいる。 相談者ではなく回答者側の立場で、私ならば如何なる回答を導びこうかと、私なりのバックグラウンドに基づいてあれやこれやと思考することを好むためである。
さて、今回の“悩みのるつぼ”は、就職活動真っ盛りの大学4年生からの「運、不運で人生が決まるの?」との表題の相談に、作家の車谷長吉氏が回答したものであった。
折りしも、この春に高校へ進学した我が子の進路の後押しに早くも着手し、今の社会に対し閉塞感を抱かざるを得ない私(事の詳細は前記事「閉塞感からの脱出」をご参照下さい)は、今回のこの相談のやり取りを興味深く読んだ。
早速、大学生の相談内容を以下に要約して紹介してみよう。
就職活動真っ盛りの大学4年生であるが、まだ内定をもらっていない。焦ると同時に最近どうしても納得できないことがある。
それは運と不運である。就職活動を通じて、人の人生がなぜこれほどまでに運、不運に左右されるのかを実感している。個人の運、不運ならまだ実力のうちと納得できても、生まれた時代や環境によって、同じ能力の人間の就職先(就職できないことも含めて)に差が出ることに涙が出るほどである。父もオイルショックの影響をもろに受け、東京では就職が出来ず故郷に戻っての就職で、ついていない世代だった。私たちも、「悪い時代に生まれた」と納得するしかないのだろうか。
続いて、この相談に対する作家・車谷氏の回答を抜粋要約して紹介する。
私は遺伝的蓄膿症のため、物心ついた時から鼻で呼吸することができない。口で息をして生きているが、苦しいことだ。手術により盲になる危険性を避け、自分の考えで作家になった。
世には運・不運がある。それは人間世界が始まった時からのことだ。不運な人は不運なりに生きていけばよい。私はそう覚悟して、不運を生きてきた。自分の不運を嘆いたことは一度もない。嘆くというのは虫のいい考えだ。考えが甘い。覚悟がない。この世の苦みを知ったところから真の人生は始まる。真の人生を知らずに生を終えてしまう人は醜い。己の不幸を知った人だけが、美しく生きている。
私は、己の幸運の上にふんぞり返って生きている人をたくさん知っている。そういう人を羨ましいと思ったことは一度もない。己れの不運を知ることはありがたいことである。
それでは、私論に入ろう。
私自身も若かりし頃に、人間には個人の能力や努力等にかかわり無く、運・不運が存在するような感覚を抱いたことがある。 今思えば、まだまだ人生経験が浅く我が未熟な時代の話である。
例えば、高校時代の大学進学に関して、(あの子は上京して私立の女子大へ入って“チャラチャラ”できるのに、なぜ私の親はそれを認めてくれないのだろう。なんで私は貧乏たらしく地元の国立理系を目指して地味な勉強を強要されるのだろう、とんでもなく不運だ。)と本気で感じたものだ。
ところが今となってみれば、それは決して“不運”という概念に属するほどの大袈裟な事象ではなく、取るに足りない青春の1ページの一情景にしか過ぎない事に気付くのである。
相談者の大学生はお父上の思考の影響を大いに受けていると、相談内容を読んだ私は推察する。恐らくお父上自身がオイルショックの影響で東京での就職が叶わなかった「無念」な話を、息子である相談者に語り継いでいるのであろう。そして、“悪い時代”に生まれたお前も自分同様に“不運”であると、息子に吹聴しているのではなかろうか。
一方、車谷氏の回答内容にはご苦労を背負われたご自身の人生経験に基づいた説得力が大いにあるのだが、私の見解と大きく異なる部分がある。
それは、「世に運・不運がある」とされる根本的な思想においてである。
実は、私論は「世には運・不運はない」と長年生きてきた現在、捉えるのだ。
もしも、世に運・不運が存在するとするならば、それは生まれながらにアプリオリに与えられたものでは決してなく、自分自身が後天的に創り出した産物にしか過ぎないのではなかろうか。要するに「運・不運」とは、自分が後天的に培った総合的な実力により左右されると私は考えるのである。
相談者の大学生が訴える通り、今現在は世界的経済危機のあおりで、就職活動に励んでも志望する就職先からの内定を取ることは至難の業の実態であろう。 長年生きてきているこの私とて、我が娘の近い将来の社会進出を既に懸念し始め、閉塞感にさいなまれる現状である。
だが私の場合、この現状が「不運」であるという発想には及ばない。ましてや、我が子に向かって「あなたは不運な時代に生まれて残念だったね。」などとは、親としては口が裂けても伝えようとも思わない。
どのような時代にあっても、如何なる社会情勢の下でも、運とは自分で切り開いていくものとの思想の下に、私自身も、また我が子に対しても今後共弛まぬ努力を促していきたいと考えている。
「運・不運」の概念の背景には、必ずや“他者との比較”というスタンスがあると私は捉える。自分自身の客観視のためには、それも時には意味を成すであろう。
だが、自分の人生を切り開いていくのは、如何なる時代も如何なる境遇の下でもやはり自分自身の努力と実力なのではなかろうか。
本ブログの読者の皆様は既にご存知の通り、私はこの種の相談コーナーを以前より好んでいる。 相談者ではなく回答者側の立場で、私ならば如何なる回答を導びこうかと、私なりのバックグラウンドに基づいてあれやこれやと思考することを好むためである。
さて、今回の“悩みのるつぼ”は、就職活動真っ盛りの大学4年生からの「運、不運で人生が決まるの?」との表題の相談に、作家の車谷長吉氏が回答したものであった。
折りしも、この春に高校へ進学した我が子の進路の後押しに早くも着手し、今の社会に対し閉塞感を抱かざるを得ない私(事の詳細は前記事「閉塞感からの脱出」をご参照下さい)は、今回のこの相談のやり取りを興味深く読んだ。
早速、大学生の相談内容を以下に要約して紹介してみよう。
就職活動真っ盛りの大学4年生であるが、まだ内定をもらっていない。焦ると同時に最近どうしても納得できないことがある。
それは運と不運である。就職活動を通じて、人の人生がなぜこれほどまでに運、不運に左右されるのかを実感している。個人の運、不運ならまだ実力のうちと納得できても、生まれた時代や環境によって、同じ能力の人間の就職先(就職できないことも含めて)に差が出ることに涙が出るほどである。父もオイルショックの影響をもろに受け、東京では就職が出来ず故郷に戻っての就職で、ついていない世代だった。私たちも、「悪い時代に生まれた」と納得するしかないのだろうか。
続いて、この相談に対する作家・車谷氏の回答を抜粋要約して紹介する。
私は遺伝的蓄膿症のため、物心ついた時から鼻で呼吸することができない。口で息をして生きているが、苦しいことだ。手術により盲になる危険性を避け、自分の考えで作家になった。
世には運・不運がある。それは人間世界が始まった時からのことだ。不運な人は不運なりに生きていけばよい。私はそう覚悟して、不運を生きてきた。自分の不運を嘆いたことは一度もない。嘆くというのは虫のいい考えだ。考えが甘い。覚悟がない。この世の苦みを知ったところから真の人生は始まる。真の人生を知らずに生を終えてしまう人は醜い。己の不幸を知った人だけが、美しく生きている。
私は、己の幸運の上にふんぞり返って生きている人をたくさん知っている。そういう人を羨ましいと思ったことは一度もない。己れの不運を知ることはありがたいことである。
それでは、私論に入ろう。
私自身も若かりし頃に、人間には個人の能力や努力等にかかわり無く、運・不運が存在するような感覚を抱いたことがある。 今思えば、まだまだ人生経験が浅く我が未熟な時代の話である。
例えば、高校時代の大学進学に関して、(あの子は上京して私立の女子大へ入って“チャラチャラ”できるのに、なぜ私の親はそれを認めてくれないのだろう。なんで私は貧乏たらしく地元の国立理系を目指して地味な勉強を強要されるのだろう、とんでもなく不運だ。)と本気で感じたものだ。
ところが今となってみれば、それは決して“不運”という概念に属するほどの大袈裟な事象ではなく、取るに足りない青春の1ページの一情景にしか過ぎない事に気付くのである。
相談者の大学生はお父上の思考の影響を大いに受けていると、相談内容を読んだ私は推察する。恐らくお父上自身がオイルショックの影響で東京での就職が叶わなかった「無念」な話を、息子である相談者に語り継いでいるのであろう。そして、“悪い時代”に生まれたお前も自分同様に“不運”であると、息子に吹聴しているのではなかろうか。
一方、車谷氏の回答内容にはご苦労を背負われたご自身の人生経験に基づいた説得力が大いにあるのだが、私の見解と大きく異なる部分がある。
それは、「世に運・不運がある」とされる根本的な思想においてである。
実は、私論は「世には運・不運はない」と長年生きてきた現在、捉えるのだ。
もしも、世に運・不運が存在するとするならば、それは生まれながらにアプリオリに与えられたものでは決してなく、自分自身が後天的に創り出した産物にしか過ぎないのではなかろうか。要するに「運・不運」とは、自分が後天的に培った総合的な実力により左右されると私は考えるのである。
相談者の大学生が訴える通り、今現在は世界的経済危機のあおりで、就職活動に励んでも志望する就職先からの内定を取ることは至難の業の実態であろう。 長年生きてきているこの私とて、我が娘の近い将来の社会進出を既に懸念し始め、閉塞感にさいなまれる現状である。
だが私の場合、この現状が「不運」であるという発想には及ばない。ましてや、我が子に向かって「あなたは不運な時代に生まれて残念だったね。」などとは、親としては口が裂けても伝えようとも思わない。
どのような時代にあっても、如何なる社会情勢の下でも、運とは自分で切り開いていくものとの思想の下に、私自身も、また我が子に対しても今後共弛まぬ努力を促していきたいと考えている。
「運・不運」の概念の背景には、必ずや“他者との比較”というスタンスがあると私は捉える。自分自身の客観視のためには、それも時には意味を成すであろう。
だが、自分の人生を切り開いていくのは、如何なる時代も如何なる境遇の下でもやはり自分自身の努力と実力なのではなかろうか。