原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

無名という生き方

2009年01月19日 | 自己実現
 中学生の娘がこの3月に学校からカナダへ研修旅行に行くに当たり、現地での研修の準備課題の一つとして、英語の授業において、日本の有名人を一人選んでカナダの人に紹介するための英文作りの宿題を課せられた。

 その英文作成以前の“有名人”を誰にするかで迷った娘が、母の私のところに相談にやってきた。
 私はすかさず、「原左都子なんかどう?」と応えたところ、娘に「真面目に考えてよ。」と一蹴されてしまった…。トホホ… 


 そこで私は、有名人と無名人の線引きとは何であろうかと、はたと考えたのである。

 その線引きのひとつは世間における知名度であろうが、その知名度を測る一番分かりやすい尺度がマスメディアへの登場であろうか。
 単純な話が、テレビに出ていることが、新聞に取り上げられていることが、あるいは本が売れていることが有名である証明という捉え方が、世間では一般的なのではなかろうか。
 そして有名人になりたいと思う人はさしあたり、様々な専門分野でこれらマスメディアへの登場を目指すのであろう。


 現在の私自身は、“有名人”願望はない方の人間であると言える。
 昔から名声欲が全くなかった訳ではなく、若かりし頃は人並み程度にあったかもしれない。自分の専門分野で成功を修めて、あわよくばマスメディアに取り上げられたい、というような漠然とした夢を描くことはなきにしもあらずだった。

 ただ、プライベートまでをも全て曝け出すような“有名人”には決してなりたくないものである。 知名度が上がることにより行きたい所へ行けなくなったり、会いたい人にも会えなくなったり、いつも綺麗にして微笑んでいることを強要されたり、ということは断じて勘弁願いたいものである。
 無名である現在でさえ、今知り合いには会いたくないと思っている時に偶然会ってしまうシチュエーションなど、とても苦手である。例えば、バーゲン会場で安物を漁っている時や、体調不良で不機嫌な時、等々…。(そういう時は見なかったことにして声をかけないで下さいね、知り合いの皆さん。)

 このように、私という人間の全人格を世間に曝け出す形での“有名人”願望は一切ないと言い切れるのだが、私の持つ人格や能力の一部を(ペンネーム等の匿名を条件に)世間に公開したい思いはある。それが証拠に、このように「原左都子エッセイ集」をブログという形で世間に公開している訳である。


 ただ、世間を見渡すと、才能の一部で開花し名が売れはじめた人々は必ずやマスメディアに取り上げられて登場し、プライベートまでも晒しているようである。“有名人”となるチャンスが到来した場合、人間とは名声欲があらわになりプライベートまで晒そうとする動物なのであろうか。 

 そして皆さんもよくご存知のように、“普通の女の子に戻りたい”だの“普通のおばさんに戻りたい”だのと世間をお騒がせしてひのき舞台から去ったはずの芸能人たちが、必ずや恥ずかし気もなくのこのことカムバックして来るのは、どういった心理なのであろう。有名であることとは、一種の中毒症状のごとく魅力的なものなのだろうか。


 「原左都子エッセイ集」も記事総数が250本近くになり、昨日も身内から、そろそろ出版化等、ネット以外のメディアへの公開を考慮する気はないのか、との質問を受けた。 これに関しては自己診断であるが、この種のオピニオンエッセイは今の時代まず売れない、と結論付けているため出版化の意思はない。あわよくば、コラムニストとして、出版物のコラムにでも定期的なエッセイを書いてみたい思いはあるが、この無名の私にそんな甘くて美味しい話が飛び込んで来る筈もない。

 ペンネーム原左都子の本体である私は、やはり今まで通り“無名という生き方”を歩み続けることであろう。
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自分と他人との境目

2009年01月16日 | 人間関係
 朝日新聞1月11日(日)別刷「be」に興味深い記事があった。
 “心体観測”のコラム、金沢創氏による「他者の心・自分の心① 他人の感覚はわかるのか」という題名の記事なのであるが、私も中学生の頃、この記事の内容とまったく同様の思考が脳裏に浮かんだことがある。


 さっそく、金沢氏による上記記事を以下に要約して紹介することにしよう。

 中学生ぐらいの頃、他人というものが不思議で仕方がなかった。
 私にはあの夕焼けの色が真っ赤に燃えているように見える。でも、私が見ているこのアカイロは、果たして他人が見ている赤色と同じなのだろうか。
 あるとき、この問いに関係がありそうな説明に出会った。それは「感覚を生み出しているのは脳という器官である」というものであり、私は私の脳と他人の脳をなんらかの装置を用いてつないでみたいと思った。そうすることにより、「他人が見ている色」を、直接見ることができるような気がした。
 しかしある時、その考え方は決定的に誤っていることに気付いた。その理由を詳しく説明するには数冊の哲学書が必要だが、別の意味ではたった一言で説明可能だ。それは「どううまく脳をつないでも、最後に何かを感じるのは私だから、それは他人の感覚ではない」
 この答えは当たり前そうに思えて、本当はとても過激だ。なぜなら、「他人の感覚」とは原理的に決して知ることができないという結論になるからである。
 他人の心はよくわからないもの。それはよくある常識だが、それが原理的なものとなると話は別だ。どんなに科学技術が進歩しても、それが決してできないのだとしたら。(以下略)

 以上が、金沢創氏によるコラム記事の要約である。
 そして“実験心理学”が専門でおられる同氏は、次回以降の同記事において、この実験心理学について紐解いていくことにより、心というものの不思議について考察していかれるそうである。


 実に偶然なのであるが、この私も中学生の頃に「色」というものの見え方について、同様の疑問が頭をもたげたことがある。 私の場合は、夕焼けを見て思いついた訳ではなく、漠然と「色」の見え方についてふと思った。
 赤、青、黄、緑、…… 人はいろいろな色をその色として認識している訳であるが、本当に皆同じ様に見えているのであろうか。もしかしたら私が“赤”だと認識している色がAさんにとっては私の認識の“黄”であったり、Bさんにとっては“緑”であるのかもしれない。言語で表されている対象物の認識の感覚とは、実は人により異なるのではなかろうか…。

 この命題はまさに哲学的であり心理学的である。金沢氏が書かれているように、この命題を実証していくためには数冊の哲学書が必要であろう。また心理学分野においてはもう既にその解明が進展しているのかもしれない。
 今のところ、残念ながら私はその分野の学術知識を持ち合わせていないため、ここでは専門的な話は素通りさせていただくことにする。


 それにしても、「他人の感覚」とはいつの世も捉えにくいものである。自分と他人との間には必ずや“境目”や“隔たり”が存在するのが人間関係における宿命であるようにも思える。
 他人に対して好意を抱いたり興味を持ったりすると、自分とその他人との感覚を接近させ、その境目や隔たりを“超越”して自分の感覚を「他人の感覚」と融合させたい欲求に駆られるのが人情なのだが…。

 他人の心とは永遠に分からないものであるのか。それとも、科学技術の進歩により「他人の感覚」が原理的に解明できる時代がもう既に来ているのであろうか。
 他人の心とはわからない方が、実は人間関係は奥が深くて面白いのかもしれない…。
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金銭教育は家庭の役割

2009年01月14日 | お金
 我が子が幼稚園児の頃、数人の母親達の間で、お正月に子どもがお年玉をいくらもらったか、という話題が出た事がある。
 皆さんそれぞれに、「うちは何千円」「我が家は1万数千円」等々…話がはずんでいる。
 その金額を小耳に挟みつつ、(う~~ん、これは困ったぞ。この話に加わる訳にはいかない)と判断した私はそっぽを向いていないふりをしていたのだが、やはり一人の母親につつかれてしまった。
 「○○ちゃんはいくらなの?」
 やむを得ず正直に答えると、皆さん一斉に「え~~~!何でそんな大金をもらえるの!!?」

 ここでは我が子が毎年手にするお年玉の金額の公表を避けるが、我が子の場合一人っ子であることや、親戚一族に子どもが我が子1人しかいない(従兄弟は既に成人していたり、海外住在であったりでお年玉が必要でない)等の理由で、親戚一同から我が子にお年玉が集中するため、ある程度まとまった金額になるのだ。

 そのまとまった金額のお年玉を、まさか子ども本人に全額自由にさせる訳にはいかないため、子どもが幼少の頃からお年玉の使途を子どもと話し合っている。一部は子どもの自由に任せ、ほとんどの残額は子ども名義の預金として私が保管している。
 我が子が中学生になった今尚その習慣を継続しており、お年玉のほとんどを預金に回しているのであるが、我が子はどうやら預金残高が増えることがうれしい様子である。


 1月6日(火)朝日新聞朝刊の「子どもの声きこえてる?」の今回の記事は、“お金は大事だけど”と題する子どもの金銭感覚にまつわる話題であった。
 この記事によると、例えば、“お金は使い過ぎないように気をつけるしかないが、携帯を使っているときにはお金がかかっている感覚がない”と言う中2の女の子や、塾通い用に母親から手渡されているスイカを“電車に乗る意外に、小額ならばバレないと思って母には内緒でコンビニでも使う事がある”と言う小6の男の子の話が取り上げられている。

 社会における急速なキャッシュレス化の進展の中、現金と、物やサービス等の商品との相対やり取りを経験する機会が激減してきている。このような時代背景の中で育つ今の子供達は、“お金が減る”感覚が掴みにくい現実であったり、またキャッシュレス決済をごまかしがきく利点のあるものとして認識してしまうのかもしれない。


 そのような時代背景であるからこそ、今まで以上に子どもに対する金銭教育は重要な位置づけとなろう。

 上記朝日新聞の記事においては、学校でも子どもの金銭教育を検討するべきという趣旨の論評が附記されている。


 だが、私論は金銭教育とはあくまでも家庭が主体性を持って取り組むべき子育ての重要な一環であると捉える。

 なぜならば、子どもの金銭教育においては、各家庭の経済事情や親の経済観念、金銭感覚が大きく左右するためである。 
 早い話が、世の中には“貧富の格差”が存在する。Aさん宅がこういう暮らしをしているから我が家も同じにする、という訳にはいかない。各家庭それぞれの経済力に応じた暮らしがあり、子どもにも幼少の頃からその経済力に応じた金銭教育を家庭内で行うべきである。
 我が子が小学校低学年の頃、学校の保護者会で“子どもの小遣はいくらが適切か”という話題が出た。案の定、母親の皆さんは「うちはいくらだ」「我が家はいくら」等々、賑やかだ。 確かに子どもの金銭教育において、小遣はスタートラインとして大いに役立つであろう。そこで、他人のお宅の小遣額は参考にする程度にして、各家庭で主体性を持って小遣の金額を決定して欲しいものである。そして、各家庭での金銭教育の一環として、親がその使い方のフォローを忘れずにすることも肝要である。


 昨年よりの急激な不況のあおりで、家計に陰りが見えるご家庭は多い事と察する。現在尚そのような経済情勢の真っ只中ではあるが、まずは親自身が自らの金銭感覚を見直し、子どもの金銭教育に繋げて欲しいものである。
 
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英語で授業、誰がやるの?

2009年01月12日 | 教育・学校
 昨年末の12月22日、文部科学省は13年度の新入生から実施する高校の学習指導要領の改定案を発表した。

 そのうち外国語に関しては、現行の英語Ⅰ、Ⅱ、リーディングの3科目を、コミュニケーション英語Ⅰ、Ⅱ、Ⅲに再編するという。これは「聞く」「読む」「話す」「書く」の4技能の総合的な育成が目的であるらしい。
 そして、今回の改定案の極めつけは「英語の授業は英語で行うのが基本」と明記した点である。長年の“使えない”英語教育に対する批判を踏まえて、「使える英語」の習得を目指すということである。


 文部科学省の気持ちは少し分からなくもないが、高校の英語の授業をすべて英語で行おうとは、いくら何でも無茶苦茶な極論ではなかろうか。
 と思って呆れていた矢先、案の定、反論意見が相次いでいるようだ。

 まずは、12月23日の朝日新聞社説から以下に要約して紹介しよう。
 たしかに日本人の英語下手はよく知られるところだ。中学、高校と6年間学んでも、読み書きはともかく、とんと話せるようにならない。
 ますます国境の垣根が低くなる世界で英語は必須の伝達手段であるから、英語教育を変えて会話力を育てるために、授業自体を英語での意思疎通の場と位置づけたいとする文部科学省の発想はよい。
 ただ現実の授業を考慮した場合、例えば文法を英語でわかりやすく説明したり、生徒の質問に英語で答えることは簡単ではないであろう。生徒も理解できるかどうか。現場の教師や生徒の能力に左右されるところが大きく、無理やり形だけ整えても効果は乏しいであろう。
 もう一つの懸念は、大学入試に備えるべき進学校においては利点がそれほど大きくない点だ。
 学校現場の混乱も視野に入れ、今後の英語教育への道筋と環境作りを大枠で整えることが先決問題であり、それが文部科学省の仕事である。
 以上が、朝日新聞社説の要約である。
 
 次に、12月28日(日)朝日新聞「声」欄の投書から2本の反論意見を要約して紹介しよう。

 1本目は現役高校英語教員からの「また現場無視 課題は山ほど」と題する意見から。
 英語教員の出身も教育学部、文学部、外国語学部など多様で、英会話が得意な教員ばかりとは限らない。文部科学省はこうした現実をどう考えているのか。
 (例えば)海外の文学作品を通して異文化に触れさせることも英語教育の重要な柱である。「使える英語」への転換により、これらは無用となるのであろうか。
 この教育現場無視の改定案が実施されるまでには、教員の研修、クラスの規模など検討すべき課題は山ほどありそうだ。
 
 続いて、大学生からの「目指す道様々 一律に必要か」と題する意見を要約しよう。
 日本の教育政策は、統一を求める傾向が強い。「平等な教育」なのかもしれないが、多様な価値観を持つ生徒が、国の定めた画一的なカリキュラムの下で学習に意味を見出せるだろうか。
 多様な職業が存在し、求められる能力もそれぞれだ。これから学ぶ生徒全員が英会話ができなければまずい、ということはない。
 「使える英語」より、自分の目指す職業とつながる科目を多く勉強したいと思っている生徒もいるだろう。高校は義務教育ではないのだから、個々の事情や就きたい職業との関連で学習できるカリキュラムにしてもよいのではないだろうか。
 以上が朝日新聞「声」欄の投書の要約である。


 皆さんのおっしゃる通りである。私論も上記3つの反論意見に一致する。

 私の今までの人生においても、英語は「聞く」「話す」よりも、「読む」「書く」ことの方がよほど比重が大きかった。 大学、大学院においては論文を書くにあたり、英語の参考文献に大いにお世話になった。 医学関係の仕事では英文の論文を何本も読んだ。 その他の職業においても英文に触れる機会は多かった。 そして、日常生活でも英文の各種説明書や効能書き等を読む機会は少なくないし、街に出ても英文に出くわす機会は多い。
 これらの英文に接する時、中高で学んだ英語が大いに役立っていることに今尚気付かされる。中高レベルの英単語力と文法力が確実に身についていれば、一生に渡り大抵の英語は読みこなせるし、ある程度の英文も綴れるものである。中高時に真面目に英語の読み書き学習に励んだことが正解であったことを再認識する日々である。
 たまに旅行等で海外に出かけると、確かに自分の英語の発音の悪さや、ネイティブ英語の聞き取り力のなさに愕然とさせられる。 だが、意外や意外、文法力や英単語力等の英語知識がすべての基本であって、相手と話したいという気さえあれば、それで英会話もカバーできるものだということを今までに幾度も経験してきている。


 学校現場の現実を直視して英語教員の負担等にも配慮すると、現行の英語教育で十分なのではないかと私は考えるのだが…。
 その上で、高校での英語教育の選択肢を増やし、生徒の希望によりそれぞれが目的に応じて「使える英語」を学習できるシステム作りに取り組んではどうか。

 とにかく、文部科学省は突如として無茶苦茶な極論を提示するのではなく、学校現場で実現可能性のある改革案を検討するべきであろう。 
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不幸そうに見える妻

2009年01月09日 | 芸術
(写真は、現在横浜美術館にて開催中の「セザンヌ主義」のパンフレットの一部)

 上記パンフレットの写真の絵画はフランスの画家、ポール・セザンヌが描いた自分の妻の絵「青い衣装のセザンヌ夫人」であるが、ご覧のように決して幸せそうではない表情の夫人の肖像画である。


 昨年末に横浜を訪れた際に横浜美術館へ立ち寄り、この「セザンヌ主義」の特別展を観賞して来た。
 その際に大いに印象に残ったのは、夫のセザンヌにより描かれたセザンヌ夫人のこの不満げで冴えない表情である。この「青い衣装のセザンヌ夫人」の他にも数枚のセザンヌ夫人の肖像画が展示されていたのだが、一枚と例外なく、夫人は暗くて冴えない表情なのである。

 あくまでも素人の私に好き放題言わせてもらうと、通常女性を描いた肖像画と言えば、まず美人であること、そして色香が漂い妖艶であり、しかも品格がある等、女性としての何らかの魅力があることが要求される。たとえ美人ではなくとも、たとえば愛嬌があったり、表情豊かで内面から何かを訴えるようなインパクトがあって欲しいものである。

 ところが、どういう訳かこのセザンヌ夫人の絵を見ると、「他に描く女性がいなかったのだろうか。自分の奥さんとは言え、何も好き好んでこんなブスを描かなくても…」、あるいは「せっかく世に出すならば、多少偽りであっても修正してもう少し美人に描いてやればよかったのに…」等々、要らぬお節介心までが頭をもたげてしまう。
 そういった理由で、セザンヌ夫人の肖像画はマイナスイメージで印象深い存在ではあった。

 折りしも、一昨日1月7日(水)の朝日新聞夕刊“水曜アート”のページにこの「青い衣装のセザンヌ夫人」が取り上げられていた。
 その記事の題名は、「妻が不幸に見えるわけ」。 やはりそうなのか。この肖像画のセザンヌ夫人は誰の目にも不幸そうに見えるのだ、と納得である。


 さて、それではこの朝日新聞夕刊の記事を以下に要約して紹介してみよう。

 (この絵は)画家が自分の妻を描いた絵には見えない。どこか不幸そうだし、男のようでさえある。レンブラントの昔から、画家は自分の妻を美しく幸せそうに描いてきたのだが…。
 人嫌いで知られたセザンヌは、妻オルタンスの肖像画を30点近く描いた。まるで実験のように妻をさまざまな姿勢と角度で描いている。
 セザンヌにとって、構図と色のバランスがすべてだった。妻は格好の実験材料だったようだ。夫婦仲は悪かったが、妻はモデルとして複雑で厳しいセザンヌの要求に応えた。創造への共犯意識があったのか。
 今回(横浜美術館に)出品の妻の絵を比べるだけで、天才の狂気が伝わってくる。
 以上、朝日新聞記事より要約引用。


 なるほどねえ。
 “創造への共犯意識”という妻の立場からのセザンヌへの“立派な”愛情表現。そのように捉えてこの絵を見直すと、こんな俗人の私にさえも、この無愛想な表情の夫人の絵にも内面から訴えるものが感じられるのが不思議である。
 もう一度、横浜美術館へ行って、セザンヌ夫人の肖像画を観賞し直してみたい気分にもなる。

 それにしても、セザンヌが“人嫌い”であったことはこの肖像画の夫人の表情が物語っているようにも思える。 構図と色のバランスにこだわり、あえて不仲の妻を書き続けたセザンヌ。
 だが実はそれも、セザンヌの不仲だった妻に対するせめてもの愛情表現だったのかもしれないとも私には思えてくる。


 誰も私の肖像画など描いてはくれないだろうが、もし描いてくれる人がいるならば、やっぱり嘘でも美人に、そして艶っぽく修正して描いて欲しいな~~。
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