昨日(正確には一昨日)の北京オリンピック、柔道女子48㎏級の3位決定戦に臨む直前の谷亮子選手の表情が頭から離れない。いつどのような大会でも全身に闘志を漲らせて試合に挑む谷選手の、昨日のような複雑な表情を見たのは私は今回が初めてであった。
折りしも私はテレビを横目にパソコンに向かいつつ、来月で1周年を迎える我がブログ「原左都子エッセイ集」の今後の展望と、私の日々のブログ生活のあり方について頭を悩ませていた。
谷亮子選手のあの時の表情と、我がブログに対する複雑な心境とが奇しくも同時点で交錯した。
たかがブログ…、私にとってたかだかひとつの趣味として綴っているブログごときにそんなに頭を悩ませなくとも…、という観念も私の頭の片隅にある。
されどブログ…、何事にも自分なりの美学、哲学を貫きたい私にとっては、たかがブログであれ自分なりのスタンスを常に明確にして、ある程度の将来性を見据えた上で取り組みたいのである。
そうした場合、「原左都子エッセイ集」を今までのペースで綴り続けたいという基本的な思いには今後共何ら変わりはないという、私なりの一応の結論には達する。
今回の私の悩みは、ブログ記事に頂戴するコメントについてである。
既にバックナンバー記事上で何度も述べている通り、本ブログの開設の趣旨は自己のオピニオンの公開にある。そして公開したオピニオンに対して読者の方々より様々なコメントをいただき、さらにブログ(コメント欄等)上で議論を重ねていくことも目的として綴っている。
そのような本ブログの趣旨通り、このような拙いブログに対し常に少なからぬ、かつ内容の濃いコメントを頂戴していることに関しては、ここで改めて心より感謝申し上げたい。
私がコメントにこだわるのは、記事を綴った証としての確かなフィードバックが欲しいためでもある。
アクセス数やランキングにこだわっているブロガーも多いようだが、私にとってはそれらは参考程度に過ぎない。なぜならば、それら数値の真意が数値のみからはまったく読み取れないためだ。斜め読みでも、極端な場合ページを開いただけでもカウントされるのがアクセス数の特徴だ。 私自身も他の方のブログを訪問させていただく場合、大変申し訳ないが自分の興味の度合いに応じて読み方を使い分けている。その中で記事を熟読させていただく機会は正直申し上げて少数であるかもしれない。
読者の方々からコメントをいただけるということは、ある程度記事を熟読していただいている証拠であり、これ程ブロガー冥利に尽きることはない。
特に私のブログにおいて尚有難いことは、コンスタントに内容の濃いコメントをいただけることである。
ところがこのような有難い現象に対し、私の心の中にある種の不安感が頭をもたげ始めたのである。
コメントを頂戴することに慣れ切ってしまい、コメントをいただいて当然というような“おごり”の気持ちが生じていないか、という私自身の内的側面からの悩みである。記事を書きさえすれば読者の方から毎回毎回必ずコメントをいただける。それが私にとって当然の事と化してしまい、私のブログ生活において無意識のうちにコメントに依存しきっている自分の姿に気付き始めたのだ。こうなってくると、極端な話、誰がブログを綴っているのかさえあやふやな感覚が私の頭を巡る。コメンテイターのご力量にすっかり甘えずして成り立たないのではないかという、私のブログのコメント依存の実態が垣間見えてしまう。
そして、私は悩んだ末にある決断を下した。特に固定ファンからいただくコメントに対する依存心をあえて断ち切ろうという、突拍子もなくかつ私にとっては辛い決断を。 そして私は昨夜、特に依存心を強く持たせていただいているある読者の方宛に、その旨の私の決断を綴ったメッセージに、今までいただいたコメントに対する御礼を添えて送信した。まるで、長年連れ添った恋人に別れを告げて独り立ちするかのような心境で…。
なぜ、私はそのような決断を下して敢えて寂しい道を選択するのか。それは自分のブログに対する私なりの美学、哲学がなせる業だと信じたい。
そしてそんな突拍子もない決意をする私の心は、実は硝子細工で出来ている…。もろくて今にもガラガラと微塵に崩れ落ちそうなのである…。
強靱な精神力で柔道界において長年に渡り数々の栄冠を手中にしてきた谷亮子選手であるが、今回準決勝で敗退して3位決定戦に臨む瞬間には硝子細工の心であったのかもしれない。
それでも彼女は見事に一本勝ちを決め、有終の美を飾った。
(今日から、短い旅に出ます。)
折りしも私はテレビを横目にパソコンに向かいつつ、来月で1周年を迎える我がブログ「原左都子エッセイ集」の今後の展望と、私の日々のブログ生活のあり方について頭を悩ませていた。
谷亮子選手のあの時の表情と、我がブログに対する複雑な心境とが奇しくも同時点で交錯した。
たかがブログ…、私にとってたかだかひとつの趣味として綴っているブログごときにそんなに頭を悩ませなくとも…、という観念も私の頭の片隅にある。
されどブログ…、何事にも自分なりの美学、哲学を貫きたい私にとっては、たかがブログであれ自分なりのスタンスを常に明確にして、ある程度の将来性を見据えた上で取り組みたいのである。
そうした場合、「原左都子エッセイ集」を今までのペースで綴り続けたいという基本的な思いには今後共何ら変わりはないという、私なりの一応の結論には達する。
今回の私の悩みは、ブログ記事に頂戴するコメントについてである。
既にバックナンバー記事上で何度も述べている通り、本ブログの開設の趣旨は自己のオピニオンの公開にある。そして公開したオピニオンに対して読者の方々より様々なコメントをいただき、さらにブログ(コメント欄等)上で議論を重ねていくことも目的として綴っている。
そのような本ブログの趣旨通り、このような拙いブログに対し常に少なからぬ、かつ内容の濃いコメントを頂戴していることに関しては、ここで改めて心より感謝申し上げたい。
私がコメントにこだわるのは、記事を綴った証としての確かなフィードバックが欲しいためでもある。
アクセス数やランキングにこだわっているブロガーも多いようだが、私にとってはそれらは参考程度に過ぎない。なぜならば、それら数値の真意が数値のみからはまったく読み取れないためだ。斜め読みでも、極端な場合ページを開いただけでもカウントされるのがアクセス数の特徴だ。 私自身も他の方のブログを訪問させていただく場合、大変申し訳ないが自分の興味の度合いに応じて読み方を使い分けている。その中で記事を熟読させていただく機会は正直申し上げて少数であるかもしれない。
読者の方々からコメントをいただけるということは、ある程度記事を熟読していただいている証拠であり、これ程ブロガー冥利に尽きることはない。
特に私のブログにおいて尚有難いことは、コンスタントに内容の濃いコメントをいただけることである。
ところがこのような有難い現象に対し、私の心の中にある種の不安感が頭をもたげ始めたのである。
コメントを頂戴することに慣れ切ってしまい、コメントをいただいて当然というような“おごり”の気持ちが生じていないか、という私自身の内的側面からの悩みである。記事を書きさえすれば読者の方から毎回毎回必ずコメントをいただける。それが私にとって当然の事と化してしまい、私のブログ生活において無意識のうちにコメントに依存しきっている自分の姿に気付き始めたのだ。こうなってくると、極端な話、誰がブログを綴っているのかさえあやふやな感覚が私の頭を巡る。コメンテイターのご力量にすっかり甘えずして成り立たないのではないかという、私のブログのコメント依存の実態が垣間見えてしまう。
そして、私は悩んだ末にある決断を下した。特に固定ファンからいただくコメントに対する依存心をあえて断ち切ろうという、突拍子もなくかつ私にとっては辛い決断を。 そして私は昨夜、特に依存心を強く持たせていただいているある読者の方宛に、その旨の私の決断を綴ったメッセージに、今までいただいたコメントに対する御礼を添えて送信した。まるで、長年連れ添った恋人に別れを告げて独り立ちするかのような心境で…。
なぜ、私はそのような決断を下して敢えて寂しい道を選択するのか。それは自分のブログに対する私なりの美学、哲学がなせる業だと信じたい。
そしてそんな突拍子もない決意をする私の心は、実は硝子細工で出来ている…。もろくて今にもガラガラと微塵に崩れ落ちそうなのである…。
強靱な精神力で柔道界において長年に渡り数々の栄冠を手中にしてきた谷亮子選手であるが、今回準決勝で敗退して3位決定戦に臨む瞬間には硝子細工の心であったのかもしれない。
それでも彼女は見事に一本勝ちを決め、有終の美を飾った。
(今日から、短い旅に出ます。)