原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

無痛化する社会

2008年08月27日 | 人間関係
 子どもの夏休みがあと数日を残すのみとなり、私の夏休みの宿題の手伝いもラストスパートの時期を迎えている。

 (中学生の)子どもの国語の宿題のひとつである「評論文読解」のドリルを手伝っていて、興味深い評論文を見つけた。
 森岡正博氏による「無痛化する社会のゆくえ」と題するエッセイなのであるが、折りしも、私も同様の社会の“無痛化”現象を憂えていたところであり、一時子どもの宿題の手伝いであることを忘れて読み入った。


 以下に、この森岡氏のエッセイを要約してみよう。
 
 いまこの部屋には空調が効いていて快適に会議ができるが、50年前には猛暑の中で熱射病にかかったかもしれない。そういう肉体的な苦しみやつらさがあった。この苦しみやつらさを消すにはテクノロジーを発展させればよいという発想で、現実にそのような技術開発をしてきた。そもそも文明の進歩とは“無痛化”を進めることと考えることもできる。
 正確に言えば、今あるつらさや苦しみから、我々がどこまでも逃げ続けていけるような仕組みが社会の中に張りめぐらされていること、これを私は“無痛化”という言葉で呼ぶ。
 この“無痛化”は将来の“無痛化”をも予測しあらかじめ手を打つという特徴もある。現代の科学技術や医療技術はそのような社会をサポートする方向にどんどん進んでいる。
 この“無痛化”現象を、単に文明の進歩として賞賛していいのか? そうではなく現代哲学が正面から立ち向かって深く掘り下げるべき問題である。
 私(森岡氏)は、“無痛化”は人間から「よろこび」を失わせていると結論づける。社会の中で人間関係の中で、人生の中で体験する苦しみからどんどん逃れていくと快適さ、安楽さが残り、欲しい刺激が手に入れられる。するとどうなるのか。「気持ちがいいがよろこびがない、刺激が多いけれども満たされない」、という状態になる。

 以上は森岡氏の評論文の要約である。


 少し以前の話になるが、ブログ関連のとある場で、若い世代の方が書いた文面に対し、私は少し批判的な反応をさせていただいたことがある。そうしたところ、間髪を容れずにご本人から「自分に対するアクセスは今後一切しないように。書き込んだ文章は即刻削除して欲しい。」という趣旨の抗議文が私の元に届いた。これに対し私は「今後一切(ご本人に対し)アクセスをしないことは承諾するが、(私が)書き込んだ文章が趣旨に沿っていない訳でもないのに、削除を強制するのは言論統制にあたり越権行為であるため拒否する。」旨の返答をした。
 (人物像もまったく存じ上げない若い世代の人を捕まえて厳しすぎる指摘だったかもしれないが、たかがネット上の世界であれ法的ルールには世代を問わず従うべきことを理解していただきたく思い、私としては心を鬼にしての対応だった。)
 
 この例に限らず例えばブログの世界においても、肯定的なコメントは歓迎するが異論反論は受け付けないとの立場をとるブロガーは少なくないのではなかろうか。
 誹謗中傷についてはもちろん誰しも拒否したいものであるが、肯定的なコメントのみを受け付けて表面的でお手軽な“仲良し倶楽部”をすることが快楽であるというような、“無痛化”現象を目の当たりにするひとつの現象と私は捉える。


 人間関係に的を絞って、“無痛化”現象に対する私論をまとめよう。

 既に当ブログの人間関係カテゴリー等で度々既述しているが、人間関係の希薄化現象とは、要するに人間関係の“無痛化”現象なのであろう。
 他者から褒められたり肯定されるのは快楽であるため好む人はもちろん多い。一方で、批判等の否定的な対応を受けることは、たとえそれが本人の成長に繋がるアドバイスであれ忌み嫌う人種が急増している様子である。たとえほんの一時であれ“痛み”を受け付ける免疫力がなくなってしまっている時代なのであろう。

 ところが、人間関係とは“痛み”を経験せずして真の信頼関係は築けないものである。紆余曲折しながら、すったもんだしながら人間関係は少しずつ厚みを増していくものだ。そうやって築かれた関係は簡単には崩れ去らないし、たとえ別れの時が訪れてもいつまでも忘れ去らないものでもある。

 その場しのぎの、“痛み”を知らない表面的な快楽だけの人間関係も、もちろん存在してよい。ただ、自分をとりまくすべての人との関係がそんなに薄っぺらいとしたら、生きている意味はどこにあるのだろう。


 “痛み”を実感できるような人との関係を堪能し、今後共ひとつひとつの確かな人間関係を刻み続けたいものである。 
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