いよいよ子どもの夏休みの最終日。私の宿題の手伝いも大詰めだ。
昨日は数学のドリルの手伝いをした。連立方程式に一次関数、平面図形に立体図形、合同に相似……、昔は私も得意としていた数学である。後10歳いや5歳でも若ければもう少しは働いたであろう私の頭も、そろそろ空洞化して蜘蛛の巣がはりめぐらされようとしている模様だ。老けつつある頭を無理やり振り絞っていると、胃痛が起きてきそうである。
さて、今回の記事も(中学生の)子どもの国語の評論文課題ドリルから引用しよう。
今回取り上げるのは、養老孟司氏著評論文「だれが自分を創るのか」である。
では早速、養老氏のエッセイを以下に要約してみよう。
自分とは、日本の社会では「世間的に作られる自分」である。それを以前は「らしさ」といった。たとえば「女らしい」などであるが、それは封建的な見方だと言われたのはある意味で正しい。「らしさ」とはすなわち社会の産物だからである。
では、自然の本性と「らしさ」を区別できるかといったら無理であろう。「作られた自分」もまた自分である。むしろそれがいわゆる自分、「ふつうの自分」でありそれは世間の中におかれた自分である。日本人は普通、世間にどっぷり漬かって暮らす。
システムはつねに安定性を持つ。そのシステムの安定性に「同じ」という意識のはたらきを重ねると「作られた自分」ができる。それは実際にはたえず変化していくのだが、その変化は大変小さいとみなされるため、我々は毎日別人になるわけではない。長い年月を経たり、外部環境の変化があれば「人は変わる」。課長になったら態度がデカくなったりする。
「ふつうの自分」が世間的に作られたものだということは、年配の人にはよくお分かりのはずだ。人間の社会的役割とは多かれ少なかれその人そのものになってしまう。たとえば、社長は社長らしく、平社員は平らしいのである。「ふつうの自分」は自己の内部で閉じているのではない。世間に開いている。その世間が不安定化すれば、自分も不安定になる。それが現代日本で起こっていることであろう。
以上が、養老孟司氏のエッセイの要約である。
この文章をよく読むと養老氏の言いたい事はわかる気はするが、中学生向けの長文読解問題とするには難解かつ的を射ていないのではなかろうか。大人の私が一読して、何を肯定し何を否定し、何を趣旨としているのかが捉えにくい文章である。
それでは、私なりにこの評論文を分析しつつ私論を導くことにしよう。
私論の結論をいきなり述べると、「私」は「私」自身が創りたいものである。
養老氏は、この評論文の中で社会環境の中での「自分」を述べるにあたり、一例として職業を引き合いに出している。まず、この辺からして私には違和感がある。現実的に現在職業らしきものを持っていない私には職業という社会環境はない。過去に職業経験はあるものの、それはあくまでも過ぎ去りし過去の話にしか過ぎない。
そして「女らしい」例にしても、恋愛をしたり出産をしたりという具体的な場面において確かにこの私も「女さしさ」を発揮するが、私は日常的に「女らしい」と他者から言われることも稀であるし(たまには言われたいものだなあ…)、自分自身でも女であることをやたらめったら意識しつつ日々を過ごしている訳でもない。
そんな私にとっては、自分の自然の本性と「らしさ」は日常生活において一線を画しており、区別のできる事象なのである。
養老氏は、「ふつうの自分」が世間的に作られたものだということが“年配”の人にはよくおわかりのはずである、と述べている。この場合の“年配”者にはおそらく私はまだ属さないとは思うが、“年配”とされている方々が、本当にそのように捉えていらっしゃるのであろうか。すなわち社長は社長らしく、のごとく「ふつうの自分」を捉えているのかも疑問である。今のご年配の方々は、養老氏の思考よりもずっと進化しているように、私自身の経験から察するのだが。 公的場面においては役割分担上、たとえば社長さんは社長を演ずるかもしれない。が、私的立場では、良識ある方々は自分の立場をわきまえているものである。少なくとも私の周囲のご年配の方々は、私的場面でご自身の社会的地位を振りかざす方は一人も存在しない。
養老氏がこの評論文の趣旨とされたのは、おそらくエッセイの最後の部分であろう。すなわち、現在の社会は不安定化しているが故に、世間的に作られる「自分」自身も不安定化せざるを得ない。それが現代日本で起こっている大きな問題点であろう、とご指摘されたかったものと捉えられる。
私も、現代日本で起こっている社会的混乱ともいえる不確実性には辟易とさせられる部分が大きく、心を痛める場面ももちろんある。
だが、一方でこんな不確実性の高い世の中にあってなお、「世間」には頼らずに確固とした自己を築ける能力があるならば、むしろ役割分担が明確化していた一時代前よりも現在は「私」を創り易いのではないか、というようなプラス部分も大きいと私は感じるのである。
どのような時代であれ「私」は職業や性別等の「世間的に作られる自分」とは一線を画した存在でありたい。そのような真の「私」を、「私」自身が創り上げようとする強さと自信を持ちつつ生きたいものである。
昨日は数学のドリルの手伝いをした。連立方程式に一次関数、平面図形に立体図形、合同に相似……、昔は私も得意としていた数学である。後10歳いや5歳でも若ければもう少しは働いたであろう私の頭も、そろそろ空洞化して蜘蛛の巣がはりめぐらされようとしている模様だ。老けつつある頭を無理やり振り絞っていると、胃痛が起きてきそうである。
さて、今回の記事も(中学生の)子どもの国語の評論文課題ドリルから引用しよう。
今回取り上げるのは、養老孟司氏著評論文「だれが自分を創るのか」である。
では早速、養老氏のエッセイを以下に要約してみよう。
自分とは、日本の社会では「世間的に作られる自分」である。それを以前は「らしさ」といった。たとえば「女らしい」などであるが、それは封建的な見方だと言われたのはある意味で正しい。「らしさ」とはすなわち社会の産物だからである。
では、自然の本性と「らしさ」を区別できるかといったら無理であろう。「作られた自分」もまた自分である。むしろそれがいわゆる自分、「ふつうの自分」でありそれは世間の中におかれた自分である。日本人は普通、世間にどっぷり漬かって暮らす。
システムはつねに安定性を持つ。そのシステムの安定性に「同じ」という意識のはたらきを重ねると「作られた自分」ができる。それは実際にはたえず変化していくのだが、その変化は大変小さいとみなされるため、我々は毎日別人になるわけではない。長い年月を経たり、外部環境の変化があれば「人は変わる」。課長になったら態度がデカくなったりする。
「ふつうの自分」が世間的に作られたものだということは、年配の人にはよくお分かりのはずだ。人間の社会的役割とは多かれ少なかれその人そのものになってしまう。たとえば、社長は社長らしく、平社員は平らしいのである。「ふつうの自分」は自己の内部で閉じているのではない。世間に開いている。その世間が不安定化すれば、自分も不安定になる。それが現代日本で起こっていることであろう。
以上が、養老孟司氏のエッセイの要約である。
この文章をよく読むと養老氏の言いたい事はわかる気はするが、中学生向けの長文読解問題とするには難解かつ的を射ていないのではなかろうか。大人の私が一読して、何を肯定し何を否定し、何を趣旨としているのかが捉えにくい文章である。
それでは、私なりにこの評論文を分析しつつ私論を導くことにしよう。
私論の結論をいきなり述べると、「私」は「私」自身が創りたいものである。
養老氏は、この評論文の中で社会環境の中での「自分」を述べるにあたり、一例として職業を引き合いに出している。まず、この辺からして私には違和感がある。現実的に現在職業らしきものを持っていない私には職業という社会環境はない。過去に職業経験はあるものの、それはあくまでも過ぎ去りし過去の話にしか過ぎない。
そして「女らしい」例にしても、恋愛をしたり出産をしたりという具体的な場面において確かにこの私も「女さしさ」を発揮するが、私は日常的に「女らしい」と他者から言われることも稀であるし(たまには言われたいものだなあ…)、自分自身でも女であることをやたらめったら意識しつつ日々を過ごしている訳でもない。
そんな私にとっては、自分の自然の本性と「らしさ」は日常生活において一線を画しており、区別のできる事象なのである。
養老氏は、「ふつうの自分」が世間的に作られたものだということが“年配”の人にはよくおわかりのはずである、と述べている。この場合の“年配”者にはおそらく私はまだ属さないとは思うが、“年配”とされている方々が、本当にそのように捉えていらっしゃるのであろうか。すなわち社長は社長らしく、のごとく「ふつうの自分」を捉えているのかも疑問である。今のご年配の方々は、養老氏の思考よりもずっと進化しているように、私自身の経験から察するのだが。 公的場面においては役割分担上、たとえば社長さんは社長を演ずるかもしれない。が、私的立場では、良識ある方々は自分の立場をわきまえているものである。少なくとも私の周囲のご年配の方々は、私的場面でご自身の社会的地位を振りかざす方は一人も存在しない。
養老氏がこの評論文の趣旨とされたのは、おそらくエッセイの最後の部分であろう。すなわち、現在の社会は不安定化しているが故に、世間的に作られる「自分」自身も不安定化せざるを得ない。それが現代日本で起こっている大きな問題点であろう、とご指摘されたかったものと捉えられる。
私も、現代日本で起こっている社会的混乱ともいえる不確実性には辟易とさせられる部分が大きく、心を痛める場面ももちろんある。
だが、一方でこんな不確実性の高い世の中にあってなお、「世間」には頼らずに確固とした自己を築ける能力があるならば、むしろ役割分担が明確化していた一時代前よりも現在は「私」を創り易いのではないか、というようなプラス部分も大きいと私は感じるのである。
どのような時代であれ「私」は職業や性別等の「世間的に作られる自分」とは一線を画した存在でありたい。そのような真の「私」を、「私」自身が創り上げようとする強さと自信を持ちつつ生きたいものである。