原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

再掲載「『教え子』なる言葉、もう死語にしませんか?」

2024年07月17日 | 教育・学校
 本日は、またもや「原左都子エッセイ集」バックナンバーより再掲載ものでお茶を濁させていただくこととしよう。



 早速、2012.09.05付公開の「『教え子』なる言葉、もう死語にしませんか?」を、以下に再掲載しよう。

 原左都子が嫌悪感を抱く表現の一つに 「教え子」 なる言葉がある。
 過ぎ去りし時代にほんの一時学校という一集団の場でかかわった教員側から、いつまでも我々一般人の事を「教え子」呼ばわりされたって、今となってはどっちが偉いのか何なのか判断が難しい現実なのにねえ……
 との感覚に、庶民の皆さん襲われた経験はないだろうか?
 いえいえ学校の諸先生方は確かに我々より“年齢のみ”は上であられる故に、人生の先輩でいらっしゃる事は私も認める。 (いやいや、社会人入学生が少なくない定時制高校や大学・大学院などにおいては逆転現象もままある時代だ。)
 だがそもそも人間関係とは、過去に於いて先生の立場であったから“偉い”だの、自分がこの生徒を“教えた”どうのこうので序列が決定するはずもない。
 お互いに対等な大人となった段階では、もうそんなものどうでも良さそうなものなのに…… 
 何故、教員経験者とは生徒卒業後に及んで尚「教え子」なる表現を持ち出してまでも、過去に一時たまたま指導した生徒達に対し自己の“教育者”としての立場こそがランクが上と位置付けたがるのであろうか??

 いや、それが許される場合もある。
 もう既に老齢年代にあられる諸先生方に関しては、この私も久々にお会いすると「先生、お体の具合はいかがですか?」なるお声を一言かけて労わって差し上げたい思いになるものだ。 

 だが何と言っても“学校嫌い”の私は、それに付随して「同窓会」なるものを基本的には敬遠している。
 私の場合そもそも「同窓会」にさほど出席していない事もあるが、過去に於ける同窓会会場で出席者に向かって「教え子」なる“上から目線言葉”を吐いた教員も一人として存在しないのはラッキーと言える。(同窓会にお見えになる先生のレベルの程を私が熟考した上で出席返答をしているからであろうが。)
 今後もしも年老いられて尚「教え子」なる言葉を一切吐かず、我々と対等に会話して下さる先生が存命されていらっしゃるのならば、そんな同窓会には出席してみたい気もする私だ。 

 私自身に話を戻すと、過去において短期間ではあるが“高校教員”経験がある。
 教員退職後しばらくの期間、電話や便りをもらった生徒は何人か存在する。既に教職を離れている私は、それら元生徒に対しあくまでも“個人的人間関係”の位置付けで対応して来た。 
 一方、元教員の立場で「同窓会」になど一度も出席したことはないし、正直言って出席したいとの発想もない。 (何と言ってもそもそも「集団嫌い」な私であり、種々雑多な人が多く集まる場は出来る限り避けて通りたい故だ。)
 そんな私が、彼ら(彼女ら)に対し「教え子」なる“上から目線”の表現など使う訳もない。 彼らと何らかの共通項があれば自ずとその分野において今後も一対一の人間同士の対等な付き合いが続くだろうとの感覚はあったが、私の方から“どうか皆さんいつまでも私の「教え子」でいて下さい”などとのみっともない嘆願目的で旧生徒を集結させる「同窓会」開催を煽った事など一度としてあるはずもない。

 今回このエッセイを綴るきっかけを得たのは、8月終わり頃の朝日新聞「声」欄の投書による。
 50歳現役小学校校長による 「成長した教え子の姿に喜び」 と題する投書を以下に要約して紹介しよう。
 毎年お盆の時期になると中学で教えた子たちから同窓会の案内が届く。 今年も2つの会に出席した。 一つは33歳、もう一つはそれより10歳若い子たちの会合である。 仕事や家庭の様子をしっかり話す様子を見て彼らの人生の一部にかかわることができうれしい気持ちでいっぱいになる。 いずれの会でも何人かから「最近先生に叱られた意味が分かった」と言う生徒もいるが、それが教師冥利に尽きる。教師がぶれずに毅然と対応すれば、子ども達の成長の糧になる。 当たり前の事を認識させてくれた会だった。
 (以上、朝日新聞「声」欄投書より引用)

 原左都子の私論に入ろう。
 う~~ん、辛いなあ……
 この種の“単純馬鹿”校長を自治体教育委員会が公立学校の現場長として君臨させているからこそ、この世に「いじめ」及びそれに伴う「自殺」問題が後を絶たないと私は結論付けたい思いだ。
 現在50歳という若き年齢の公立小学校校長さん。 貴方が今やるべき事を原左都子が伝授申し上げるならば、同窓会に“出席しなかった卒業生”にこそ思いを馳せることだ。 同窓会に出席できない(あるいは出席したくない)それら元生徒が於かれている現状やその心理に少しでも配慮心が及んだならば、貴方も今後イッパシの校長として君臨できるのかもしれない。
 えっ? 現役小学校校長たる者が「教え子」である卒業生が主宰する同窓会に出席して楽しかったのだって? 
 そんなの当たり前だよ。 そもそも同窓会とは学校生活が楽しかった(私に言わせてもらうと)“単細胞連中”が出席する場だもの。(言い過ぎの場合お詫び申し上げます)  そんな単純「教え子」連中に自分の存在意義を一時認めてもらったから嬉しいですって?? それにしても今現在、学校長の立場で自分の未熟さ加減を新聞に投稿している場合ではない事に、何故この小学校校長は気付かないのだろう???

 大津市内公立中学に過去に於いて発生した「いじめ・自殺」問題は、現在訴訟事件と発展し警察による事情聴取を在校生徒が受けている現実だ。
 たかが学校に於ける「いじめ」事件とて、学校現場や教育委員会及び管轄自治体にこれ程までに対応力がない現実において、訴訟事件として警察からの強制捜査及び事情聴取を学校や生徒が受ける時代と相成った事に関して原左都子は賛同の立場である。
 朝日新聞「声」欄投稿者である山口県下関市の50歳の小学校校長さん、貴方がこの夏元生徒が出席する同窓会に出席して、よき「教え子」にまみえたと単純に喜んでいることを決して全面否定する訳ではない。
 ただ原左都子としては、生徒達が抱えているその裏側事情を同時に思慮深く洞察する力があってこそ、今後の校長職を全うできるのではないかとの老婆心を抱くのだ。
 今回の貴方の朝日新聞「声」欄への投書とは、わずか50歳の若輩校長にして「教え子」なる現在の自らを正当化するべく言葉を持ち出した事で、墓穴を掘ったと捉えさせていただいた次第だ。

 (以上、「原左都子エッセイ集」よりバックナンバーを再掲載したもの。)



 上記バックナンバー内でも記載している通り。

 私自身は、特に大学・大学院進学(2大学を経験しているが、その2大学共々)後は、自分でも不思議な程に恩師に恵まれてきている。

 大学(及び大学院)で知り合う恩師とは、まさに自身の今後の就職等々の将来性に直接結び付くべく存在であられる。

 それを外すとなると。
 (繰り返すが私自身は恵まれていたが)、何のために大学・大学院へ進学したかのすべてをぶち壊される結論となるであろうと推測する。

 だからこそ、特に大学・大学院にての恩師の選択は、学生自身の力量に委ねられていると結論づけられると断言しよう。


 上記本文中でも記したが。
 小中校時代の「恩師」など、特段誰でもよかったとも言って過言でないと言えよう。 (いえいえ、高卒にて その恩師のお陰で良き就職先に恵まれた等々の過去歴をお持ちの方もおられるだろうが…)


 とにかく、恩師の人格や力量よりも。

 貴方の人生を決定するのは、「あなた自身の実力」である事は明瞭な事実であろう!!