原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「自分史」書くのは自由だが“読め”と強要するの勘弁して

2014年11月08日 | 自己実現
 表題の通り「自分史」を書く事自体は本人が好きにすればよい話だが、それを配られた立場としてはとてつもなく迷惑なものだ。

 配ったきりで後々感想等のフィードバックを求めないのならば、配られた側としても「古紙回収」に出す等の手段が取れるため特段の迷惑はない。

 ところが「自分史」を書いて配る人種とは、どうもフィードバックを求めたい気質の持ち主であるのが大方のようでもある。


 原左都子自身が、他者より「自分史」を配られる事を現在まで何度か経験している。

 その中で一番迷惑だったのは、知人の友人氏が綴り出版したと言う「癌闘病記」を知人より手渡された経験である。

 これぞ、実に困惑させられた…
 それを手渡されたのが、私が20年程前に癌に罹患した直後だったのだ。
 私に医学経験がある事をその知人に話していたにもかかわらず、その本を手渡された私は大いなる違和感を抱かざるを得なかった。
 渡したご当人曰く「これを読んで元気を出して」。  そんな“勘違い気配り”に端を発していたようだが、そもそも私自身は既に自分の癌を医学専門観点より冷静に分析出来ていた。

 それにも増して、時は癌手術直前の入院準備期だ。 当時若干の事情を抱えて産んだ娘が未だ2歳だった。入院中娘の面倒を実母に上京して見てもらう手配やら、留守中家庭内が上手く機能するための方向付けやら、癌保険の保険金受け取りの段取りやらと、時間的にもまったく余裕がない時期だった。 心身共に疲労困憊している時期に、この本を読め!と私に手渡す知人の非常識ぶりに大いに落胆させられたものだ。

 そこで申し訳ないが私が採った行動とは、その「自叙伝」とやらをパラパラとめくったのみで、すぐさま知人へ返却するとの行為だった。 
 その本を手に取りパラパラとページをめくってみた際、医学を経験している我が脳裏にどよめいたのは、「自叙伝」を書いて出版した知人の友人とやらの癌の進み具合が、相当悪化状態にあるとの印象だった。  「もしかしたら自叙伝筆者の命は短いのかもしれない…」  それ自体は気の毒な事には間違いない。 元医学関係者の立場としては、むしろこちらこそが癌で苦しむ自叙伝筆者のために何らかの働きかけをしてあげるべきかとも少し考えた。 
 ただ、私自身がその直後に入院して癌摘出手術を受けねばならない運命下にある。 今は自分の癌闘病を優先するべきだ。 そんな切羽詰まった時によくぞまあ、知人は私に友人の「自叙伝」を手渡し、これを読め!と強制出来たものだと改めて呆れ果てるしかなかった。 
 その後当該知人とは音信不通状態であるが、その“非常識”ぶりを時折思い浮かべ、今となってはあの人は自分が犯した過ちを少しは反省しているのだろうか、あるいは同じ過ちを他者に対し繰り返しているのだろうか等々と想像する。


 次に紹介するのは、我が実姉の事例だ。

 40年程前に米国に渡り生涯永住予定の実姉が、「自叙伝」を執筆して自費出版すると言い始めたのは10年程前の事だったと記憶している。
 若かりし頃よりミスコンテストなどに恥ずかしげもなく出場(ミスインターナショナル地元代表を経験している)したり、タレント活動に興じる等々、我が姉の自己顕示欲の強さはその時始まった事ではなかった。
 私よりもずっとリッチだし、好きにさせてやれば… 等々母と話し合っているのを尻目に、姉はさっさと「自叙伝」を仕上げて自費出版に踏み切った。 その費用たるや、3000部発行で200万円也!  増刷希望の場合は、冊数に応じて追加代金が発生するシステムだ。
 英語で記して米国で自費出版してくれれば日本の家族の顔に泥を塗らずに済むものを、何と姉は日本の出版会社を通じて日本で発売すると言う。  
 「どうせ売れる訳がないから、家族が恥をかかされる事はないと思うよ。」と私が母に告げた通り、売れずに返却された「自叙伝」はもはや自ら古紙回収に回すしかない。

 ところが、我が姉の自己顕示欲はその後も続く。
 1冊目は失敗だったが、2冊目こそ!との勢いの下、再び200万円を投じて「自叙伝vol2」を発刊したのだ!
 この時既に家族としては何も言うことはなかった。 カネを投じて自己実現し満足できるのならば好きにさせてやろうよ… 
 
 ここで何故我が姉が更なる200万円を投じ、2冊目出版に踏み切ったのかを説明しよう。
 それは初版「自叙伝」に対し、配布した周囲の知り合いの中で感想なり評価なりを述べてくれる希少な方々が存在したからに他ならないのだ。  私もその気持ちは分かる気はする。 自分の何らかの「業績」に対し周囲からフィードバックがあるという事実自体が、自分自身の一時の「達成感」に繋がるかの気になれる事は私も理解可能だ。 
 ところが我が姉の失敗とは、他者よりのフィードバックを“社交辞令”範疇と受け止められず、少しばかり“いい気”になってしまった事にあると私は分析するのだ。 
 それが証拠に姉の場合2冊目出版後は周囲より何らのフィードバックももらえず、心底落胆したとの事だ。 これでやっとこさ、姉は自費出版に私財を費やす趣味から目覚められた様子である。    


 かく言う私自身も、国内某自費出版企業等々より一時自費出版を促された経験がある。 ただ私の場合は姉程の資金力がないのが一番の理由で、即刻お断りした事が幸いしている。

 それにしても、私にとっては当該 「原左都子エッセイ集」 自体こそが我が「自分史」の位置付けにあると自覚している。
 一銭の収入にもならないのと並行し、私側の支出もほぼ無料同然で我がエッセイを日々綴りネット上で公開出来ている事実に、今一度 goo に感謝申し上げたい思いだ。
 今後共、原左都子自身はこのスタンスで我がエッセイを綴り公開する事を我がライフワークと位置付けたい。


 世間を見渡せば、時は「自分史」活況期と聞く。

 子供から高齢者に至るまで、「自分史」を綴り配布(公開)してよいであろう。
 ただ初心に戻って自ら考察して欲しいのは、その「自分史」の価値が相対的に如何程かとの事実だ。
 商業主義に安易に流され自己資産の一部を失うのではなく、「自分史」を綴れた自己の力こそを内面で相対評価する力を身に付けつつ、自分なりの達成感を得られる忍耐力を培って欲しいものである。

 とにかく「自分史」を直ぐに周囲へ配布する行為は避け、その価値があるのか否かを自分なりに精査した後に実行して欲しいものだ。

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