原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

体育がスポーツ嫌いを招かぬために

2023年01月20日 | 教育・学校
 (冒頭写真は、2023.01.16付朝日新聞「まなび つながる 広場」コーナーより転載したもの。)



 冒頭の朝日新聞のテーマを見た瞬間。

 私は本エッセイ集にて公開した 2009.05.16付エッセイ「『逆上がり』の屈辱」と題する教育・学校カテゴリー記事を思い起した。

 以下に、その一部を再掲載させていただこう。

 今の小学校でも、児童生徒全員が必ず「逆上がり」が出来なくてはいけないなどという“意味不明な縛り”を、まだ全児童に課し続けているのであろうか?

 5月の連休中の朝日新聞の「ひととき」欄に、公園で子どもの「逆上がり」の練習に付き合っていて、「逆上がり」が出来なかったはずの母親である自分が思いがけず出来てしまい公園で注目の的になったという、30歳代の女性からのほほえましい投書があった。
 似たような経験は私にもある。我が子が小学生の頃までは子どもが苦手なスポーツ種目等様々な事柄に付き合って、公園等でよく一緒に練習したものだ。
 例えば「持久走」、これは私も子どもの頃は苦手だった種目である。ところが子どもと一緒に公園を走ると、以外や以外いつまででも走れるのだ。先に音(ね)を上げた子どもを休憩させて、一人で連日一体どれ位の距離を走ったことだろう。
 それから「縄跳び」。体力には自信がないもののリズム感は自慢の私は「縄跳び」は子どもの頃から比較的得意種目だった。 何十年かのブランクをものともせずやはり我が子よりも数段上手い。子どもの指導も放ったらかして、公園で一人で没頭して跳びまくったものだ。
 「ボール投げ」もやったなあ。折れそうな細腕だった小学生の頃の私は9m投げるのがせいぜいだったのに、今投げると20m程飛ばせるから不思議だ。
 
 何年か前に、テレビの対談番組で女優の桃井かおり氏も同様のことを話していた。
 昔子どもの頃できなかった「逆上がり」等のスポーツ種目が、50歳を過ぎて体が老化の一途を辿っている今、不思議と何でも出来てしまうのだと。それは単に体力や技術的な問題のみならず人間的成長がものを言っている、云々… そのような趣旨の話をしていたと記憶している。

 まさに私も同感だ。
 人生経験を積み重ねていく中で自然と体力面や技術面の力が向上し、体の各部位の効率的な使い方というものを誰に教わる訳でもなく心得てくるように感じる。 子どもの頃には訳がわからずただただやみくもに頑張っていたことが、今では力加減を心得るようになっている。
 それに加えて、人間としての“成功感”が大きくものを言うようにも私は感じる。人生における様々な分野での成功体験を通じて自信が芽生え、チャレンジする対象事象の如何にかかわらず「自分は出来るぞ!」とのごとくのエネルギーが内面から湧き出てくるのだ。このような精神力が力強い後ろ盾となって、体を突き動かしてくれるように感じることをよく経験する。

 話を冒頭の小学校の頃の「逆上がり」に戻すが、この私もなかなかクリア出来ずクラスで最後の2、3人にまで残った“「逆上がり」落ちこぼれ”児童だった。 
 あれは、我が幼き日の屈辱的な光景として今尚忘れずにいる。

 上にも書いたが、まず我が折れそうな細腕が体を支えられない。
 それ以前の問題として、昔の小学校には体育専任教師など配備されておらず、技術的に「逆上がり」を指導できる指導者が誰一人いないのだ。そんな悪環境の中で、ただただ周囲の児童が成功するのを見よう見真似で頑張るのだが、どう足を上げても成功には程遠く疲れ果てるばかりだ。
 更に極めつけは、昔の学校においては“出来の悪い子を責める”教育がまかり通っていたのだ。「皆出来るのに、何であんたは出来ないの!」との教員の罵声が「逆上がり」が出来ない児童の劣等感に追い討ちをかける。 「だったら、あんたがちゃんと教えろよ!」と今なら言い返すが、当時の幼き私に教員に逆らう手立ては何もない。

 それでも、その“出来の悪い”2、3人で日が暮れるまで学校の校庭で毎日頑張った。一緒に残って元気に遊び回っている“出来る子”をお手本にしつつ、ある日、何とか「逆上がり」が出来た私であった。
 残念ながら“ひねくれ者”の私には何の達成感もなく、豆だらけで血が滲み鉛筆を持つにも痛む手と、“劣等感”を抱かされた屈辱的な「逆上がり」を、もう金輪際しなくて済むという開放感のみが我が幼な心に残った。

 昔の小学校の体育教育において、何故にたかだか鉄棒の一種目でしかない「逆上がり」ごときに、教育行政があれ程までにこだわったのかは不明だ。
 もしかしたら、東京オリンピックで男子体操チームが大活躍したことに、単に浮かれたて連動した安直な教育行政だったのだろうか??? 

 現在(当時)高校生になっている我が子も、所属小学校から「逆上がり」をクリアする事を強制されてはいなかったようだ。 恐らく現在では「逆上がり」クリアを全員強制とするがごとくの子どもの個性や多様性を無視した安直な教育理念は、教育現場から排除されていると信じたい。

 そのような教育現場における時代の進化を喜びつつ、さて明日は公園へでも行って、今度は「逆上がり」にでも挑戦してみようかな!! イエイ!

 (以上、原左都子エッセイ集2009年バックナンバーより一部を引用したもの。)




 2023.01.20現在の原左都子の私事・感想等を述べよう。

 今現在思い出してみても、私が郷里過疎地にて受けた小学校の「体育」教育は劣悪だった。
 現在とは異なり、「体育」専任教員が配備されていなかった時代背景だが。
 とにかく、全ての教科を学級担任が指導するのだが。
 (私に言わせてもらうに)スポーツなど無縁に見えるデブったおばさん教員が児童の体育指導もするのだが。 子供心に如何に贔屓目に見ても、「体育」指導をこなせる能力がまるで無い。
 そのくせ、出来ない児童をたしなめるのはへいっちゃらだ。
 まさに上記引用文中にて記した通り、「『皆出来るのに、何であんたは出来ないの!』との教員の罵声が“逆上がり”が出来ない児童の劣等感に追い討ちをかける。」 『だったら、あんたがちゃんと教えろよ!』と今なら言い返すぜ!!!

 私の場合救われたのは、中学生になって素晴らしい女性体育教師に恵まれたことだ。
 いつも肯定的に物事を捉えて下さる教師先生で、決して運動神経が優れているとは言い難いこの私をあたたかく応援して下さったものだ。
 そのお蔭をもって、小学生時代に抱かされた“体育アレルギー”からすっかり解放され。
 大人になって以降は自らダンスやランニングに励んだりしつつ、私なりに体力づくりに勤しむ人生を送ることが叶っている。 (左膝複雑骨折の身の現在は無理だが…😭


 そんな私も朝日新聞記事のタイトルに同感だ!
 
 「体育がスポーツ嫌い招かぬために」

 特に、未だ発達・成長途上期の児童・生徒達に対する“スポーツ指導”に於いては、体育教育理念にかなった正しい指導を施して欲しいものだ。