(冒頭写真は、朝日新聞2023.01.01付記事「うるう秒 実質廃止へ」より転載したもの。)
「原左都子エッセイ集」2012.02.29付<学問研究カテゴリー>において、私は「『うるう年」はともかく『うるう秒』をどうしましょう?」と題するエッセイを綴り公開している。
以下に、その一部を要約引用させていただこう。
本日(2012年)は2月29日である。
4年に一度しかないこの日の存在を、皆さんは如何に捉えていらっしゃるのだろう?
元々学校嫌いの私の場合、例年より1日多く学校へ行かねばならない事が子ども心に苦痛に感じたものだ。
その後成人して社会人となった頃には給与が“月給制”であったため、1日分多く働いて損した気分にも襲われた。
そんなくだらない原左都子の私的感情は二の次でよいのだが、「2月29日」という日の存在により一番被害に遭われているのは、この日が「誕生日」であられる方々ではなかろうか?
さしあたって 1人/1500人 程の類稀な確率でこの世に生命を授かったであろう人物は、残念ながら私の周囲には今まで存在しない。
以前メディアを通してこの日生まれの方がコメントを述べておられるのを見聞した記憶がある。 2月29日が4年に一度しか訪れずとも当然毎年年齢を重ねる訳だが、そのお祝いを1日早い28日にしてもらうにせよ、やはり自分がこの世に生を受けた日が4年に一度しか訪れないのは寂しい、との見解をその人物が述べられていたような記憶がある。
その心情を重々理解可能だ。 (中略)
ところで、皆さんは 「うるう秒」 をご存知であろうか?
「うるう年」はともかく、「うるう秒」が如何に科学的に処理されるのか?こそが、宇宙の中に存在する我ら地球の恒常性の維持、そして今後の地球のグローバルな発展の観点から心配な原左都子である。
ここで「うるう秒」に関して、朝日新聞記事を参考にしつつ説明しよう。
「うるう秒」とは1972年に導入された概念である。
地球の自転に基づく時刻(世界時)から0.9秒以上ずれないようにするため、世界で合意したある時に原始時計の時刻に「1秒」挿入するという施策により、「時間」世界の標準時に合わせる措置を取ろうとの考え方である。 (原左都子の記憶によれば、過去においてこの「1秒」挿入が世界規模で何度か実施された時があったと心得る。)
ところが、現在はコンピューター制御社会へと世界中が移り変わっている。
そんな目まぐるしいまでの社会全体の情報化に伴い、今の時代に於いて不定期に「うるう秒」挿入を実行する事が、コンピュータープログラム上で実に困難な事態へと世が移り変わったのである。
(参考のため、次回の「うるう秒」挿入時期は、今年7月1日予定だったそうだ。)
ITU(国際電気通信連合)は1999年からこの「うるう秒」の検討を続けてきているのだが、今年1月19日に行われたスイス・ジュネーブの会合に於いて、この問題は先送りされることと相成ったようだ。
その理由とは上記に記した通り、現在世界規模でコンピューター化が進展した事実故に他ならない。
原左都子の私論を語ろう。
この「うるう秒」問題を原左都子の単純思考で考察・分析して簡単にまとめて説明するならば、 要するに、 「宇宙及び地球」の遠い未来の整合性と、 「コンピューターにより発展を遂げている実社会」に於ける現世の利害 とを単純に天秤にかけた場合、どちらが重いのかという命題ではなかろうか?
確かに現世に生き「コンピューター」の存在に多大なる恩恵を授かっているこの私も、現実問題として今現在「うるう秒」を全世界で挿入する事によるその作業の困難さや経済的損失が如何程に甚大なものかは想像可能である。 その「うるう秒」一発措置が世界規模で上手く作動すればよいが、もしも一地域たりとて失敗に終わった場合の世界の政治経済上の混乱も多大なものとなる事は想像がつく。
そこで未熟な原左都子の提案となるのだが、「うるう秒」ではなく、「うるう分」あるいは「うるう時」などの実行はどうであろうか? などと思い浮かぶのだ。 そうする事により議論を次世代に先送り出来るメリットがありそうにも考えるのである。
ところが原左都子が素人考えでこのような提案をせずとて、世の中には当然ながらこの種の議論も既に存在している現状だ。
ここでまた未熟な私の提案であるが、やはり未来にこの議論を持ち越すとの考え方も成立し得るのではなかろうか?
今現在の世界規模の政治経済の混乱を考えると、今年7月に実行予定だった「うるう秒」導入措置を先送りした今回のITUの判断は正解だったのかと私も感じる。
だからと言って、ならばこのまま「うるう秒」問題を“なし崩し的”に先送りしてよいはずもなかろう。
宇宙規模や永遠の時空間規模でこの世の恒常的持続を考慮した場合、人間をはじめとする諸生物が地球上に生を受け繁殖を繰り返す事を欲する限り、今後も暦や時間概念はそれら生命体にとって決して侮ってはならない概念であろう。
ITUが今回「うるう秒」実行を先送りしたとは言え、今後も我々年配者はその分野の後進の科学者を地道に育成し続ける事を怠ってはならない。
4年に一度しかないこの日の存在を、皆さんは如何に捉えていらっしゃるのだろう?
元々学校嫌いの私の場合、例年より1日多く学校へ行かねばならない事が子ども心に苦痛に感じたものだ。
その後成人して社会人となった頃には給与が“月給制”であったため、1日分多く働いて損した気分にも襲われた。
そんなくだらない原左都子の私的感情は二の次でよいのだが、「2月29日」という日の存在により一番被害に遭われているのは、この日が「誕生日」であられる方々ではなかろうか?
さしあたって 1人/1500人 程の類稀な確率でこの世に生命を授かったであろう人物は、残念ながら私の周囲には今まで存在しない。
以前メディアを通してこの日生まれの方がコメントを述べておられるのを見聞した記憶がある。 2月29日が4年に一度しか訪れずとも当然毎年年齢を重ねる訳だが、そのお祝いを1日早い28日にしてもらうにせよ、やはり自分がこの世に生を受けた日が4年に一度しか訪れないのは寂しい、との見解をその人物が述べられていたような記憶がある。
その心情を重々理解可能だ。 (中略)
ところで、皆さんは 「うるう秒」 をご存知であろうか?
「うるう年」はともかく、「うるう秒」が如何に科学的に処理されるのか?こそが、宇宙の中に存在する我ら地球の恒常性の維持、そして今後の地球のグローバルな発展の観点から心配な原左都子である。
ここで「うるう秒」に関して、朝日新聞記事を参考にしつつ説明しよう。
「うるう秒」とは1972年に導入された概念である。
地球の自転に基づく時刻(世界時)から0.9秒以上ずれないようにするため、世界で合意したある時に原始時計の時刻に「1秒」挿入するという施策により、「時間」世界の標準時に合わせる措置を取ろうとの考え方である。 (原左都子の記憶によれば、過去においてこの「1秒」挿入が世界規模で何度か実施された時があったと心得る。)
ところが、現在はコンピューター制御社会へと世界中が移り変わっている。
そんな目まぐるしいまでの社会全体の情報化に伴い、今の時代に於いて不定期に「うるう秒」挿入を実行する事が、コンピュータープログラム上で実に困難な事態へと世が移り変わったのである。
(参考のため、次回の「うるう秒」挿入時期は、今年7月1日予定だったそうだ。)
ITU(国際電気通信連合)は1999年からこの「うるう秒」の検討を続けてきているのだが、今年1月19日に行われたスイス・ジュネーブの会合に於いて、この問題は先送りされることと相成ったようだ。
その理由とは上記に記した通り、現在世界規模でコンピューター化が進展した事実故に他ならない。
原左都子の私論を語ろう。
この「うるう秒」問題を原左都子の単純思考で考察・分析して簡単にまとめて説明するならば、 要するに、 「宇宙及び地球」の遠い未来の整合性と、 「コンピューターにより発展を遂げている実社会」に於ける現世の利害 とを単純に天秤にかけた場合、どちらが重いのかという命題ではなかろうか?
確かに現世に生き「コンピューター」の存在に多大なる恩恵を授かっているこの私も、現実問題として今現在「うるう秒」を全世界で挿入する事によるその作業の困難さや経済的損失が如何程に甚大なものかは想像可能である。 その「うるう秒」一発措置が世界規模で上手く作動すればよいが、もしも一地域たりとて失敗に終わった場合の世界の政治経済上の混乱も多大なものとなる事は想像がつく。
そこで未熟な原左都子の提案となるのだが、「うるう秒」ではなく、「うるう分」あるいは「うるう時」などの実行はどうであろうか? などと思い浮かぶのだ。 そうする事により議論を次世代に先送り出来るメリットがありそうにも考えるのである。
ところが原左都子が素人考えでこのような提案をせずとて、世の中には当然ながらこの種の議論も既に存在している現状だ。
ここでまた未熟な私の提案であるが、やはり未来にこの議論を持ち越すとの考え方も成立し得るのではなかろうか?
今現在の世界規模の政治経済の混乱を考えると、今年7月に実行予定だった「うるう秒」導入措置を先送りした今回のITUの判断は正解だったのかと私も感じる。
だからと言って、ならばこのまま「うるう秒」問題を“なし崩し的”に先送りしてよいはずもなかろう。
宇宙規模や永遠の時空間規模でこの世の恒常的持続を考慮した場合、人間をはじめとする諸生物が地球上に生を受け繁殖を繰り返す事を欲する限り、今後も暦や時間概念はそれら生命体にとって決して侮ってはならない概念であろう。
ITUが今回「うるう秒」実行を先送りしたとは言え、今後も我々年配者はその分野の後進の科学者を地道に育成し続ける事を怠ってはならない。
地球上に生命体が存続する限り、宇宙規模の課題である「うるう秒」問題を継続するべき思いを後世に伝承していく事こそが肝心かと私は心得る。
(以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用したもの。)
上記引用文中の原左都子の私見部分を今一度繰り返そう。
「この『うるう秒』問題を原左都子の単純思考で考察・分析して簡単にまとめて説明するならば、要するに、『宇宙及び地』の遠い未来の整合性と、『コンピューターにより発展を遂げている実社』に於ける現世の利害 とを単純に天秤にかけた場合、どちらが重いのかという命題ではなかろうか?
確かに現世に生き『コンピューター』の存在に多大なる恩恵を授かっているこの私も、現実問題として今現在『うるう秒』を全世界で挿入する事によるその作業の困難さや経済的損失が如何程に甚大なものかは想像可能である。」
確かに現世に生き『コンピューター』の存在に多大なる恩恵を授かっているこの私も、現実問題として今現在『うるう秒』を全世界で挿入する事によるその作業の困難さや経済的損失が如何程に甚大なものかは想像可能である。」
この原左都子の過去の記述と同様の懸念を抱いておられた研究者達の努力もあり、上記記述より10年程の年月を経て、どうやら「うるう秒」は実質廃止に持ち込まれる方向になったらしい。
2023.01.01付朝日新聞記事「うるう秒 実質廃止へ ずれ許容範囲を議論し2035年までに」と題する記事のごく一部を、以下に引用しよう。
時計と地球の自転のずれを調整する「うるう秒」が2035年までに実質的に廃止される見込みとなった。
時の定義は、元々地球の自転に基づいていた。 ところが自転速度が潮の満ち引きによる潮汐摩擦などで微妙に変動することが分かってきた。(中略)
うるう秒は、1972年の導入当時は重要な役目があった。 航海中、位置を把握するのに、特定の時刻の方角から計算していたからだ。 しかし、2000年頃には全地球測位システムによる位置特定が一般化して、うるう秒の必要性は薄れた。 (中略)
かわりに浮き彫りになったのが、時刻調整によるシステム障害だ。 12年7月には、うるう秒が原因で複数の障害が発生。
さらに最近判明したのが「負のうるう秒」のリスクだ。 近年、地球の自転が速まった結果、「1秒を引く」対応を迫られる可能性が出て来た。経験がなく、システムへの影響が分からない。
こうした中。国際度量衡総会は22年11月、うるう秒の「実質的な廃止」といえる決議を行い、少なくとも100年間、UTC(協定世界時)の時刻調整をしないことを提案。 (途中大幅略)
「うるう秒がなくなっても、一般人の生活にはほぼ影響がない」と専門家は話す。
(以下略すが、以上朝日新聞記事より一部を引用したもの。)
最後に、原左都子の“ぼやき”だが…
毎年、正月中のテレビ番組とは一部を除き超くだらないものばかりだ。
それに並行して新聞でさえも元旦に配達される分厚い紙面のほとんどが、どーでもいい広告ばかりで…
膝を損傷し何処へも出かけられないに等しい原左都子にして、まるで“地獄にでも突き落とされたがごとく”の今年の正月の環境下だが。
そんな折に今回のエッセイテーマの種の報道を見つけると、少し我に返れる気がするものだ。
年に一度の正月3が日と言えども、国民の皆が皆“ダレて”暮らさねばならない訳も無かろう。
国民の自由度が高い正月3が日にこそ、メディアはもっと価値ある情報を提供してはどうなのか?!?!