原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

再掲載 「学位よりも研修制度の充実を!」

2020年11月02日 | 教育・学校
 先程、原左都子エッセイ集編集画面を覗いたところ、興味深いバックナンバーが上位にランクインしていた。



 2009.11.22公開の表題のエッセイを、コメント欄も含めて以下に再掲載させていただこう。


 文科省が教員免許更新制を2010年限りで廃止し、それに代わる教員の質向上策として教員養成課程を6年制にすることを検討し始めている。  
 この「教員養成6年制」は民主党がマニフェストで掲げた政策であり、学部の4年だけでなく大学院修士課程もセットで義務づけ、手厚い体制で教師を育てようとするものである。
 この「6年制」の背景としては、世の中が複雑になって子どもへの対処や学校運営が難しくなっていることや、大学院修了という肩書が保護者や子どもへの「箔づけ」になるという考えが教育関係者の間であるらしい故だそうなのだ。
 民主党の某国会議員は、「先生が先生というだけでは尊敬されない時代になった。うつになる人も多い。修士をとってもらってきちんと育てる必要がある。」と力説しているとのことである。

 この新政権による「教員養成6年制」マニフェスト政策には、一般社会より既に様々な懸念点が上げられている。
 6年制に伴う学生の学費負担増加の問題や、それに伴う志願者の減少問題、あるいは「教師の仕事は忙しい割には収入がさほど多くないため、魅力を感じる人が少なくなる」との見方もある。
 (以上、朝日新聞20009.11月21日記事より要約引用)


 それでは、修士の学位を取得し高校教員経験もある私の立場から私論を述べさせていただくことにしよう。

 「教員養成6年制」移行への新政権のマニフェストの考え方のお粗末さ加減に、辟易とさせられるばかりの私である。
 “世の中が複雑になって子どもへの対処や学校運営が難しくなっている”との部分に関しては同意するが、その対策として、“大学院修了という肩書が保護者や子どもへの「箔づけ」になる”とは一体どうしたことか? 新政権が本気でこのような発言をしているとすれば、その思考の旧態依然ぶりは国民に見限られて野党に成り下がった前政権よりもおぞましい限りである。

 本来学位を取得することとは「箔づけ」目的ではないはずだ。 「箔づけ」などという軽薄な目的で学位を取得する人が多い現状ではあろうが、表立った目的がそうであってはならないし、そのような軽薄な目的がもたらす効用は“自己満足”でしかあり得ないのは当ブログの前々記事でも述べた通りである。 大学院を目指す以上は、あくまでも学問を極めるという正当な目的で学位取得に臨むべきである。
 さらに、今となってはむしろ現実社会の方が学位取得者本人よりもずっと進化を遂げていて、真に実力社会が到来しつつある実感もある。 大学院の質の問題もあるが、希望さえすれば猫も杓子も入学できる大学院が溢れる時代と化している我が国の大学院事情の下で、元より学位が「箔づけ」たる価値を得るはずもない。 「先生が先生として尊敬されない」時代であるのは明らかな事実だが、「学位」などを売り物にして実力が伴わなければ、さらに教員が社会的信用を失うのみであるのは明白だ。
 
 「箔づけ」よりも今後の教員養成制度が目指すべきは、教員としての真の「指導力」であろう。
 そのために私論が掲げたいのは、まず第一に教員たるべく「適性」である。 これに関しては、やはり学校教育現場における「研修」が欠かせないのではなかろうか。

 ここで私事を述べるが、私の場合は(30代にして2度目に入学した)大学時代に高校中学2教科の教員免許を取得するべく教員養成課程の科目取得に臨んでいる。 その教員養成過程制度の下で一番印象が強いのが、何と言っても当時は2週間だった学校現場での「教育実習」である。
 実はそれまで中高生との接触など一切ない環境で暮らしていた私にとって、教職免許取得を目指している割には自分が教員としての適性などないのではないかとの懸念もあった。 ところが、あの「教育実習」の2週間は私にとって大いにインパクトがあったのだ。何とまあ実習先の高校生達が人間味に溢れていて可愛らしいこと、この上ないのだ。 生徒達から多くのパワーをもらえた2週間のあの経験があったからこそ、後々の私の高校教員生活の道程へと繋がったとも言える。

 それにしても教員志望者にとって2週間の実習期間は極度に短い。
 子どもの教育とは、人命を預かる医師の仕事に匹敵するほどに人間性の育成への影響力が強いことを鑑みると、医師に準ずるごとくの「研修制度」は設けるべきであろう。
 今は野党に成り下がっている前政権において、教員の長期研修制度について議論されていたような記憶もある。 新政権においても、今後教員を目指す候補者に対して既に形骸化している陳腐な「学位取得」などではなく、将来の教員就業に向けて自分の適性を見て取れる「研修制度」こそを充実させるべきではなかろうか。

 上記朝日新聞記事内に「教職の魅力づくりを」と題する某大学准教授のコメントがある。 その一部を以下に紹介しよう。
 教員養成を6年化しても資質が向上する保証がなく、逆効果になる可能性が高い。大学側にも多額のコストがかかる。実習をどう指導するかも問題だ。ここ20年教員の免許法はほぼ毎年改正されているが、今必要なのは教職の魅力づくりと既設制度の中身の充実ではないのか。

 新政権さん、旧態依然とした発想で教員の「箔づけ」などと言っていられた時代は当の昔に過ぎ去っていますよ。 表向きの一見斬新そうな改革で素直に右に倣う国民の“めくらませ”ばかりをしている場合ではなく、地道に教育の現状改革をして真摯に子ども達の明るい未来を育成していきませんか? 

     

Comments (8)


養成制度充実に賛成 (issei)2009-11-22 19:10:38 
2年間の修士課程の義務化には反対です。大学側からの陳情などがあったのでしょうか。誰が得をするかを考えると、無きにしも非ずです。
 それよりも、今成すべき事は原さんがおっしゃるように実情にあった研修を充実する事が重要であると思います。夜の研修会で旧知を暖める事が目的の研修はいりません。社会に密着した真の知識と徳育を身に着けて欲しいです。細部としては、商社、運輸、流通などの分野、証券、銀行は省きましょう。防衛省も加えてもいいかもしれません。個人的には寺社も必要と思いますが、信教の自由に触れる可能性がありますので省きます。これらの研修を実施する事により生徒と父兄から真に信頼される教師を育てる事が出来ると考えています。先生は聖職であっていいと考えています。

うぅん~ (ドカドン)2009-11-23 03:28:06
民間企業からの中途採用も認めれば、いいのではないでしょうか・・・。
もちろん、1年くらいの教育課程の勉強はしてもらってですよ!
教育は難しい問題ですが、一度も汗まみれ、油まみれの境遇を味あわないで、教壇に立ってること自体、おかしい気もします。
人間関係においても、高卒の教師なんていなくって、大卒ばかりと職場で、かなり閉鎖的でしょう。
やはり、雑多な環境に身を置いたり、そこで経験を積んだりは、大切だと思うのです。
教壇に立った時に、人生初めての挫折を味わう様な、今の教員養成過程に、問題があると思うのです。
失敗や挫折なんて、民間企業一年生で、嫌と言うほど味わうものですよ!
挫折を味わえば、人は強くなると思いますね!

四次元の独立 (空 乏層)2009-11-23 13:34:52
平成維新をやるんだったら、文部科学省を内閣から独立させて、司法・行政・立法・教育という国家体制にしたらどうかなあ、と思っています。時の権力の意向で、教育指針がフラフラしたんではろくなことがないからです。学問の自由を守る為、あの文部官僚にたてついて庁舎前に座り込み、鬼の四機(警視庁第四機動隊)に蹴散らされ、それでも日比谷までフランス・デモして、主流派全学連と合流し、再び決起したのは、政権の都合で大学が崩壊するのを見るにしのびなかったからでした。結局、社会党、共産党の日和見主義的党利党略で、その戦いは前衛党を失い、全学連は政治の舞台から消滅しました。全学連って何のことか知っていますか?全国大学自治会総連合という学問の自由を獲得する為の学生・院生・職員が大学単位に連帯する非合法組織のことです。古今の東西を問わず、自由への戦いは大学が常に先頭に立ってきました。残念ながら、そうした運動はわれ等が祖国日本に於いては、反権力勢力の一翼としか評価されなかったのです。あれ以来、文部官僚は益々大学を”期待される人間像”の再生産工場として締め付け、そして、今ある腑抜けの資格取得(格差規範の絶対化)、就職準備の為の最高学府にしてしまいました。また大学院は本来の目的から、学部卒より給料のよりよい企業や投資の豊富な研究機関に就職する為の工場に変身していったのは、時代の流れとして自然だったのだと思います。実際、”頭脳流出”なる憂うべくことが流行ったのも、その頃だった様な気がします。
教育改革とは、現場教員の資質を向上させることでもなければ、時代遅れの知識人を使って時の権力者が現行制度を弄り回すことでもありません。文明を形成する質的な階層を持つ社会規範をいかにして学ぶ環境を造り上げるかの社会的運動なのです。何事も今の社会で優先される、”利害・損得”が絡んだ教育環境では、文明の進歩はシェイクスピアが書いたマクベス的悲劇が如く、終焉に向かって加速されるのでしょう。それは、地球温暖化による文明の消滅よりももっと早いことかもしれません。
じゃあどうするって? はは、議会制民主主義を守って、それをマニフェストに平成維新の遂行と書いて、来る参院選に討ってでますか。それとも、日比谷まで直接民主主義よろしくフランス・デモをしますか。ネットで同胞を募集しても、全国からいったい何人が日比谷まで手と手を繋いで歩けるだろうか、・・・。太った豚より痩せたソクラテスになれ、とどこかの大学の総長が言っていたっけなあ、寂しいなあ、原さん!

isseiさん、そうですね。まずは「井の中の蛙」からの脱却でしょうか。 (原左都子)2009-11-24 09:00:36
学校現場での研修は元より、isseiさんが書かれているように、社会性を身につけるために民間企業や各省庁での研修も義務付けるといいかもしれません。
私など元々民間企業経験者でしたが、そういう教員はごく稀です。 ほとんどの教員は新卒で直接学校に就職しているのですが、実に社会性がないのですよ。仕事の相手は子どもだし、何らの競争も存在しない閉鎖的な職場で、子どもと保護者相手に自分は「先生だ!」とえばってりゃ1日が終わる仕事です。
もちろん中には子どもに対する愛情のある教員適任者もいるのですが、そんなのはごく少数派です。 ほとんどは教育公務員の地位に安穏として、受け持ちの子どもを放ったらかして無責任に産休育休は取り放題、長期の夏休みにバカンスを楽しんでいれば安定収入が転がり込んでくる仕事です。
これに追い討ちをかけるごとく、形骸化した「学位」を取得させて“でくのぼう”教員を育成しようなどとはもっての他です。

ドカドンさんがおっしゃるように、むしろ資格条件を廃止すべきかもしれません。 (原左都子)2009-11-24 09:15:53
いや、ほんとですよ。
教員採用の条件として、学歴や教職資格条件をむしろ廃止して、一般社会から適任者を公募した方がよほどましな人材が集まりそうです。
そして、資質として備わっている教員適任者に研修を実施すればいいですね。
そもそも学習面では、義務教育までは学術的には大したことをやっている訳ではないですし、指導のノウハウよりもむしろ、学業に対する熱意のある人材が熱く授業を行った方が子どものハートに通じるかもしれません。 学歴と学業に対する熱意とは相関しないものです。
それよりも教員の資質として重要なのは指導者としての「人間性」です。これはドカドンさんがおっしゃる通り、ある程度の人生経験を経ないことには育ち得ないものでしょう。
新政権の教員を「学位で箔付け」案は、あまりにも安直で権威主義的で、お粗末極まりないです。

うわぁ・・・・ (量さん)2009-11-26 17:39:33
学位を箔とは。
学位をなんだと思ってるんでしょうかあの人たちは。単なるお免状ではなくその学位にふさわしい内実を伴っているひとは沢山いるのに失礼ですよね。
それはそうと先生って、学位じゃなくて人格でするお仕事ですよね。
教育をなんだと思ってるんだあの人たちは。
彼らが学位のことも教育のことも真面目に考えてないことがよくわかります。政権政党は権力があるのに、こんなことでは困るなーと思っています。力が抜けそうです。

空 乏層さん、「教員」って何とも中途半端な職業ですね。 (原左都子)2009-11-29 15:05:42
空さん、すっかり返答コメントが遅くなってしまい申し訳ございません。
何分、空さんのコメントはいつも“読解力”を要するのです。ちょっと空き時間に片手間に返答しようなど、私の知識と能力では到底無理なのです。
かと言って、じっくりと拝読させていただいても結局読解できていない点を何卒お許し下さいますように。
その上で数年間の教員経験がある私の実体験も交えて、返答になっていない“独り言”を書かせていただきます。
空さんがおっしゃる通り、教育改革とは、現場教員の資質を向上させることでもなければ、時代遅れの知識人を使って時の権力者が現行制度を弄り回すことでもない… まったく同感です。
私自身の子どもの頃を振り返ってみますと、特に小学校の教員など(6年間女の担任でしたが)教育者というには程遠いただの“おばさん”ばかりでした。 教員の資質どころか人間としての資質も疑わしいようなおばさん達が、日々ヒステリックに暴力と暴言をふるって子ども達をいたぶっていた風景しか思い浮かびません。 そんな中で人の顔色を伺うことが得意な私はおばさん達に「お利口さん」と可愛がられつつ、学校に嫌悪感を抱き続けていました。 あの頃、一番なりたくなかった職業が「学校の教員」でした。
そんな私が教員になったきっかけは、一種の縁故です。教育委員会が大学(院)を通して私という“人材”(?)を見つけ、臨時採用教員の話を打診してきたのです。過去の“トラウマ”から教員という職業を毛嫌いしていた私は即刻断ったのですが、教育委員会と大学院のパイプも強力で、個人の力では断りきれずに教育現場に引っ張り出されてしまったといういきさつです。
教員という職業自体を毛嫌いしている私には、元より“教員としての資質”など皆無です。
ところが、この私の“学校嫌い、教員嫌い”が学校現場で幸いしました。私は私としての自然体で子ども達に接するしか脳がないのですが、この自然体が子ども達の共感を呼んだようです。子ども達に慕われて充実した教員生活を送ることができたことは救いであり、私の人生における一つの収穫でもありました。最後の最後まで“資質なき失格教員”だった私です。
何も偉そうな事を言える立場にない私ですが、教育の原点はやはり“愛”かと、偉そうに言わせていただきましょう。
“教員の資質”の答を出すならば、それは生徒である子ども達を受け入れられる受容力と共感力かと豪語しましょう。
空さんがお書き下さった「文明を形成する質的な階層を持つ社会規範をいかにして学ぶ環境を造り上げるかの社会的運動」を支える背景は決して「学位」などではなく、人間としての「愛」ではないか、と結論づける私です。
返答力のない原左都子であるくせに、空さんのアカデミックなコメントを“背伸びして”嗜好する私ですので、どうか今後共お時間がございます時に「原左都子エッセイ集」をご訪問下さいますように!

量さん、「学位」取得者としては勘弁して欲しい思いですよね。 (原左都子)2009-11-29 15:14:06
まったくもって本当に、国政たるものが「学位」が「箔」だなどと言って、学位取得者の顔に泥を塗らないで欲しい思いです。
どうしたことでしょう。新政権は何を勘違いして血迷っているのでしょう。
教員に「箔づけ」したいと言うことは、実は自分達にも「箔」が欲しいのでしょうかね?

 (以上、2009.11バックナンバー 及びそれに頂戴したコメント群を再掲載させていただいたもの。)



 コロナ禍における現在の教育現場をメディアにて垣間見る現在に於いて。

 上記のごとくの議論すら、空虚と化しているのだろうか???
 
 私など、教員として恵まれていた時代にその生業を経験出来たような気もする。
 現在に至っては、学校教員に「学位」が必須なる議論すら耳にする機会が無くなっている感覚もある。

 文科省が口を開くと「入試改革」なのだが…  それが“コロナ禍”で出遅れている事態に私など安堵するのだが。

 このような文科省の下手な入試改革に於いて、一番に犠牲となるのは当該入試改革に直面せずを得ない生徒とその保護者、そして学校教育現場であろう。

 どうか、文科省が提唱する新たな「入試改革」などに翻弄されることなく。
 子ども達は自身の力を信じ、保護者は子どもの能力を信じて、今まで通りに精進される事に期待申し上げたい。