原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

私も “謎トガリ” 人種かもしれない…?? ー vol.2 ー

2020年11月22日 | 教育・学校
 (冒頭写真は、2018.11.25付バックナンバーにて掲載した表題エッセイの写真を再掲載したもの。)


 私は高齢域に達してから、午後外出しない日には“昼寝”をする日課がある。
 だいたい10分から長い時で30分程度の仮眠なのだが。
 これが何らかの理由で眠れない日もある。
 その場合はスマホを眺めたりしている内に寝入る時もあるが。

 本日つい先程も眠れず、スマホで我が「原左都子エッセイ集」をテキトーに開いたところ、表題のバックナンバーに出くわした。

 題名からして、面白い!
 読んでいる内に引き込まれたしまった。 (まったくもって“ナルシスト気質”である事実を認めるが…)😝 



 それでは早速、当該2018.11 付バックナンバーを以下に再掲載させていただこう。

 いやはや、まるで我が高校生時代を“二重写し”したがごとくの漫画の内容に一瞬にして引き込まれた。
 いえいえ私の場合、漫画の少年よりもずっとその心理状態が“悪質”だったかもしれない。
 そもそも大の集団嫌い。 特に思春期真只中の高校生時代は、その3年間をほぼ“死んで”暮らしたと表現してもよい程の学校嫌いだった。

 そんな私にとっても漫画少年同様に、「文化祭」ほど無意味で空虚なものはなかった。
 ただラッキーだったのはオーケストラ部に所属していたため、高1時は文化祭ではその舞台演奏活動に集中すれば済み、比較的自分らしい文化祭を過ごせたと言えよう。
 ところが何分過疎県内バリバリの受験校のため、部活動は高1の文化祭にて終了する。(音大・美大・体育大等を目指す生徒はもちろんその後もその活動を続行するのだが。)
 
 高2以降は必然的にクラスごとの催し物に全員が強制参加せねばならず、これ程の苦痛はなかったものだ。
 例えば、クラスで「劇」をやると“言い出しっぺグループ”が勝手に決める。 何の興味も無い私としてはまさにこの漫画のごとく、「えっ、私関係ないけど。」とでも反論したかったものだ。
 ただ私が高校生だった当時は、そういう時代背景ではなかった。 嫌でも何でも“言い出しっぺグループ”に迎合せずして済まされなかった実に不自由な時代だった。
 もしも今の時代に私が高校生であるならば。 必ずや、漫画少年のごとく「えっ、要らないけど。」と発言しただろう。

 その文化祭のTシャツに関してだが。
 これどうしたことか、現在(我が娘が中高生の頃も)の中高の文化祭に於いては全国津々浦々でクラス全員揃いの「Tシャツ」作りが“スタンダード化”している様子だ。
 娘が私立中高に通った6年間を通しても、毎年「文化祭」と「体育祭」毎にクラス全員お揃いのTシャツ負担を保護者に強制された。
 元々集団嫌いな私故、内心反発心が燃え滾ったものだが!
 それでもまさか保護者の立場で、娘が通う私立学校相手にその教育方針の是非を訴える訳にも行かず…  結局は6年間を通して合計12枚のTシャツに無意味に投資するはめとなった。
 ただ娘本人は決して私程集団嫌いでもなく、生来的に素直な性質に恵まれている事が幸いしているのだが。
 それでも生育環境面でサリバン(私の事だが)の影響を大きく受けている娘にとっても、どちらかと言えばあのTシャツは好きでは無かったようだ。

 そんな娘の中高時代のTシャツを活用したのは、この私である。 これ、寝間着(パジャマ)の上にもってこいなのだ! 娘が不要になったTシャツをもらい受けては、寝間着として有効活用して既に十数年の年月が流れた。
 ただ母娘共々、どうしても“着たくない”Tシャツが今尚一枚残されているのだ。
 それはクラス全員の名前(ニックネーム)を記したTシャツなのだが、娘自身はそれを見るのも嫌だと言う…  きっとサリバンが知らない学校クラス現場で“いじめ”を受けていた事だろう。  今となっては一体何処に収納しているのすら分からないのだが、見つけたら娘のためにも即刻廃棄処分としよう。
 それにしても現在に於いては、そんなクラスTシャツなど「要らない」と一生徒の立場で言えるまでに学校のクラス内環境が“進化”している事実自体に、私は冒頭の漫画を一見して安堵させてもらえた。

 話題を大きく変えさせて頂こう。
  
 このgooブログにて、私・原左都子側の“お気に入り”でこちらから読者登録させて頂いているブログが(2018年当時)10本程存在する。 
 (参考だが、2020年現在に至っては原左都子側からの読者登録はたったの4名に絞り込んでいる。 「原左都子エッセイ集」をお読み下さった相手側からの読者数は左欄にgooが明記している通りだ。)
 上記二者間に数値ギャップのある我がブログだが、原左都子としては、こちらから「読者登録」をさせて頂いている登録数こそをブログ画面に明記して欲しいものだ。 その旨を、gooチャットにて嘆願した経験がある。 それに対するgooの回答とは、「あくまでも貴ブログ宛の読者登録数を今後もブログ画面に表示する」との事だった。

 これ、納得出来ますか?? gooにブログを開設されている皆さん!
 我がブログのみの特質かもしれないが、読者登録をして下さった後ただの一度とて我が「原左都子エッセイ集」を訪れない方々が数多い現実だ。
 そんな方々に、「読者登録」をお返しする義務など一切無いのは歴然でしょう??
 私側とすれば必ずや、たとえネット上とは言えども今後共繋がり続けられると確信を得た方々と交信を続けたいものだ。 
 そんな我が「ブログ思想」に基づき現在はブログ活動を続行しているのだが。

 つい最近(2018.11時)、私が読者登録をさせて頂いている某男性氏が、ご闘病を乗り越え再びブログを再開された。 その事実こそ実に素晴らしく、今後共当該男性とネットで繋がることが叶った事実に私は感激した。
 その某氏のブログコメント欄に、某氏一ファンよりのコメント記載があった。  そのコメント内容を読ませて頂き、私は大いなる違和感を抱かざるを得なかったのだ。
 当該コメントを我が記憶に頼り再現するなら。 「貴方がもしも死んだ後に貴方のブログを誰が引き継ぐのか? その副管理人(要するに“後見人”という意味だろうか??)を早めに選出しておいて欲しい。」
 この文章を読んで、当該コメンテイター氏の思想の程を私なりに理解した。 
 要するに当該コメンテイター氏の思考背景に存在するのは、「某氏の読者は皆仲間」との発想ではなかろうか? 
 (別の観点から、他人のブログを誰かが“引き継ぐ”との感覚も私には受け入れ難い。 自分が死んだらブログもその生命を閉じると考えるのが自然ではなかろうか? もちろん、自分の死後もどなたかがお読み下さるのはご自由だが。)

 これぞ、原左都子が一番に勘弁して欲しい「集団意識」である。
 当該コメンテイター氏のご闘病中男性に対する思いの程は痛い程理解可能だ。
 ただ何故ここで「集団意識」感覚が登場せねばならないのかの程が、私には理解不能なのだ。
 その思いは何も某氏の読者皆を巻き込まずとて、コメンテイター氏ご自身があくまでも"個人的に”、闘病中の某ブロガー氏と1対1の関係で交渉すれば済む話と私は心得るのだが……
 もちろん私とて、自分自身が厳選し「読者登録」させて頂いた方々とは今後も是非共お付き合い申し上げたい思いは山々だが。

 すっかり高齢域に達しようとしている私にも、当然ながら好みはある。
 それだからこそ、他者からの不必要かつ無遠慮な「集団主義」に直面した場合、冒頭写真の漫画に描かれている高校男子のごとく、「えっ、いらないけど。」と反発するパワーも未だ兼ね備えてもいるかもしれない!

 (以上、2018.11本エッセイ集バックナンバーを再掲載したもの。)



 今(2020.11)現在の心境を語ろう。

 “謎トガリ”人種ねえ。 面白い造語だが。

 トガっている本人に言わせて貰うならば、十分にその理由があるに決まっているし、逆に我が心理に基づき反論させてもらうならば、
 「アンタらも、もっと自分の頭で考えて行動したらどうなの!?? 学校のセンコーに言われるままに文化祭だの体育祭だのを受身で楽しんでいる場合じゃないだろ! 点取り虫ほどセンコーに迎合するよねえ。 それで大学推薦でも貰えたらラッキーって事かい?? アホらしくてやってられねーぜ!!」

 とは誰にも一言も公開せずして、私は名門高校卒業間際にその制服を“スケバンスタイル”に大改造して、我が心の憂さ晴らしをしたとのいきさつだが…

 そんな我が時代の“目立つ反発行動”に比して。

 冒頭写真の男子生徒による“静かな反発”の方が、よほどインパクトがあるし訴える力があるのではないかと今更ながら気付かされる。 (この漫画の著者氏によれば、“だるさ”を演じていたらしいが。)


 時代を超越して、“謎トガリ”行動に出る若者が存在する世の方が健常であろうと、原左都子は結論付ける。😠