原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

ノーベル賞受賞者数値を国家目標とすることの愚かさ

2019年12月12日 | 時事論評
 日本時間で昨日2019.12.11未明、ノーベル賞授賞式がストックホルムのコンサートホールにて開催された。
 旭化成名誉フェローの吉野彰氏がこの授賞式に臨み、満面の笑みで「メダルはずっしりと重かった」と喜びを語った。
 今回の吉野彰氏のノーベル化学賞受賞は昨年の本庶佑氏の「ノーベル医学生理学賞」授賞に続くものであり、日本の受賞者数は27名となった。
 (以上、朝日新聞記事より一部を抜粋したもの。)

 この吉野氏のノーベル賞受賞第一報直後に、メディアのインタビューを受けた吉野氏の奥方氏発言が印象的だった。
 多少うろたえつつ「私はサラリーマンと結婚したのであって、まさか夫がノーベル賞受賞騒動になるとは… 」等々と実に質素に語られたのに私は感情移入できた。 
 (奥方自身がノーベル賞研究の共同研究者であったのならともかく、そうでないのに、ご亭主の快挙をまるで自身の実績と勘違いしたかのごとくの受賞者夫人を見せられ辟易とさせられている身にしての話だが。)


 さて、その朝日新聞2019.12.08付“社説・余滴”に、「ノーベル賞の遺言と限界」と題する記事が掲載されていた。
 その記事を、以下に要約して紹介しよう。

 物理学、化学、医学・生理学という自然科学のノーベル賞で、もっとも予想が難しいのが化学だ。
 理由はノーベル賞の遺言にある。 化学だけは未知のものを見つけたり、考察したりする「発見」や「発明」に加え、「改良improvement」を含めているからだ。
 吉野彰さんの業績も、1980年代に繰り返し充電できる電池は存在していたから「改良」の要素が強い。
 一方、遺言には「人類に最大の恩恵をもたらした人に贈る」ともある。 その趣旨に照らせば、「3人以内」で選ぶやり方は時代にそぐわなくなっているのではないか。
 たとえば、ここ数年の関心事はゲノム編集技術にいつ賞が贈られるかだ。 人間の遺伝子改変を招きかねないこの技術は、医学や化学で評価しきれるものではない。
 インターネットや人工知能といった発明・発見が、今の枠組みで賞の対象になりうるのかも悩ましい。  また、巨大な装置による国際共同プロジェクトでなし得た成果がもとになった大勢の人々が関わって実現することが多い最近の「発見」を、3人以内で評価することにも限界がある。
 日本はかつて科学技術基本計画(01~05年度)のなかで、「50年間にノーベル賞受賞者30人」という目標を掲げたことがある。  ノーベル賞の遺言には「国籍は考慮しない」とあり、選ぶ側からすれば国の目標になることに困惑しているというのだ。
 00年以降、日本からの受賞者は19人で、皮肉にもこの目標を上回るペースで推移する。 むろんその多くは20世紀の業績で、計画に沿って進められた政策とは何ら関係がない。
 その(20世紀の業績という)貯金頼みの方も、そろそろ限界にきている。
 
 (以上、朝日新聞「社説」より要約引用したもの。)


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 まったくもって、「科学」に国境などあるはずがない。
 にもかかわらず、やれ、どこの国の「ノーベル賞」の受賞者が多いだの、日本の今後の受賞者数目標を30人としようだのと科学ド素人政治家どもが単に数値目標を平然と打ち立てているとは、その愚かさ加減に辟易とさせられる。
 
 しかも上記「社説」記載の通り、巨大な装置による国際共同プロジェクトや国境を超えた共同研究が、今や科学分野では普通になされている時代だ。
 
 そんな現況下に於いて、その研究に携わった研究者のうちの誰に「ノーベル賞」を授けるか?  「3人以内」との基準に照らしても、その判断とは実際問題難儀を極める事であろう。

 「ノーベル賞」に関する“遺言”が存在している事実を、私は初めて知ったが。
 その遺言内に「国籍は考慮しない」と明記されている事実に照らし。  今後はまさに“ノーベル賞受賞者の数値”を国家の目標とする等の政治家どもの愚かなド素人考えを排除するのが先決問題であろう。
 加えて「3人以内」ではなく、一人分の賞金が少額になろうが、その研究に携わった研究者皆が授賞できるべくシステム作りを再考する時期かもしれない、とも考える。

 いや、話を根源に戻すと。
   
 私ども原左都子は、以前よりノーベル賞に限らず「賞というものの価値の程」を疑ってかかっている。 
 その賞を取ったことにより、授賞した本人に更なる進化をもたらす「賞」であってこそ授賞価値もあろう。

 ところが世を見渡すと、そうとも言えない局面に遭遇する事が多い気もする。 
 受賞者ご本人が未だ現役世代にして既に研究本業から遠のき、宣伝活動に専念していたり… (どなたの事を言っているのかに関してはここでは直言を避けるが。  いや、確かに研究費を国家からゲットするためにはその活動も無意味ではないことに関しては少しは理解しているつもりだが。  あまりにも執拗なまでに一般国民が視聴するメディアに顔を出されては、私としては抵抗感が否めない。)😵 

 いや、「ノーベル賞」はともかくも。 
 そもそもこの世には“くだらない賞”が多発し過ぎているのではあるまいか??😨