劉暁波氏が亡くなった後に報道にて知ったのだが、どうやら私と劉氏は同い年だったようだ。
享年61歳。 去る7月13日に末期の肝臓癌にて病死した劉氏は、1955年生まれだったらしい。
以下に、朝日新聞2017.7.14付記事より劉暁波氏に関する略歴を引用しよう。
劉暁波氏の名が多くの人に知られる事になったのは、1989年に北京の天安門広場で起きた民主化運動だ。 米コロンビア大学にての研究活動を中断して北京に駆けつけ、学生らと一緒にハンガーストライキに加わった。 当時30代と若く、勇敢で論客として頭角を現していた劉氏はリーダーに適任だった。
その劉氏が一貫してこだわったのは、非暴力の抵抗だった。 銃はおろか、棒を持つことさえ許さなかった。 劉氏は学生に向かって「恨みを捨てよう。恨みは私達の心をむしばむ。私達に敵はいない。理性的に対話しよう。」と訴え続けたという。
1995年に、天安門事件の犠牲者の名誉回復を訴えて拘束され翌年されたものの、天安門事件に関する文章を発表したのが原因で、司法手続きがないまま労働教養所に3年間収容される。
その後、「08憲法」を起草した事により国家政権転覆扇動容疑で2009年に逮捕され、翌年懲役11年の判決が確定。
2010年、服役中に「ノーベル平和賞」を受賞。 この際、劉氏は面会した妻に「賞は天安門事件の犠牲者に捧げられたものだ。 僕はその代表に過ぎない」と言ったらしい。 賞受賞にかかわらず、中国当局による言論締め付けは緩むことはなかった。 天安門事件の民主化リーダー達の多くが国外に逃れたが、劉氏が国内に残ったのは、中国の民主化と民衆の力を信じていたからだ。 劉氏の行動は常に監視され、国内旅行もままならなかった。 その代わり、作家や学者、記者ら多くの友人が劉氏の下に集ったらしい。
劉氏は08年に拘束されるまで、国外のサイトに多くの文書を発表。 独立中国語ペンクラブの会長を務め、民主系ネットメディアも主宰した。
劉氏は、「私は、未来の自由な中国が訪れることに対して、楽観的な期待に満ちている」 「自分の国が自由に意見を言える国になることを待ち望んでいる」 「私は、中国で綿々と続いてきた文字の獄の最後の被害者となり、今後は言論を罪に問われる人が二度とないように望んでいる」 等々とも述べている。
劉氏の知り合いは、「彼の肉体がなくなっても、その思想はこの土地に根を伸ばし、力強く育っていくだろう」と述べている。
(以上、劉暁波氏に関する情報の一部を朝日新聞記事より引用したもの。)
私事に入ろう。
1989年に起きた天安門事件は、私も当然ながら記憶している。
当時、(後で思えば)劉氏と同じく30代半ばだった私は、二度めの大学・大学院で学問に燃えていた時期だ。
劉氏程の才能も無ければ、産まれ育った国家環境もまったく異なるものの、劉氏との学者が米国での研究を途中で“かなぐり捨てて”でも故郷に戻り、天安門事件で闘う学生達のリーダーとして共に民主化に向けて闘う事実を把握していた。 当時、劉氏の年齢にまで考察が及ばなかった私は、我が感覚として劉氏は人生に於けるずっと先輩かと認識していた。
そんな劉氏が中国当局により投獄されたとのニュースも、ショッキングな出来事として我が記憶にある。
その後、服役中の劉氏が2010年に「ノーベル平和賞」を受賞したとの報道も、世界的ニュースであったため当然ながら認識している。 ただ、一日本人の素人考えとして(この快挙によっても、中国が劉氏を解放する事はないのだろうなあ…)なる悲観的憶測を抱いたが、それが当たってしまったようだ……
その後劉氏に関するメディア報道が途絶えた事もあり、私は劉暁波氏の存在をすっかり忘れ去っていた。
その記憶を呼び起こしてくれたのが「劉暁波氏、末期の肝臓癌で中国出国を望んでいる」なるニュース報道だ。
末期の肝臓癌。 これ程厳しい状態は無い。(過去に於いて私自身が癌罹患し手術入院した際、2人部屋の隣のベッドの女性が末期肝臓癌患者だったため、その最期の苦しみの程を我が事として実体験している。) そんな私は、是非とも人生の最期を劉氏が望む外国の医療機関にて闘病して欲しい、と願ったものの…
それも叶わなかった。 もしかしたら劉氏の病状が深刻なため、中国側が外国医療機関に移送する事態を拒否したのかもしれないし、そう信じたい。 断固として劉氏を中国国外に出さない事が中国の策略だったとは思いたくもないが。
昨夜見たNHKニュース報道によると。
中国が何故「非暴力派」であり「ノーベル平和賞を受賞して世界的にも著名」な劉暁波氏を、これ程までに投獄し拘束し監視し続けたのかに関する推測的見解が伝えられた。
それによると、劉暁波氏のその「理性的」と表現出来る態度こそが中国当局が気に食わなかったのではなかろうか? との論評だった。
最後に、原左都子の私論だが。
物凄く理解出来る気がする。
もしも劉暁波氏が「破壊的・暴力的」な手段で中国当局に迫ったとすれば、すぐさま当局は「死刑」実行したことだろう。
ところが、相手はいつも何時も変わらぬ「理性的」な言動を変えない。 これ程に “手こずり” “憎たらしさ” を煽られる相手とは、もしかしたら当局にとっては他に無い事態だったのではなかろうか!??
別課題として、劉氏は投獄されなければ肝臓癌に罹患し末期に至らずに済んだのだろうか? あるいは、それは劉氏生まれ持ってのDNA体質であり、投獄の有無に関わらず肝臓癌罹患の怖れがあったのだろうか??
我が無念の思いは尽きぬが……
何はともあれ、私と同い年の劉暁波氏61歳との若き年齢にしての死去に際し、ご冥福をお祈りしたい。
享年61歳。 去る7月13日に末期の肝臓癌にて病死した劉氏は、1955年生まれだったらしい。
以下に、朝日新聞2017.7.14付記事より劉暁波氏に関する略歴を引用しよう。
劉暁波氏の名が多くの人に知られる事になったのは、1989年に北京の天安門広場で起きた民主化運動だ。 米コロンビア大学にての研究活動を中断して北京に駆けつけ、学生らと一緒にハンガーストライキに加わった。 当時30代と若く、勇敢で論客として頭角を現していた劉氏はリーダーに適任だった。
その劉氏が一貫してこだわったのは、非暴力の抵抗だった。 銃はおろか、棒を持つことさえ許さなかった。 劉氏は学生に向かって「恨みを捨てよう。恨みは私達の心をむしばむ。私達に敵はいない。理性的に対話しよう。」と訴え続けたという。
1995年に、天安門事件の犠牲者の名誉回復を訴えて拘束され翌年されたものの、天安門事件に関する文章を発表したのが原因で、司法手続きがないまま労働教養所に3年間収容される。
その後、「08憲法」を起草した事により国家政権転覆扇動容疑で2009年に逮捕され、翌年懲役11年の判決が確定。
2010年、服役中に「ノーベル平和賞」を受賞。 この際、劉氏は面会した妻に「賞は天安門事件の犠牲者に捧げられたものだ。 僕はその代表に過ぎない」と言ったらしい。 賞受賞にかかわらず、中国当局による言論締め付けは緩むことはなかった。 天安門事件の民主化リーダー達の多くが国外に逃れたが、劉氏が国内に残ったのは、中国の民主化と民衆の力を信じていたからだ。 劉氏の行動は常に監視され、国内旅行もままならなかった。 その代わり、作家や学者、記者ら多くの友人が劉氏の下に集ったらしい。
劉氏は08年に拘束されるまで、国外のサイトに多くの文書を発表。 独立中国語ペンクラブの会長を務め、民主系ネットメディアも主宰した。
劉氏は、「私は、未来の自由な中国が訪れることに対して、楽観的な期待に満ちている」 「自分の国が自由に意見を言える国になることを待ち望んでいる」 「私は、中国で綿々と続いてきた文字の獄の最後の被害者となり、今後は言論を罪に問われる人が二度とないように望んでいる」 等々とも述べている。
劉氏の知り合いは、「彼の肉体がなくなっても、その思想はこの土地に根を伸ばし、力強く育っていくだろう」と述べている。
(以上、劉暁波氏に関する情報の一部を朝日新聞記事より引用したもの。)
私事に入ろう。
1989年に起きた天安門事件は、私も当然ながら記憶している。
当時、(後で思えば)劉氏と同じく30代半ばだった私は、二度めの大学・大学院で学問に燃えていた時期だ。
劉氏程の才能も無ければ、産まれ育った国家環境もまったく異なるものの、劉氏との学者が米国での研究を途中で“かなぐり捨てて”でも故郷に戻り、天安門事件で闘う学生達のリーダーとして共に民主化に向けて闘う事実を把握していた。 当時、劉氏の年齢にまで考察が及ばなかった私は、我が感覚として劉氏は人生に於けるずっと先輩かと認識していた。
そんな劉氏が中国当局により投獄されたとのニュースも、ショッキングな出来事として我が記憶にある。
その後、服役中の劉氏が2010年に「ノーベル平和賞」を受賞したとの報道も、世界的ニュースであったため当然ながら認識している。 ただ、一日本人の素人考えとして(この快挙によっても、中国が劉氏を解放する事はないのだろうなあ…)なる悲観的憶測を抱いたが、それが当たってしまったようだ……
その後劉氏に関するメディア報道が途絶えた事もあり、私は劉暁波氏の存在をすっかり忘れ去っていた。
その記憶を呼び起こしてくれたのが「劉暁波氏、末期の肝臓癌で中国出国を望んでいる」なるニュース報道だ。
末期の肝臓癌。 これ程厳しい状態は無い。(過去に於いて私自身が癌罹患し手術入院した際、2人部屋の隣のベッドの女性が末期肝臓癌患者だったため、その最期の苦しみの程を我が事として実体験している。) そんな私は、是非とも人生の最期を劉氏が望む外国の医療機関にて闘病して欲しい、と願ったものの…
それも叶わなかった。 もしかしたら劉氏の病状が深刻なため、中国側が外国医療機関に移送する事態を拒否したのかもしれないし、そう信じたい。 断固として劉氏を中国国外に出さない事が中国の策略だったとは思いたくもないが。
昨夜見たNHKニュース報道によると。
中国が何故「非暴力派」であり「ノーベル平和賞を受賞して世界的にも著名」な劉暁波氏を、これ程までに投獄し拘束し監視し続けたのかに関する推測的見解が伝えられた。
それによると、劉暁波氏のその「理性的」と表現出来る態度こそが中国当局が気に食わなかったのではなかろうか? との論評だった。
最後に、原左都子の私論だが。
物凄く理解出来る気がする。
もしも劉暁波氏が「破壊的・暴力的」な手段で中国当局に迫ったとすれば、すぐさま当局は「死刑」実行したことだろう。
ところが、相手はいつも何時も変わらぬ「理性的」な言動を変えない。 これ程に “手こずり” “憎たらしさ” を煽られる相手とは、もしかしたら当局にとっては他に無い事態だったのではなかろうか!??
別課題として、劉氏は投獄されなければ肝臓癌に罹患し末期に至らずに済んだのだろうか? あるいは、それは劉氏生まれ持ってのDNA体質であり、投獄の有無に関わらず肝臓癌罹患の怖れがあったのだろうか??
我が無念の思いは尽きぬが……
何はともあれ、私と同い年の劉暁波氏61歳との若き年齢にしての死去に際し、ご冥福をお祈りしたい。