原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

学校の特殊行事運営は専門筋に委ねるべき

2017年04月11日 | 教育・学校
 3月27日に発生した、栃木県那須スキー場付近で登山講習会に参加中の高校生ら8名が雪崩事故で死亡した痛ましい事件より、2週間ほどの日々が経過した。

 時が過ぎ去るのは実に早いもの。
 その後学校は新学期を迎え、わずか2週間にして世間では既に当該雪崩事故の記憶が薄れ去り行く感すらあるこの頃だが…


 そんな折、一昨日(4月9月)の朝日新聞「声」欄で、当該事故犠牲者高校生のご親族であられる88歳男性の投書を発見した。
 早速、当初内容の一部を以下に転記させていただこう。
 
 私は、かわいい孫をあの事故で失った。 雪崩注意報が出ていたのに、主催した県高体連登山専門部がなぜ中止にしなかったのかがわからない。 責任者は3人で話し合って訓練の実施を決め、経験から「絶対安全だと判断した」と話した。 改悛の態度には見えなかった。
 孫は私にとって初孫。 我が家の近くの病院で生まれ、優しく賢く育った。 あの日、「おじいちゃん、くるしいよ」との悲鳴が脳裏を走ったが、身代わりにはなれなかった。 孫の父は冷静かつ穏やかに、「二度とこのような悲惨な事故の犠牲者を出さないような社会にすることをただ祈っている」と述べている。
 前途有望な少年達を死に追いやった事故は明らかに人災であり、裁かれなければならないという思いを拭い去ることはできない。
 (以上、朝日新聞「声」欄投書より一部を転記したもの。)

 原左都子の私論だが、まったく投書者のおっしゃる通りだ。
 これは明らかに「人災」であると、私も事故発生当初より憤っていた。 にもかかわらず、学校側から最初に発表された、まさに“改悛の態度には見えない平然とした会見”に私も呆れ果てたものだ。
 その後しばらくして学校への家宅捜索が実施された事実に、やっと救いをみる思いだった。
 今後は刑事事件として、加害者である県高体連や学校側が正当な裁きを受けることを祈っている。


 我がエッセイ集バックナンバーに於いて、私は幾度か「学校の特殊行事運営は専門筋に任せるべき」趣旨の私論を主張している。

 例えば 2009.5.26 公開バックナンバー 「逆上がりの屈辱」 に於いて、以下のような文章を綴り公開している。 一部を紹介しよう。
 話を冒頭の小学校の頃の「逆上がり」に戻すが、この私もなかなかクリア出来ずクラスで最後の2、3人にまで残った“「逆上がり」落ちこぼれ”児童だった。   あれは、我が幼き日の屈辱的な光景として今尚忘れずにいる。
 まず我が折れそうな細腕が体を支えられない。
 それ以前の問題として、昔の小学校には体育専任教師など配備されていなかったため、技術的に「逆上がり」を指導できる指導者が誰一人いないのだ。 そんな劣悪環境下で、ただただ周囲の児童が成功するのを見よう見真似で頑張るのだが、どう足を上げても成功には程遠く疲れ果てるばかりだ。
 更に極めつけは、昔の学校においては“出来の悪い子を責める”教育がまかり通っていた。「皆出来るのに、何であんたは出来ないの!」との教員の罵声が「逆上がり」が出来ない児童の劣等感に追い討ちをかける。 「だったら、あんたがちゃんと教えろよ!」と今なら言い返すだろうが、当時の幼き私に教員に逆らう手立ては何もない。
 それでも、その“出来の悪い”2、3人で日が暮れるまで学校の校庭で毎日頑張った。 一緒に残って元気に遊び回っている“出来る子”をお手本にしつつ、ある日、何とか「逆上がり」が出来た私であった。  残念ながら“ひねくれ者”の私には何の達成感もなく、豆だらけで血が滲み鉛筆を持つにも痛む手と、“劣等感”を抱かされた屈辱的な「逆上がり」を、もう金輪際しなくて済むという開放感のみが我が幼な心に残った。
 昔の小学校の体育教育において、何故にたかだか鉄棒の一種目でしかない「逆上がり」ごときに、教育行政があれ程までにこだわったのかは不明である。(当時教員経験等がおありで、その教育的理念の背景をご存知の方がいらっしゃれば是非ともお教えいただきたいものである。)
 もしかしたら、東京オリンピックで男子体操チームが大活躍したことに単に浮かれたて連動した安易な教育行政だったのだろうか??? 
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用したもの。)


 さらに、1年程前の 2016.3.3 に綴り公開したエッセイ 「学校に子どもを殺される程やるせない事はない」の記載からごく一部を以下に紹介しよう。
 追随して、現在小学校現場で全員に強制され全国各地で毎年何名かの死者を出し続けているプール指導に関して。
 娘も小6時点で未だ泳げないにもかかわらずプールに強制的に入れられ、適切な指導がなされないまま毎時間プール内で立たされ凍えた事も経験している。
 この話を娘から聞いた私は居ても立っても居られず、すぐさまプール指導のあり方に対して学校と話合いを持ちたい思いが山々だった。 ところが当時の担任が残念ながら“話せる”相手ではない事を承知していたため、「体を冷やさないためにプール内でウォーキングをしていなさい」とサリバン母の私から娘に直接指導した。 それに素直に従った娘に浴びせられたのは、「歩いてないで泳げ!」との担任よりの無常な言葉だった。 幸いプール指導は9月上旬で終了するため、「あと少しの我慢」と娘を励ましつつ、学校からの非情な仕打ちに耐えさせた。 まったくもって、指導力が無いなら全員強制で正規の授業としてプール指導など実施するな!と吐き捨てたいものだ。
 (以上、再度我がエッセイ集バックナンバーより引用したもの。)


 私事及び私論に入ろう。

 私はそもそも、学校(特に義務教育課程)の教育能力を “信用していない” 人種であるかもしれない。
 我が子が生まれ持って若干(あくまでも若干の範疇だが)の不具合を抱えているとの特殊事情が背景にある事も大きいのかもしれない。 が、とにかく我が娘の教育に関して義務教育現場に一任していたのでは、弊害こそ大きかれ娘の真の成長が望めないと早期に判断した私は、娘小学校入学前から高校2年生頃までずっと娘の学習に主体的に付き添って来た。 娘高3時点では、志望大学公募制推薦入試合格に向け“鬼のサリバン”と化し、娘の実力を磨き上げ見事一発合格に持ち込んだ。
 元々学問好きで高校教員経験もあり、(IQ168を誇る?)私にとっては「学習指導」は得意分野だ。  一方その他のサリバンの専門ではない分野に関しては、外部の専門筋に娘の教育を依存するとの方策を採用した。 例えば音楽分野や美術分野等々。 それが功を奏して、我が娘は一度は美大進学を志した程だ。(結局挫折して、別分野へ進んで現在に至っているものの。)

 とにかく、こと研ぎ澄まされた専門力を要する特殊分野に関しては、学校(特に義務教育課程)現場の指導力の程が貧弱であるのは否めない事実だろう。
 もちろん児童生徒が個々に持って生まれた個人的天才性や家庭環境により、自ら潜在能力ある人材はそれだけで開花出来る事もあるにはあろう。 ただそれとて奇跡的確率に過ぎず、決して学校現場の教育力の快挙ではない事実を学校側は真摯に認めるべきではなかろうか? 


 最後に、冒頭の栃木県雪崩事故に戻そう。
 報道等で見聞する限り、今回犠牲になった高校生達は優秀な人材に成長する素質を秘め、将来に渡る活躍を切望されていたと認識している。
 それら人材の尊い命を、思慮なき判断により一瞬にして失った高体連や学校現場の責任は計り知れない程に重い。 
 まさか加害者達が “教育者側に立てば自分こそが偉い” などとの未熟かつ無謀な感覚を長年その職種に従事する間に無意識に身に付け、安穏と過ごしてしまっていたとは思いたくもないが…。

 とにかく今後下される司法の判断に従い、学校や自治体側は自己の犯した罪の裁きを静粛に受け入れて欲しいものだ。