(写真は、現在映画館にて上映中の ディズニー映画「美女と野獣」の新聞広告を転写したもの。)
昨日、久しぶりに映画館で映画を見て来た。
元々映画鑑賞趣味があると言う程には映画を見ない私だが、自宅から石神井川沿いに桜並木を歩いて30分程の位置に映画館が存在するため、この地に引っ越して以来、気が向いた時に散歩がてらこの映画館を訪れている。
昨日見て来たのは、表題の実写版「美女と野獣」である。
これまた私は特別ディズニー映画ファンでもなければ、是非共不滅の名作を見たいとの事でもなかった。
あくまでも水曜日がレディースディだし、連休前の空いているこの時期に映画館へ行ってみようとひらめいただけの話だ。
冒頭より、先程ネット上で発見した当該「美女と野獣」に関する情報の一部を以下に紹介しよう。
ディズニー・アニメーション『美女と野獣』が、ベル役にエマ・ワトソンを迎えついに実写映画化。 アニメーション公開から26年の時を経て、2017年4月21日(金)日本公開となる。
ディズニーがアニメーション映画『美女と野獣』を公開したのは、1991年のこと。 1740年にヴィルヌーヴ夫人によって最初に書かれた「美女と野獣」は、これまで文学やテレビドラマ、バレエ、舞台など、様々な解釈によって感動の物語を綴ってきた。 映画化は幾度となく行われ、1940年代にジャン・コクトー監督が、2014年にもレア・セドゥ主演で実写化されている。
公開から25周年を迎えたディズニー『美女と野獣』は、実写映画化され現代へ。 主人公ベルを演じるのは「4歳からベルに夢中!」とキャラクターの大ファンであるエマ・ワトソン。 『ハリー・ポッター』シリーズのハーマイオニー役で世代や性別を超えて人々に愛された彼女が、抜群の歌唱力を手に21世紀のニューヒロインを演じる。
ベルの相手役・野獣には、TVドラマ『ダウントン・アビー』で脚光を浴びたダン・スティーヴンスが抜擢。 フェイシャル・キャプチャーとパフォーマンス・キャプチャーといった映像テクノロジーを用いて、現代版野獣がリアルに描かれる。
『美女と野獣』は、魔女の呪いによって野獣の姿に変えられてしまった美しい王子と、一人の少女ベルとの物語。 ”人と違う外見に縛られ”本当の自分を受け入れられない野獣が、”人と違うことを自分の輝きに変える”ベルと出会い、人を愛し愛されることを学んでいく。 実写映画化に伴い、大きなテーマとなるのは「なぜベルは野獣を愛したのか?」という一つの問いだ。
日本公開に先駆け、監督ビル・コンドンが来日。 映画『シカゴ』『ドリームガールズ』と数々のミュージカル映画を世に送り出してきた彼が、ディズニー作品をどう描いたのか。『美女と野獣』実写化にかける思いについて話を聞くことができた。
Q:数多くのディズニー作品の中から、なぜ『美女と野獣』が実写化されたのでしょう。
コンドン:ディズニーにとって大きなチャレンジだったと思います。 ここ数年、ディズニーは、いわゆる古典と呼ばれる作品を実写化して現代風にリメイクしてきました。
これらの作品と比べると『美女と野獣』は近年のもの。 早い段階で、舞台・ミュージカル化され、もちろん日本でも上演されています。 またアニメーション映画『美女と野獣』が生まれた時期は、ディズニースタジオの中でルネッサンスを迎えた時期でした。 そういう点で、他の過去のアニメーション作品と『美女と野獣』は立ち位置が異なる。 近代作品を実写化することはもちろん、人気のある『美女と野獣』を選ぶことは、ディズニーにとって大きな決断に繋がったと思います。
Q:人気作品を実写化する上で、ビル監督が挑戦したことはどんなことでしょうか。
物語をリアルに描くこと。 私が実写化する上で必要だと思ったことは、主人公のベルや野獣、そして城の住人たちであるルミエールやポット夫人といったキャラクターたちに新たな観点からさらなる深みを与えることです。 アニメーションで描かれているキャラクターたちは、いわゆる「典型」という形でしか表現されていない。 様々な側面やニュアンスを持った人間味が描かれているわけではないんですよね。
今回、本物の役者たちに演じてもらうということで、各キャラクターに人間性を持たせました。 バックストーリー、心理描写を掘り下げることによって、それぞれのキャラクターたちの個性をきちんと描き出す。特にベルが野獣に恋に落ちるところは、現実世界のようにリアルに映し出したかったんです。
Q:ベルと野獣はどういった人物だと捉えましたか。
ベルと野獣に共通しているところは、喪失感を持っているのに、未だそれが解決していないことです。ベルに関しては、頭の中に雲がかかっているというか。 現実を飛び出して冒険に出たいんだけれど、彼女の中にあるいくつかの疑問を脱ぎされない。 父親がなぜ彼女に対して過保護なのか。どうしてパリからこの小さな村へ引っ越したのか。母親の死因は何なのか。 父親はベルを大切にするあまり守ることしか考えていない。結果、彼があまりに秘密にしすぎたため、ベルは自分の過去や母親について疑問を抱いてしまうんです。 野獣の方も、母親を失ったことによって、愛情を感じられる唯一の相手がいなくなってしまった。その後はひどい父親と残されてしまう。
本作では、ストーリーを通して二人の過去を解いていく。 野獣はベルの母親の死因を知り、ベルは母親を亡くして野獣が変化したことに気付く。 二人がお互いを理解していく中で心の接点を見つけ、互いに心の傷を癒していく。 そして、似たような過去の心の痛みを持っている人と出会うことで、自分の問題も解決できるように成長していきます。
Q:二人の成長シーンに、込めたメッセージとは。
基本的なメッセージは、「美女と野獣」で語り継がれているもので、「表面的なものにとらわれず、さらに深いところを見ることが大切だ」ということです。 現代は表面的なものが明るみになりやすいく、そういったものばかりが取り上げられやすい。 だからこそ、特に若い世代には作品を通して表面に惑わされずちゃんと知識を持つ必要があることを感じて欲しい。 愛の道筋は見つけ出さなくてはいけないものですので。 と同時に、ベルと野獣は互いに心を開くことによって、自分でも知らなかった自分自身を知る。 その当たりも作品から感じとって欲しいですね。
(以上、実写版「美女と野獣」 に関するネット情報の一部を引用紹介したもの。)
ここから、原左都子自身の映画の感想及び私論に入ろう。
最近の実写映画はとかく特撮ものが多い。 大スペクタクルやエンターテイメント性で観客を魅了し続ける構成となっていて、確かに上映時間内飽きずにダレずに見られるという意味では、娯楽の一端としての役割を果たせていると結論付けてよいのだろう。
その一方、子どもを連れてアミューズメント施設へ行った時のごとく、映画に関しても飽きずに楽しめたが、何かが得られたのかどうか? なる疑問符が常に頭にもたげたるのは私だけだろうか??
これに関しては、我が家特有の事情があったのかもしれない。 何分我が子生まれ持っての事情故に、特に幼少の頃は何に対しても反応が鈍いとの特質を抱えていた。 それをカバーするがごとく映画を含め何処のアミューズメント施設へも我が子を誘った時は欠かさずサリバン母の私が、あれが面白かったよねえ! あの場面は感動したね! と大袈裟な演技力で我が子の感情を引き出すべく努力を要したのだ。 それが私自身が真に楽しめた時は演技力が冴えるのだが、どう演技力でフォローせんと志しても無理が出るような、つまらない娯楽が増えつつあることを近年懸念し続けていたとも言えるのだ……
昨日見た「美女と野獣」は私一人で観賞したため、我が子の感情を引き出すべく演技力の苦労からは最初から解放されていた。
そうだとして…。
あくまでも原左都子の感想だが、せっかくの実写版特撮ものにして、何故か物足りなさが否めない感覚が拭い去れないのだ。
今日になって上記のネット情報を見ると、監督であられるコンドン氏の熱意の程は十分に伝わるし、実際の映画画面でも監督氏の方針は隅々まで表現されていた事は確かだ。
例えば特写の技術力の程は間違いなく素晴らしいし、主人公ベルや相手役野獣をはじめ、出演者皆の演技力や歌唱力、ダンス力は目を見張るものがあった。 特にクラシックバレエファンでもある私としては、お城での豪華絢爛舞踏会の風景などまるで舞台でコールドバレエを見るがごとくの迫力があった。
その一方で、後に残るものが無いのだ…。
昔見た映画には、必ずやそれがあった気がする。 “いや、違う。” “私はこう思う。” “私ならばそうはしない。” 等々、とにかく映画を見た後で、自分なりに考える時間が自然と取れたものだ。
単に映画の部門にもよるのかもしれない。 ただ私の記憶によれば、昔は部門を問わず映画を見た後で、その感想等を一緒に見た人と酒でも飲みながら語り合え、更なる自己発展に繋げられたような記憶があるのだ。
娯楽は娯楽であってよいのだろう。
ただ、娯楽が永遠に人類の娯楽であり続けるためには、人間に“考えさせる”作業を提供する事も視野に入れつつ発展し直すべきかと思ったりもする。
3D、4D …… 一体何処まで映画は最新技術に支えられ発展を続けるのだろう。
“最新技術の発展” と “人間の脳の退化” が同時進行しない事を私は望む。
昨日、久しぶりに映画館で映画を見て来た。
元々映画鑑賞趣味があると言う程には映画を見ない私だが、自宅から石神井川沿いに桜並木を歩いて30分程の位置に映画館が存在するため、この地に引っ越して以来、気が向いた時に散歩がてらこの映画館を訪れている。
昨日見て来たのは、表題の実写版「美女と野獣」である。
これまた私は特別ディズニー映画ファンでもなければ、是非共不滅の名作を見たいとの事でもなかった。
あくまでも水曜日がレディースディだし、連休前の空いているこの時期に映画館へ行ってみようとひらめいただけの話だ。
冒頭より、先程ネット上で発見した当該「美女と野獣」に関する情報の一部を以下に紹介しよう。
ディズニー・アニメーション『美女と野獣』が、ベル役にエマ・ワトソンを迎えついに実写映画化。 アニメーション公開から26年の時を経て、2017年4月21日(金)日本公開となる。
ディズニーがアニメーション映画『美女と野獣』を公開したのは、1991年のこと。 1740年にヴィルヌーヴ夫人によって最初に書かれた「美女と野獣」は、これまで文学やテレビドラマ、バレエ、舞台など、様々な解釈によって感動の物語を綴ってきた。 映画化は幾度となく行われ、1940年代にジャン・コクトー監督が、2014年にもレア・セドゥ主演で実写化されている。
公開から25周年を迎えたディズニー『美女と野獣』は、実写映画化され現代へ。 主人公ベルを演じるのは「4歳からベルに夢中!」とキャラクターの大ファンであるエマ・ワトソン。 『ハリー・ポッター』シリーズのハーマイオニー役で世代や性別を超えて人々に愛された彼女が、抜群の歌唱力を手に21世紀のニューヒロインを演じる。
ベルの相手役・野獣には、TVドラマ『ダウントン・アビー』で脚光を浴びたダン・スティーヴンスが抜擢。 フェイシャル・キャプチャーとパフォーマンス・キャプチャーといった映像テクノロジーを用いて、現代版野獣がリアルに描かれる。
『美女と野獣』は、魔女の呪いによって野獣の姿に変えられてしまった美しい王子と、一人の少女ベルとの物語。 ”人と違う外見に縛られ”本当の自分を受け入れられない野獣が、”人と違うことを自分の輝きに変える”ベルと出会い、人を愛し愛されることを学んでいく。 実写映画化に伴い、大きなテーマとなるのは「なぜベルは野獣を愛したのか?」という一つの問いだ。
日本公開に先駆け、監督ビル・コンドンが来日。 映画『シカゴ』『ドリームガールズ』と数々のミュージカル映画を世に送り出してきた彼が、ディズニー作品をどう描いたのか。『美女と野獣』実写化にかける思いについて話を聞くことができた。
Q:数多くのディズニー作品の中から、なぜ『美女と野獣』が実写化されたのでしょう。
コンドン:ディズニーにとって大きなチャレンジだったと思います。 ここ数年、ディズニーは、いわゆる古典と呼ばれる作品を実写化して現代風にリメイクしてきました。
これらの作品と比べると『美女と野獣』は近年のもの。 早い段階で、舞台・ミュージカル化され、もちろん日本でも上演されています。 またアニメーション映画『美女と野獣』が生まれた時期は、ディズニースタジオの中でルネッサンスを迎えた時期でした。 そういう点で、他の過去のアニメーション作品と『美女と野獣』は立ち位置が異なる。 近代作品を実写化することはもちろん、人気のある『美女と野獣』を選ぶことは、ディズニーにとって大きな決断に繋がったと思います。
Q:人気作品を実写化する上で、ビル監督が挑戦したことはどんなことでしょうか。
物語をリアルに描くこと。 私が実写化する上で必要だと思ったことは、主人公のベルや野獣、そして城の住人たちであるルミエールやポット夫人といったキャラクターたちに新たな観点からさらなる深みを与えることです。 アニメーションで描かれているキャラクターたちは、いわゆる「典型」という形でしか表現されていない。 様々な側面やニュアンスを持った人間味が描かれているわけではないんですよね。
今回、本物の役者たちに演じてもらうということで、各キャラクターに人間性を持たせました。 バックストーリー、心理描写を掘り下げることによって、それぞれのキャラクターたちの個性をきちんと描き出す。特にベルが野獣に恋に落ちるところは、現実世界のようにリアルに映し出したかったんです。
Q:ベルと野獣はどういった人物だと捉えましたか。
ベルと野獣に共通しているところは、喪失感を持っているのに、未だそれが解決していないことです。ベルに関しては、頭の中に雲がかかっているというか。 現実を飛び出して冒険に出たいんだけれど、彼女の中にあるいくつかの疑問を脱ぎされない。 父親がなぜ彼女に対して過保護なのか。どうしてパリからこの小さな村へ引っ越したのか。母親の死因は何なのか。 父親はベルを大切にするあまり守ることしか考えていない。結果、彼があまりに秘密にしすぎたため、ベルは自分の過去や母親について疑問を抱いてしまうんです。 野獣の方も、母親を失ったことによって、愛情を感じられる唯一の相手がいなくなってしまった。その後はひどい父親と残されてしまう。
本作では、ストーリーを通して二人の過去を解いていく。 野獣はベルの母親の死因を知り、ベルは母親を亡くして野獣が変化したことに気付く。 二人がお互いを理解していく中で心の接点を見つけ、互いに心の傷を癒していく。 そして、似たような過去の心の痛みを持っている人と出会うことで、自分の問題も解決できるように成長していきます。
Q:二人の成長シーンに、込めたメッセージとは。
基本的なメッセージは、「美女と野獣」で語り継がれているもので、「表面的なものにとらわれず、さらに深いところを見ることが大切だ」ということです。 現代は表面的なものが明るみになりやすいく、そういったものばかりが取り上げられやすい。 だからこそ、特に若い世代には作品を通して表面に惑わされずちゃんと知識を持つ必要があることを感じて欲しい。 愛の道筋は見つけ出さなくてはいけないものですので。 と同時に、ベルと野獣は互いに心を開くことによって、自分でも知らなかった自分自身を知る。 その当たりも作品から感じとって欲しいですね。
(以上、実写版「美女と野獣」 に関するネット情報の一部を引用紹介したもの。)
ここから、原左都子自身の映画の感想及び私論に入ろう。
最近の実写映画はとかく特撮ものが多い。 大スペクタクルやエンターテイメント性で観客を魅了し続ける構成となっていて、確かに上映時間内飽きずにダレずに見られるという意味では、娯楽の一端としての役割を果たせていると結論付けてよいのだろう。
その一方、子どもを連れてアミューズメント施設へ行った時のごとく、映画に関しても飽きずに楽しめたが、何かが得られたのかどうか? なる疑問符が常に頭にもたげたるのは私だけだろうか??
これに関しては、我が家特有の事情があったのかもしれない。 何分我が子生まれ持っての事情故に、特に幼少の頃は何に対しても反応が鈍いとの特質を抱えていた。 それをカバーするがごとく映画を含め何処のアミューズメント施設へも我が子を誘った時は欠かさずサリバン母の私が、あれが面白かったよねえ! あの場面は感動したね! と大袈裟な演技力で我が子の感情を引き出すべく努力を要したのだ。 それが私自身が真に楽しめた時は演技力が冴えるのだが、どう演技力でフォローせんと志しても無理が出るような、つまらない娯楽が増えつつあることを近年懸念し続けていたとも言えるのだ……
昨日見た「美女と野獣」は私一人で観賞したため、我が子の感情を引き出すべく演技力の苦労からは最初から解放されていた。
そうだとして…。
あくまでも原左都子の感想だが、せっかくの実写版特撮ものにして、何故か物足りなさが否めない感覚が拭い去れないのだ。
今日になって上記のネット情報を見ると、監督であられるコンドン氏の熱意の程は十分に伝わるし、実際の映画画面でも監督氏の方針は隅々まで表現されていた事は確かだ。
例えば特写の技術力の程は間違いなく素晴らしいし、主人公ベルや相手役野獣をはじめ、出演者皆の演技力や歌唱力、ダンス力は目を見張るものがあった。 特にクラシックバレエファンでもある私としては、お城での豪華絢爛舞踏会の風景などまるで舞台でコールドバレエを見るがごとくの迫力があった。
その一方で、後に残るものが無いのだ…。
昔見た映画には、必ずやそれがあった気がする。 “いや、違う。” “私はこう思う。” “私ならばそうはしない。” 等々、とにかく映画を見た後で、自分なりに考える時間が自然と取れたものだ。
単に映画の部門にもよるのかもしれない。 ただ私の記憶によれば、昔は部門を問わず映画を見た後で、その感想等を一緒に見た人と酒でも飲みながら語り合え、更なる自己発展に繋げられたような記憶があるのだ。
娯楽は娯楽であってよいのだろう。
ただ、娯楽が永遠に人類の娯楽であり続けるためには、人間に“考えさせる”作業を提供する事も視野に入れつつ発展し直すべきかと思ったりもする。
3D、4D …… 一体何処まで映画は最新技術に支えられ発展を続けるのだろう。
“最新技術の発展” と “人間の脳の退化” が同時進行しない事を私は望む。