“高齢者”関連の記事が続くが、敬老の日の本日はその最終章として、年老いた親と子のあり方について考察してみることにしよう。
自宅で白骨化して発見されたお年寄りが実は30年も前にこの世を去っているにもかかわらず、家族により死亡届けも出されないままその年金を不正受給していた子孫が逮捕される現状… この事件以外にも、所在不明のまま放置されているお年寄りが全国に数多く存在する実態の我が国である。
介護保険制度が法制度化された頃以降、年老いた親と子のあり方がプラス・マイナス両面で変遷を遂げようとしている。
「老いては子に従え」と言われた時代は既に遠く過ぎ去り、はたまた卑属である子孫が尊属である親の老後の面倒を当然のごとく看ねばならない時代も、既に過去のノスタルジーであろう。
「敬老の日」としては多少若い世代の高齢者の話になるかもしれないが、朝日新聞9月18日別刷「be」の“悩みのるつぼ”は、62歳主婦による「独りで育てた3人の子なのに」という題目の相談だった。
以下に、その相談内容を手短に要約しよう。
倒産寸前の自営業の夫を50歳で亡くして以来再就職し、3人の子どもを抱え学費その他を実家の母に頼りつつ精一杯生きてきた。子ども達には祖父母にお礼をするよう言い聞かせ、それを実行する子どもを見て本当に良い子に育ったと思っていた。 その後3人共結婚、独立し、2年前に祖父母も亡くなり私は一人暮らしになった。 ところが母の私に対しては3人の子どもから何の気遣いもない。どんな思いで育てたのかと情けなくなる。 皆元気で仲良くやっているのだから良しとしようと自分に言い聞かせたりしつつ、あんなにしてやったのにと愚痴が出てしまう。 持病を抱えつつも趣味もあり友人もいる私であるが、どうしようもなく寂しい時がある。どう心を持てばよいのか?
ここで一旦、私論に入ろう。
原左都子は相談者の主婦の方よりも若干若い世代であるし、また結婚前後の人生の歩みがまったく異なるため単純に比較して論評することはナンセンスであることを重々承知している。 それにしても驚くのは、3人の子供さん達が立派に自立したことを“親としての成功”と捉えるよりも、未だ62歳という若さにしてその“見返り”に期待する欲求及び不満が上回っている点である。
私事で恐縮ながらここで原左都子の現状に移ると、現役の母親業真っ盛りである。16歳の高校生の娘を何としてでも志望大学へ入れてやりたい思いで娘の補佐役“お抱え家庭教師”として君臨中であり、今は自分の老後になど思いも及ばないというのが現実である。 これも偏(ひとえ)に我が子には自分の目指す道で自立して、自分が欲する人生を歩んで欲しいからに他ならないのだ。
(こんなところで暗い私事談を暴露して恐縮だが、16歳の娘の母である私には、実は娘に対するある種の懸念材料がいつも我が根底にどっぷりと蔓延っているのである。 今は親の期待に沿って最大限精進してくれている娘であるが、何分、多少の事情を持って生まれてきている我が子であるため、今後私の日々の補佐がまったく無くなった時点でどこまで独立力があるのかという部分においてである。 もちろん子どもの自立力を信じて親子で日々精進してはいる。 ただ、今後も私の補佐がある方が我が子にとって尚一層の成長を遂げる支援力となるのであれば、私は一生をかけて我が子の自立を願い裏舞台でこっそりと補佐し続ける覚悟である。)
そんな私は、子どもからの“見返り”など一生望むべくもないのだ。 それだからこそこの相談者主婦の苦悩を計りかねる一方で、この相談者はある意味で幸せな人なのであろうとも考察する。
はたまた他方では、まだまだ今後自己実現可能な62歳という年齢にして、ご自身の今後の人生を我が子の“心遣い”に頼ろうとすることによりこの相談者は自分の人生を窮屈なものにしようとしているとも考察するのである。 ご自身の持病等の病気を引き合いに出して、(私は弱いのだから助けて~~)などと我が子や他者に向かって発信する事自体が、既に今後の可能性を捨てているのではないかと原左都子は感じてしまうのだ…。 年齢にかかわらず、先々の人生に夢や希望や信念そしてやり遂げねばならない事象がある人間が、自分の病気等の弱点を売り物にしている場合ではないからである。
今回の“悩みのるつぼ”の回答者であられる社会学者の上野千鶴子氏も、原左都子と類似した回答を展開していらっしゃるのだが、字数の関係でここではその結論部分のみを紹介しよう。
「子育てを終えた親と成人になった子どもとは、もう一度距離を置いて家族の絆を再構築することが必要かも。そのためには礼儀もあってもよい。 ただし礼儀とは水くさい間柄だから必要なもの、と観念して下さいね。」
いろいろな意味で、老いて尚従える子を持つ親とは幸せであるのだと思う。 いやいや、そう思いつつも、原左都子の娘とて今既に十分親が頼りに出来る側面も持ちつつ頼もしく成長してくれている。
それにしても、いつまでも手がかかる子どもとは親を老いさせないエネルギー源であり、親にとってこれ以上かけがえのない存在はないことを実感させてもらえる日々である。
そんな我が子に恵まれた私は、確かに“老いる”ということを知らない。 いつまでも多方面においてパワーに満ち溢れ、癌にも一切動じなかったし、ちょっとした病気など吹き飛ばしている。
将来我が子が完全独立した暁には、この私も今一度羽ばたかせてもらおう! その際にはもちろん我が子に見返りを求めたりしない替わりに、従いもしないぞ!!
その一方で、今後二人が年齢を重ねてお互いのライフスタイルが違っても、いつまでも今まで通りの仲良し親子でいようね!
自宅で白骨化して発見されたお年寄りが実は30年も前にこの世を去っているにもかかわらず、家族により死亡届けも出されないままその年金を不正受給していた子孫が逮捕される現状… この事件以外にも、所在不明のまま放置されているお年寄りが全国に数多く存在する実態の我が国である。
介護保険制度が法制度化された頃以降、年老いた親と子のあり方がプラス・マイナス両面で変遷を遂げようとしている。
「老いては子に従え」と言われた時代は既に遠く過ぎ去り、はたまた卑属である子孫が尊属である親の老後の面倒を当然のごとく看ねばならない時代も、既に過去のノスタルジーであろう。
「敬老の日」としては多少若い世代の高齢者の話になるかもしれないが、朝日新聞9月18日別刷「be」の“悩みのるつぼ”は、62歳主婦による「独りで育てた3人の子なのに」という題目の相談だった。
以下に、その相談内容を手短に要約しよう。
倒産寸前の自営業の夫を50歳で亡くして以来再就職し、3人の子どもを抱え学費その他を実家の母に頼りつつ精一杯生きてきた。子ども達には祖父母にお礼をするよう言い聞かせ、それを実行する子どもを見て本当に良い子に育ったと思っていた。 その後3人共結婚、独立し、2年前に祖父母も亡くなり私は一人暮らしになった。 ところが母の私に対しては3人の子どもから何の気遣いもない。どんな思いで育てたのかと情けなくなる。 皆元気で仲良くやっているのだから良しとしようと自分に言い聞かせたりしつつ、あんなにしてやったのにと愚痴が出てしまう。 持病を抱えつつも趣味もあり友人もいる私であるが、どうしようもなく寂しい時がある。どう心を持てばよいのか?
ここで一旦、私論に入ろう。
原左都子は相談者の主婦の方よりも若干若い世代であるし、また結婚前後の人生の歩みがまったく異なるため単純に比較して論評することはナンセンスであることを重々承知している。 それにしても驚くのは、3人の子供さん達が立派に自立したことを“親としての成功”と捉えるよりも、未だ62歳という若さにしてその“見返り”に期待する欲求及び不満が上回っている点である。
私事で恐縮ながらここで原左都子の現状に移ると、現役の母親業真っ盛りである。16歳の高校生の娘を何としてでも志望大学へ入れてやりたい思いで娘の補佐役“お抱え家庭教師”として君臨中であり、今は自分の老後になど思いも及ばないというのが現実である。 これも偏(ひとえ)に我が子には自分の目指す道で自立して、自分が欲する人生を歩んで欲しいからに他ならないのだ。
(こんなところで暗い私事談を暴露して恐縮だが、16歳の娘の母である私には、実は娘に対するある種の懸念材料がいつも我が根底にどっぷりと蔓延っているのである。 今は親の期待に沿って最大限精進してくれている娘であるが、何分、多少の事情を持って生まれてきている我が子であるため、今後私の日々の補佐がまったく無くなった時点でどこまで独立力があるのかという部分においてである。 もちろん子どもの自立力を信じて親子で日々精進してはいる。 ただ、今後も私の補佐がある方が我が子にとって尚一層の成長を遂げる支援力となるのであれば、私は一生をかけて我が子の自立を願い裏舞台でこっそりと補佐し続ける覚悟である。)
そんな私は、子どもからの“見返り”など一生望むべくもないのだ。 それだからこそこの相談者主婦の苦悩を計りかねる一方で、この相談者はある意味で幸せな人なのであろうとも考察する。
はたまた他方では、まだまだ今後自己実現可能な62歳という年齢にして、ご自身の今後の人生を我が子の“心遣い”に頼ろうとすることによりこの相談者は自分の人生を窮屈なものにしようとしているとも考察するのである。 ご自身の持病等の病気を引き合いに出して、(私は弱いのだから助けて~~)などと我が子や他者に向かって発信する事自体が、既に今後の可能性を捨てているのではないかと原左都子は感じてしまうのだ…。 年齢にかかわらず、先々の人生に夢や希望や信念そしてやり遂げねばならない事象がある人間が、自分の病気等の弱点を売り物にしている場合ではないからである。
今回の“悩みのるつぼ”の回答者であられる社会学者の上野千鶴子氏も、原左都子と類似した回答を展開していらっしゃるのだが、字数の関係でここではその結論部分のみを紹介しよう。
「子育てを終えた親と成人になった子どもとは、もう一度距離を置いて家族の絆を再構築することが必要かも。そのためには礼儀もあってもよい。 ただし礼儀とは水くさい間柄だから必要なもの、と観念して下さいね。」
いろいろな意味で、老いて尚従える子を持つ親とは幸せであるのだと思う。 いやいや、そう思いつつも、原左都子の娘とて今既に十分親が頼りに出来る側面も持ちつつ頼もしく成長してくれている。
それにしても、いつまでも手がかかる子どもとは親を老いさせないエネルギー源であり、親にとってこれ以上かけがえのない存在はないことを実感させてもらえる日々である。
そんな我が子に恵まれた私は、確かに“老いる”ということを知らない。 いつまでも多方面においてパワーに満ち溢れ、癌にも一切動じなかったし、ちょっとした病気など吹き飛ばしている。
将来我が子が完全独立した暁には、この私も今一度羽ばたかせてもらおう! その際にはもちろん我が子に見返りを求めたりしない替わりに、従いもしないぞ!!
その一方で、今後二人が年齢を重ねてお互いのライフスタイルが違っても、いつまでも今まで通りの仲良し親子でいようね!