新政権の元タレントでもある蓮舫特命担当大臣が、昨年事業仕分け担当議員だった時に残した有名な“格言”がある。
次世代コンピュータ開発の予算削減を決定する際に発した以下の文言である。
「世界一になる理由は何かあるんでしょうか? 2位じゃダメなんでしょうか?」
もっと古くなるが、人気グループのSMAPも数年前にこう歌った。
「この中で誰が一番だなんて 争う事もしないで バケツの中に誇らしげに しゃんと胸を張っている
それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる? 一人ひとり違うのにその中で 一番になりたがる
そうさ 僕らは世界で一つだけの花 一人ひとり違う種を持つ
その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい 」
つい先だって大リーグマリナーズのイチロー選手が、10年連続200本安打の歴史的快挙を成し遂げた。 まだまだ安打記録は続いており、おそらく本年もリーグ1の安打数記録を達成することであろう。
我が国が誇る野球界の世界的スーパースター・イチロー選手の前人未到No.1連続記録の達成を喜ばない人はいないであろう。
この私も決して野球ファンではなくイチローファンという訳でもないのだが、天才にして日々尋常でない努力を惜しまず、常に上のまた上を目指し続けるイチローの研ぎ澄まされたプロ精神を崇拝申し上げたい思いである。
(ついでに、相撲界の白鵬の快進撃もすばらしいですね!)
冒頭の蓮舫氏の発言に関しては、ノーベル賞受賞者等の科学者達からの批判もあった。
野依良治氏は「全く不見識であり、将来歴史と言う法廷に立つ覚悟はできているのか」とのさすが!と唸るような文学的かつ普遍的コメントを述べられ、多少若手の利根川進氏も「世界一である必要はないと言うが、1位を目指さなければ2位、3位にもなれない」と反論された。
歳費削減を目指す政治家と世界の第一線で活躍する研究者という立場の違いはあれども、原左都子はこの論議において研究者側の発言に軍配を挙げたいのだ。 世界の最前線で業績を残そうとする人材には、2番でいいなどとの発想はあり得ないのである。そんな甘っちょろい思いが脳裏をかすめた時点で、凡人研究者の道しか残されていなかったことであろう。
次にSMAPの歌に話を移して考察してみよう。
これは学校教育現場等における“個性の尊重”を一応意識した歌詞なのであろう。
おそらく、全国の小学校の教科書にも取り上げられている 金子みすず氏の詩 「みんな違ってみんないい」 を意識して作った歌詞なのであろうとも推測できる。
確かに“個性の尊重”は、一斉授業を教育手段とせざるを得ない日本の現在の公教育において、第一義に考慮するべき課題ではあろう。
ところが、上記SMAPの歌詞の中には教育上大きな“過ち”があると原左都子は見るのだ。
それは 「一人ひとり違うのに その中で一番になりたがる」 と 「その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい」 の箇所である。(上記に掲げた歌詞内での指摘であるが。)
以下に、教育論を含めた私論を展開しよう。
どうも今時の公教育は生徒を“横並び”させておきさえすれば表面上安泰であるし教育が施し易い故に、それを「平等」に置換して安易な教育に走っているのではないのか? との論評を、本ブログのバックナンバー「横並び教育の所産」(2007年9月著)において既述している。
この公教育の所産なのか、まさにSMAPが歌うように「私は生まれながら“オンリー1”の存在なんだから、(努力なんかしなくても)世の中で認められるんだ!」と勘違いする若者が量産されているように日頃私は感じるのである。
これこそが、現在の日本の衰退と国際競争力の喪失を創り上げている元凶なのではないのかとの危機感さえ抱くのである。
極端な例として、「私(ボク)は元々弱い人間なんだからニートでもパラサイトでも許されるべきで、それを責める周囲の人間の方が悪人だぞ。 この弱さは僕らの個性であってそんな僕らは手厚く保護される権利があるんだ。」等の論理が既に成り立ってしまっていて、その種の“弱者”への社会保障費の歳出が膨大し続けている現状である。 あるいは「子ども手当て」のバラ撒きなどもそれに準ずると私は位置付けるのだが…。
ここには何かが欠落している。
もちろん「弱者」は保護したい。 これこそが原左都子の教育理念における最たるものではある。 だが決して、公教育が正面切って「弱者」を量産することを正当化してはならないのだ。
公教育は、努力する国民性を育て続けるべきなのである。 これこそが今後この国を建て直すべく公教育が担う課題であり役割であると断言しよう。
国の財政健常化のためには、蓮舫氏がおっしゃるように“2番”であってもいい分野もあるかもしれない。 (それは分からなくもないが、選挙で当選さえすればにわかに代議士になれ、その後ひょんな発言から名前さえ売れれば大臣にまで上り詰めてしまう国会議員と比較して、科学分野研究者達の幼少の頃よりの長年に渡る日々の尋常ではない努力の程を思うと、私にはどうしても研究者側の味方以外の選択肢はあり得ない。)
一方で、SMAPが歌った「一人ひとり違うのに その中で一番になりたがる」と「その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい」の歌詞の部分は、学校教育において明らかに“過ち”であるとここで言い切ろう。
“一人ひとり違う”ことと“一番になりたがる”こととはそもそも相容れない概念である。 一人ひとりの個性を尊重しつつも、その中で子ども達は自分の得意分野で上を目指して精進するべきである。 努力した子が一番になってもちろんいいし、それを敗者である周囲が讃え応援するキャパシティや、羨望、模倣し自らも成長しようとする精神を育成するのも教育が果す重要な役割であるべきなのだ。
加えて、“自分の花を咲かせる事だけに一生懸命に”なっていたのでは、我が身息災の狭い視野の利己的人生となろう。(これこそがまさに今の日本の閉鎖的社会の実態と捉えるのだが…) そうではなく、人間が成長を目指すためには広い視野を持って周囲を見渡しつつ、他者の能力を受け入れていくことこそが自己の更なる発展に繋がると私は信じる。
上を目指そうとしない現代の我が国の若者群像を創り上げているのは、まさに国政の責任と結論付けられるであろう。
(それにしても政権は中国問題を一体どう解決するつもりなのか?? 個人的には末恐ろしいまでの危機感を抱いているのだけど…)
次世代コンピュータ開発の予算削減を決定する際に発した以下の文言である。
「世界一になる理由は何かあるんでしょうか? 2位じゃダメなんでしょうか?」
もっと古くなるが、人気グループのSMAPも数年前にこう歌った。
「この中で誰が一番だなんて 争う事もしないで バケツの中に誇らしげに しゃんと胸を張っている
それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる? 一人ひとり違うのにその中で 一番になりたがる
そうさ 僕らは世界で一つだけの花 一人ひとり違う種を持つ
その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい 」
つい先だって大リーグマリナーズのイチロー選手が、10年連続200本安打の歴史的快挙を成し遂げた。 まだまだ安打記録は続いており、おそらく本年もリーグ1の安打数記録を達成することであろう。
我が国が誇る野球界の世界的スーパースター・イチロー選手の前人未到No.1連続記録の達成を喜ばない人はいないであろう。
この私も決して野球ファンではなくイチローファンという訳でもないのだが、天才にして日々尋常でない努力を惜しまず、常に上のまた上を目指し続けるイチローの研ぎ澄まされたプロ精神を崇拝申し上げたい思いである。
(ついでに、相撲界の白鵬の快進撃もすばらしいですね!)
冒頭の蓮舫氏の発言に関しては、ノーベル賞受賞者等の科学者達からの批判もあった。
野依良治氏は「全く不見識であり、将来歴史と言う法廷に立つ覚悟はできているのか」とのさすが!と唸るような文学的かつ普遍的コメントを述べられ、多少若手の利根川進氏も「世界一である必要はないと言うが、1位を目指さなければ2位、3位にもなれない」と反論された。
歳費削減を目指す政治家と世界の第一線で活躍する研究者という立場の違いはあれども、原左都子はこの論議において研究者側の発言に軍配を挙げたいのだ。 世界の最前線で業績を残そうとする人材には、2番でいいなどとの発想はあり得ないのである。そんな甘っちょろい思いが脳裏をかすめた時点で、凡人研究者の道しか残されていなかったことであろう。
次にSMAPの歌に話を移して考察してみよう。
これは学校教育現場等における“個性の尊重”を一応意識した歌詞なのであろう。
おそらく、全国の小学校の教科書にも取り上げられている 金子みすず氏の詩 「みんな違ってみんないい」 を意識して作った歌詞なのであろうとも推測できる。
確かに“個性の尊重”は、一斉授業を教育手段とせざるを得ない日本の現在の公教育において、第一義に考慮するべき課題ではあろう。
ところが、上記SMAPの歌詞の中には教育上大きな“過ち”があると原左都子は見るのだ。
それは 「一人ひとり違うのに その中で一番になりたがる」 と 「その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい」 の箇所である。(上記に掲げた歌詞内での指摘であるが。)
以下に、教育論を含めた私論を展開しよう。
どうも今時の公教育は生徒を“横並び”させておきさえすれば表面上安泰であるし教育が施し易い故に、それを「平等」に置換して安易な教育に走っているのではないのか? との論評を、本ブログのバックナンバー「横並び教育の所産」(2007年9月著)において既述している。
この公教育の所産なのか、まさにSMAPが歌うように「私は生まれながら“オンリー1”の存在なんだから、(努力なんかしなくても)世の中で認められるんだ!」と勘違いする若者が量産されているように日頃私は感じるのである。
これこそが、現在の日本の衰退と国際競争力の喪失を創り上げている元凶なのではないのかとの危機感さえ抱くのである。
極端な例として、「私(ボク)は元々弱い人間なんだからニートでもパラサイトでも許されるべきで、それを責める周囲の人間の方が悪人だぞ。 この弱さは僕らの個性であってそんな僕らは手厚く保護される権利があるんだ。」等の論理が既に成り立ってしまっていて、その種の“弱者”への社会保障費の歳出が膨大し続けている現状である。 あるいは「子ども手当て」のバラ撒きなどもそれに準ずると私は位置付けるのだが…。
ここには何かが欠落している。
もちろん「弱者」は保護したい。 これこそが原左都子の教育理念における最たるものではある。 だが決して、公教育が正面切って「弱者」を量産することを正当化してはならないのだ。
公教育は、努力する国民性を育て続けるべきなのである。 これこそが今後この国を建て直すべく公教育が担う課題であり役割であると断言しよう。
国の財政健常化のためには、蓮舫氏がおっしゃるように“2番”であってもいい分野もあるかもしれない。 (それは分からなくもないが、選挙で当選さえすればにわかに代議士になれ、その後ひょんな発言から名前さえ売れれば大臣にまで上り詰めてしまう国会議員と比較して、科学分野研究者達の幼少の頃よりの長年に渡る日々の尋常ではない努力の程を思うと、私にはどうしても研究者側の味方以外の選択肢はあり得ない。)
一方で、SMAPが歌った「一人ひとり違うのに その中で一番になりたがる」と「その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい」の歌詞の部分は、学校教育において明らかに“過ち”であるとここで言い切ろう。
“一人ひとり違う”ことと“一番になりたがる”こととはそもそも相容れない概念である。 一人ひとりの個性を尊重しつつも、その中で子ども達は自分の得意分野で上を目指して精進するべきである。 努力した子が一番になってもちろんいいし、それを敗者である周囲が讃え応援するキャパシティや、羨望、模倣し自らも成長しようとする精神を育成するのも教育が果す重要な役割であるべきなのだ。
加えて、“自分の花を咲かせる事だけに一生懸命に”なっていたのでは、我が身息災の狭い視野の利己的人生となろう。(これこそがまさに今の日本の閉鎖的社会の実態と捉えるのだが…) そうではなく、人間が成長を目指すためには広い視野を持って周囲を見渡しつつ、他者の能力を受け入れていくことこそが自己の更なる発展に繋がると私は信じる。
上を目指そうとしない現代の我が国の若者群像を創り上げているのは、まさに国政の責任と結論付けられるであろう。
(それにしても政権は中国問題を一体どう解決するつもりなのか?? 個人的には末恐ろしいまでの危機感を抱いているのだけど…)