原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

人気(にんき)なんか要らない

2008年09月28日 | 自己実現
 朝日新聞9月26日(金)夕刊「be」eveningページに、今年60歳を迎えたミュージシャンSI氏の対談記事があった。
 私は普段特にSI氏に関心を寄せているという訳ではないのだが、この対談記事から、60歳にしてまだ失っていない“ツッパリ心”を伴った生き様に私自身との共通性を少し感じ取らせていただいた。

 そこで今回の記事ではこの対談を取り上げて、自分自身に置き換え考察してみることにする。


 SI氏曰く、「人気なんかいらねえよ。めんどくせえよ。売れて大物になっても、やりたいことをやる自由がなくなったらみっともねえだろ」「若いやつにウケたいなんて、ヤラしいことも考えたよ。でもそんな風に新しさを狙ってもいい曲はできなかった。そもそも人間の根源的な性格や愛情ってのは変わらないし。自分の得意なところ、つまり内省や反芻に戻ろうという気持ちにようやくなれた」「いつまでも大人げなく、わがままで。でも人の痛みのわかる表現者でいたいな」


 私の場合は芸能人でも政治家でも何でもない“ただの人”であるので、大衆から「人気」を得る必要は元々何らない。そこで、この「人気」を周囲からの“受け”や“ちやほや”されることに置き換えて考察してみよう。

 若かりし頃は、そういう願望が確かにあった。学校や職場という集団内において隅っこで目立たぬ存在であるよりも、自分の何らかの能力や特質等の持ち味が周囲に“受け”て認められ“ちやほや”されることにより、受動的に自分の存在を自分自身で確認したい願望があったことは否定できない。

 「人気」を得ることは、確かに一種の快感ではある。だか「人気」とは実は実体のない虚像とも捉えられる。肯定的な概念ではあるが、移ろいだりすぐに消え去るはかなさもある。例えば芸能人の場合、昨日はファンだった人に今日はもう飽きられている、ということはよくあることだ。
 そして通常は、年齢を重ね経験を積み上げて能力や特質等の自分の持ち味が確固たるものになってゆくにつれ、他者の評価は相対的に二の次でよくなるのが自然な成り行でもある。
 こうなってくると、「人気」とは「面倒臭い」ものになるというSI氏の談話は実感である。いつまでも、「人気」という虚像ともいえる快感に頼り過ぎることは「やりたいことをやる自由をなくすこと」に繋がり、自分を見失い、みっともない結果となろう。

 よく一世を風靡した芸能人が何十年かの年月を経てカムバックするのを見かける。新しい芸を磨きビッグになって再登場した事例は少なく、昔と同じ事をただ繰り返すのみのカムバックが多い。話題性だけはあり、一時「人気」を博するのだが、またすぐさま消え去っていく。
 カムバックには様々な事情はあろう。生計を立てるため、あるいはマスメディアの商業主義にただ利用されていたり。 そんな中で、一世風靡した頃の「人気」の快感が一種の中毒症状となっていて、それにただすがっているような心理も読み取れてしまう場合も多く、少し哀れさも漂うのが見ていて辛い。


 年齢を重ね人生経験を積み上げて来ても、SI氏のおっしゃるように人間の根源的な性格や愛情とは変わらないものである。むしろ様々な経験を重ね自分を磨いて来ると、「人気」などという主体性のない概念から解放され心がフリーになれるような気さえする。
 そして本来の自分に戻れて、いい意味で“我がまま”になれるような気もする。

 「人気」があってももちろんよいのだが、それを意識し過ぎず、今後共自分なりに“ツッパリ”つつ、人の痛みがわかる人生の表現者でいたいと私も思う。 
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