(今回は少々不謹慎な記事を綴りますので、読者の皆さん、読まなかったことにして見逃して下さいね。)
私が長~い独身時代を謳歌し、数々の恋愛遍歴を辿ってきていることに関してはバックナンバーで何度か触れている。
決して好き好んで恋愛の“数”をこなす“淫乱女”という訳ではないのだが、結婚願望がさほどなかったため一人の男性に何が何でも執着する必要がないという心理が潜在していたようだ。ちょっとした行き違い等でどうしても別れが早く訪れてしまい、次の出逢いへと移行するのである。
その中で、お相手の男性に妻子がいらっしゃることが何回かあった。
決して、その事情をあらかじめ知りつつ恋に堕ちたという訳ではない。“不倫”とは何かと面倒なものであることは自明の理であるため、独身の身としては避けるに越したことはない。そこで、元々相手に妻子がいることを知っている場合はもちろん交際はお断りする。ところが知り合った時にこれを公表しない相手がいるのだ。若い時ほど特にそうだった。そして、関係が深まってきた時にやっと妻帯者であることが判明したりする。(これを“騙された”と言うならば、そういう事なのであろう。こちらも実は既に気付いているのであるが、もはや恋愛関係が後戻りできなくなってしまっている。)
ただ、私の場合は上記のごとく結婚願望がさほどなかったため、相手が既婚者であっても外観的要因においてはお付き合い上際立った支障はないのである。(もちろん、内面的要因すなわち心理面においては大きな支障はありますよ。)
少なくとも“妻子と別れて私と結婚して欲しい!”などと取り乱して相手にしがみ付いたりすることは私の場合あり得なかったのである。いや、相手が妻子と別れたいというのは自由だが、私の方はその人と交際は続けても、だからと言って結婚を積極的に考えるということには繋がらないことははっきりと伝えた。
加えて、私は経済的にも十分に自立していた。妻子にお金がかかる相手よりもむしろ独身貴族である私の方が裕福な程だ。貢いでもらう必要など一切ない。 相手が私の自己所有のマンションに時々転がり込めば済む。相手にとってはさぞや都合の良い不倫相手であったことであろう。
ここで、“恋人”と“愛人”の違いについて少し分析してみよう。
男性の立場から女性の不倫相手のことを“愛人”という言葉で表現するのを耳にすることがある。この“愛人”という言葉には“所有物”的なニュアンスがあり私は好まない。おそらく、不倫関係において女性が男性に心理的にも経済的にも依存している場合“愛人”という表現が当てはまるのかと分析する。同様に、女性がうら若き男性に入れ込み、養っているような場合も“愛人”という言葉が適切であるように思う。(私と同年代の某日本人女性作家が韓国の若い男性に入れ込み養っているという記事を新聞で読んだことがある。私もそんなうら若き男性の“愛人”を囲ってみたいようで、何だか羨ましいような…)
私の不倫経験の場合このような依存関係は一切ないため、自分が“愛人”であることを自覚したことはない。あくまでも対等な“恋人”関係であった。(ちっとも自慢にならないけどね。)
本ブログの恋愛・男女関係バックナンバー「サンバクラブリーゼンシー」で綴った出逢いは実は“不倫”だった。あれは私の不倫初体験の時の出逢いの話である。まだ20歳代半ばのことであった。 結婚願望がさほどないとはいえ、まだ若気の至りの私には辛い辛い不倫だった。
当時結婚経験がまだない私にとっては、相手に妻子があること自体がまず耐え難い事実であった。相手の、奥様に対する恋愛感情が既に冷めていることは私にも伝わる。だが、どういう訳か不倫をする男は子煩悩なのだ。(私が経験した範囲では。)子どもに対する愛情が言動の端々から伝わってくる。(実際に定期券入れに子どもの写真を入れているのを発見することもある。)
そして不倫相手である私に対しても無意識のうちに時々父親の愛情で接してくるのだ。通常の恋愛では経験できないレベルの、恋愛を超越しているとも言える包容力のある愛情に絆されてしまう一方で、そんな感情と背中合わせにそのような愛情表現が耐えられなく辛いのだ。誰に対するのか自分でも分析不能な嫉妬心に潰されそうになるのである。
揚句の果てに、結局は相手はいつも家族の元へ帰って行く。所詮手に入らない“愛”であるのが不倫というものである。
勝手なことを綴って参りましたが、妻子の皆様、その節は大変ご迷惑をお掛け致しました。私の場合、ご家族の方々に気付かれぬことを鉄則とし、決して経済的負担もお掛けしておりませんが、ここで改めてお詫び申し上げます。
私が長~い独身時代を謳歌し、数々の恋愛遍歴を辿ってきていることに関してはバックナンバーで何度か触れている。
決して好き好んで恋愛の“数”をこなす“淫乱女”という訳ではないのだが、結婚願望がさほどなかったため一人の男性に何が何でも執着する必要がないという心理が潜在していたようだ。ちょっとした行き違い等でどうしても別れが早く訪れてしまい、次の出逢いへと移行するのである。
その中で、お相手の男性に妻子がいらっしゃることが何回かあった。
決して、その事情をあらかじめ知りつつ恋に堕ちたという訳ではない。“不倫”とは何かと面倒なものであることは自明の理であるため、独身の身としては避けるに越したことはない。そこで、元々相手に妻子がいることを知っている場合はもちろん交際はお断りする。ところが知り合った時にこれを公表しない相手がいるのだ。若い時ほど特にそうだった。そして、関係が深まってきた時にやっと妻帯者であることが判明したりする。(これを“騙された”と言うならば、そういう事なのであろう。こちらも実は既に気付いているのであるが、もはや恋愛関係が後戻りできなくなってしまっている。)
ただ、私の場合は上記のごとく結婚願望がさほどなかったため、相手が既婚者であっても外観的要因においてはお付き合い上際立った支障はないのである。(もちろん、内面的要因すなわち心理面においては大きな支障はありますよ。)
少なくとも“妻子と別れて私と結婚して欲しい!”などと取り乱して相手にしがみ付いたりすることは私の場合あり得なかったのである。いや、相手が妻子と別れたいというのは自由だが、私の方はその人と交際は続けても、だからと言って結婚を積極的に考えるということには繋がらないことははっきりと伝えた。
加えて、私は経済的にも十分に自立していた。妻子にお金がかかる相手よりもむしろ独身貴族である私の方が裕福な程だ。貢いでもらう必要など一切ない。 相手が私の自己所有のマンションに時々転がり込めば済む。相手にとってはさぞや都合の良い不倫相手であったことであろう。
ここで、“恋人”と“愛人”の違いについて少し分析してみよう。
男性の立場から女性の不倫相手のことを“愛人”という言葉で表現するのを耳にすることがある。この“愛人”という言葉には“所有物”的なニュアンスがあり私は好まない。おそらく、不倫関係において女性が男性に心理的にも経済的にも依存している場合“愛人”という表現が当てはまるのかと分析する。同様に、女性がうら若き男性に入れ込み、養っているような場合も“愛人”という言葉が適切であるように思う。(私と同年代の某日本人女性作家が韓国の若い男性に入れ込み養っているという記事を新聞で読んだことがある。私もそんなうら若き男性の“愛人”を囲ってみたいようで、何だか羨ましいような…)
私の不倫経験の場合このような依存関係は一切ないため、自分が“愛人”であることを自覚したことはない。あくまでも対等な“恋人”関係であった。(ちっとも自慢にならないけどね。)
本ブログの恋愛・男女関係バックナンバー「サンバクラブリーゼンシー」で綴った出逢いは実は“不倫”だった。あれは私の不倫初体験の時の出逢いの話である。まだ20歳代半ばのことであった。 結婚願望がさほどないとはいえ、まだ若気の至りの私には辛い辛い不倫だった。
当時結婚経験がまだない私にとっては、相手に妻子があること自体がまず耐え難い事実であった。相手の、奥様に対する恋愛感情が既に冷めていることは私にも伝わる。だが、どういう訳か不倫をする男は子煩悩なのだ。(私が経験した範囲では。)子どもに対する愛情が言動の端々から伝わってくる。(実際に定期券入れに子どもの写真を入れているのを発見することもある。)
そして不倫相手である私に対しても無意識のうちに時々父親の愛情で接してくるのだ。通常の恋愛では経験できないレベルの、恋愛を超越しているとも言える包容力のある愛情に絆されてしまう一方で、そんな感情と背中合わせにそのような愛情表現が耐えられなく辛いのだ。誰に対するのか自分でも分析不能な嫉妬心に潰されそうになるのである。
揚句の果てに、結局は相手はいつも家族の元へ帰って行く。所詮手に入らない“愛”であるのが不倫というものである。
勝手なことを綴って参りましたが、妻子の皆様、その節は大変ご迷惑をお掛け致しました。私の場合、ご家族の方々に気付かれぬことを鉄則とし、決して経済的負担もお掛けしておりませんが、ここで改めてお詫び申し上げます。