風景シリーズ 水本爽涼
特別編 その後[7] 「歯談義」
僕が妹の愛奈(まな)を背中におぶって子守をする光景・・これはひと月ほど前に僕が見た夢である。そんなことはあり得ないのだが、どういう訳かそんな夢を見てしまった。現実には出かけるときでも母さんが乳母車に乗せるし、家であやすときも、抱き癖がつくとかで、長時間おぶることはまずなかった。そんな愛奈に歯が数本、生え出したのは、つい最近のことである。
「あらっ! 小っこいのが生えてましゅねぇ~~」
聞くに堪えない赤ちゃん言葉で母さんが愛奈を覗き込んだ。そう感じた背景には、多少の、やっかみがあったことも事実だ。僕は学校から帰って復習を終え、じいちゃんに頼まれた饅頭とお茶を盆に載せて離れへ持って行くところだった。この小事を続けているのには訳がある。持っていけば必ずと言っていい確率で饅頭のお裾(すそ)分けにありつけるからである。要は、持っていけば食べられるということだ。だから、パブロフの犬のように、条件反射的に続けているのだった。
じいちゃんには歯がないから甘いものを食べても虫歯の心配がない。父さんはどちらかというと酒が好きだから辛党なのだが、じいちゃんは両刀遣(づか)いで甘辛党と派手なお方だ。僕は風呂上がりのジュースと少なからず頂戴できる母さんからの菓子だから、完璧な甘党の党首である。党首は偉いのだ。やはり、素晴らしい発想があっても党首とかのトップに登りつめないことには腕の発揮しようがない。あっ! 話が脱線したから元に戻すことにしよう。で、母さんはといえば、あればお相伴(しょうばん)しようかしら・・程度で無所属だ。無所属は無所属で、これがなかなか手ごわい。我が家のキャスティングボートを握っている、と言っても過言ではない。また話が脱線した。今日は、よく話が脱線する日だ。
「歯が生えたそうじゃないか…」
「ええ、そのようです…」
居間の縁側廊下で将棋を指している二人の声がする。僕が風呂上がりのジュースを徐(おもむろ)に冷蔵庫から出したとき、その声はした。ジュースをコップに注ぎ居間を窺(うかが)うと、じいちゃんと父さんが将棋盤を前に話していた。二人の前には母さんが準備したビールとつまみの一品料理が置かれていて、二人はそれを手にしていた。母さんは料理が得意だから二人は幸せ者だ。もちろん、僕もである。諄(くど)く言うようだが、愛奈は好きなだけ母さんのミルクを飲み、好きなだけ垂れ流していればいいのだから料理にはまだ関係ない。
「いいのう…。うらやましい話だ。わしにも生えればのう」
いや、いやいやいや…それは無理だろう、と僕はコップのジュースをグビリと飲みながら思った。
「そうですね…」
父さんは、さすがだ。上手く往(い)なして、じいちゃんをあしらった。飲んでいても防御の電磁バリアは張っているのだから大したものだ。まあ、その父さんも、たまに雷を頂戴されるのだが…。
「正也、早く寝なさいよっ!」
「うんっ!」
家事を終えた母さんが浴室へと消えた。歯に衣(きぬ)着せず言われることは必ず決まっていて、僕にも電磁バリアは備わっているから、いっこう堪(こた)えない。
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