残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《剣聖③》第六回
井上は二人が加わった姿を見届けると、暗黙の了解で首を縦に振った。他の者は二人ずつ組んで交互に打ち込んでいるが、左馬介と組む長谷川だけは床へ座して待っていた。
稽古場へと入ってきた二人は二(ふた)手に別れた。鴨下は隅の床へと座す。一方、左馬介は側板に設けられた刀掛けより竹刀を取り、長谷川と対峙する位置まで歩むと神前に向かい一礼した。そして長谷川にも一礼して座すと、防具をつけてふたたび立ち上がった。後はいつもの組稽古となった。鴨下は以前、左馬介がそうしていたように、座したまま稽古を観望するのみである。今朝は珍しく獅子童子が場内の片隅に居て、例の蕪(かぶら)顔で背の毛並みをゆったり上下させ熟睡していた。そのことは、幻妙斎の身近な存在を物語るのだが、門弟達は誰もが無頓着である。唯一人、中央前方に立ち稽古の様子を監視する井上だけが気を張りつめていた。井上は獅子童子の姿に気づき、先生は近い…と、意識したのである。だが、それ以上のことはなく、暫くの間、いつもの稽古風景が展開された。その時、奇妙な出来事が起こったのである。獅子童子が俄かにキッ! と、眼(まなこ)を開け、老猫とは思えぬ俊敏さで場内から走り去った。この異変を見ていたのは、氷結して立つ井上と、氷結して座す鴨下であった。