とある高級酒店へ寄った矢川(やがわ)に、ふと昔の記憶が甦(よみがえ)った。かなり以前の記憶で、夜も更けたスナックのカウンターに矢川は座っていた。
『安ものなら、いくらでもありますよ。それで、よろしいか?』
『ああ、ともかく今日は飲みたいんだっ! 適当に作ってくれっ!』
『矢川さん、何かあったんですか?』
『ああ、まあな…』
会社の労働争議に巻き込まれた中間管理職の矢川は、会社と社員達の板ばさみに合い、身動きも取れないまま、ショボい気分でスナックへ入り、注文したのだった。
注文を受けたマスターが出した酒は、どういう訳か実に美味(うま)かった。
『これ…美味いな』
『安ものシロップのジン・ライムです…』
矢川がそんな回想を巡っていると、女店員が奥から出てきた。
「ジン・ライム、ない?」
無意識で、矢川は注文していた。
「ジン・ライムですか? ジン・ライムでしたら、こちらになります…」
女店員が誘導(ゆうどう)し、示した棚(たな)に並んでいたのは、高級ジン・ライムの瓶(びん)だった。
「いやっ! こうゆうんじゃないんだっ」
「えっ?! どういった?」
「シロップだよ、シロップ!」
「シロップ? そういう安ものは当店では扱っておりません…」
上から目線の、めかし顔で、さも上品を気取って返した女店員の言葉に、矢川は思わずムカッ! とした。
「いやっ! もういいですっ!」
吐(は)き捨てるように小さく言うと、矢川は足早(あしばや)に店を去った。
人が要求する注文は、なかなか他人には理解しづらい。
完
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