沙希は今朝もパタパタと鏡台で化粧を始めた。数年前から両目尻にカラスの足跡とか言われる細い皺(しわ)が目立つようになっていた。それを隠そうと、工事的にパタパタと叩(はた)くのだが、一向に成果は得られなかった。もちろん、種々のクリームなどの化粧品は試していた。だが、効果がないと分かると、最近の沙希は鏡台に座るのもテンションが下がるのか、億劫(おっくう)になっていた。鏡台に座る回数は減ったが、座ればパタパタは、その都度、激しさを増した。
「お前な…」
夫の智也はそんな沙希に、塗らなくても…と言おうとして、思わず口を閉ざした。言ってはいけない禁句のように思えた。これで、「今夜はスキ焼にするわ!」と、快活に言われた夕飯がフイになっては、たまったものではない…と思えたからだ。そうはいっても、皹(ひび)割れしそうな厚化粧は、どう考えても智也には馴染まなかった。いや、むしろ悪寒(おかん)がした。智也は素っぴんの方がまだいい…と、思った。
あるとき、偶然にも二人で街へ出ることになった。
「店の前まででいいから…」
「んっ? いいよ。ついでにブラッとしようか、久しぶりに…」
ここ数年、そんなことを夫から言われたことがない沙希は、内心、嬉しかったから、言葉を聞いたあと、ニッコリと無言で頷(うなず)いた。智也はそんな沙希を見て、しまった! よけいなことを…と思ったが、もう遅い。その半時間後、二人は車で走っていた。沙希はルンルンで、智也は……気分である。その低いテンションに輪をかけたのが、沙希の厚さ数ミリの厚化粧だった。そんな厚顔を見たくない智也はサングラスをかけて出た。
「あら? 珍しいわね…」
沙希は一瞬、訝(いぶか)しげな表情を浮かべた。智也としては、お前の顔な…とは言えない。
「最近、ちょっと目が弱って、眩(まぶ)しいからな」
智也は我ながら上手く言えた…と満足しながら、沙希を横目に見てアクセルを踏む。スピードを上げ過ぎたとき、運悪くパトカーに見つかった。
『前の車、止まりなさい!』
仕方なく、智也は道路の片側へ車を止めた。警官が降りてきて、免許証の提示を求め、違反切符を切った。
「…注意して下さいよ。では…!」
警官はなにを思ったか、沙希の顔を見て大笑いした。沙希としては自分の顔を見られて笑われたものだから、面白くない。
「あらっ! なにか!!」
「いえ、失礼しました!」
警官は必死に笑いを堪(こら)えながら敬礼し、パトカーに乗ると走り去ったが、その一分後、電柱に激突し、停止した。智也には、なぜかその訳が分かった。で、笑ってはいかん! と思え、身を引き締めた。
「行きましょ!!」
沙希の鼻息はなぜか、荒かった。
THE END