地下鉄(メトロ)は走っていた。幸い、列車内は鮨(すし)づめ状態ではなかったが、それでも混むことは混んでいた。堀田はそんな車輌の中ほどで、新聞を片手に吊革を持ちながら揺られていた。最近はどうも目が霞(かす)むことが多い・・と紙面を遠ざけると案の定、文字が鮮明に見えた。そろそろ老眼鏡か…とテンションを下げたとき背後から肩を二度、指で軽く突かれた。誰だ! と、すぐ振り返ったが、後部に人が立つ気配はない。両横には同じサラリーマン風の男がいたが、後ろには誰もいなかったはずだ…と堀田は思った。やがて駅ホームへ車輌が滑るように減速して停止した。自動ドアが開くと同時に乗客の数人が降り、ホームにいた数人が乗り込んできた。堀田は誰か知り合いが・・と乗降客を注視したが知った顔はなかった。まあ、いいか…と、その場は軽く忘れることにした。
会社へ着き、いつものように仕事が始まった。昨日の続きの書類に目を通していたとき、突然、背後から指で軽く二度、肩を突かれた。堀田はすぐ振り返った。なんだ、お前か…と思った。同僚の牛川が笑顔で立っていた。
「これ、頼むよ。ラストだ!」
手渡された書類は最終審査で決定された結果だった。
「ああ…、やはりな。よし! 広報へ回しとくよ」
堀田は書類に目を通し、笑顔で頷(うなず)いた。俺の予想通りだ…と思えた。そのときふと、堀田の脳裡に今朝の光景が浮かんだ。待てよ…確か、あのときも軽く二度、肩を…と思った。
「どうした?」
「んっ? お前…いや、なんでもない」
「じゃあ、頼んだ」
牛川は自席へとUターンした。堀田はそんな牛川の遠ざかる姿を見ながら、そんな訳はないか…奴は車通勤だ、と思った。ただ、指で軽く二度、肩を突かれた・・という偶然の一致が僅(わず)かに心へ余韻を残した。
その後はそういうこともなく一週間が過ぎた休みの日の朝、堀田は街へ買物に出てブラッとするか…と思った。街へ出ると結構、人混みが激しかった。新たに出来た多くのショップを横目に堀田は遊歩道をのんびりと歩いていた。これがショッピングモールか…と思えた。そんなとき、また背後から指で軽く二度、肩を突かれた。今度こそ言ってやろう! と意気込んで堀田が振り返ると、誰もいなかった。もちろん、人の流れは辺りで激しかったが、堀田の背後は無人だった。堀田は、もうどうでもいいや! と思い、ふたたび歩き始めた。そのとき、風がヒュウーと啼くように流れた。目には見えない異次元の何かが通ったような感覚がした。二十年前、急な交通事故で逝った恋人、亜樹の匂いがした。堀田は、そうか…と得心した。
THE END