いつの間にかウツラウツラしてしまって、しくじったか、と私は思った。それで咄嗟(とっさ)の勢いで目覚ましを掴む。昨晩、覚醒のために珈琲(コヒー)を啜ったのがいけなかった。結果として更けても寝つけず、もう朝まで起きていてもいいや…と、投げ遣りな発想に及んだのだが、人間の生理的欲求は妙ちきりんなもので、微睡(まどろ)んでしまったのだ。しかし、この時点では運よく六時前だった。安心して、また微睡む。
叩き起こされたのは凡太(ぼんた)によってだった。無意識でアラームを止めていたのか、空が白々と明るさを主張しているのに、私は目覚めてはいなかった。
凡太は、家(うち)の飼い猫である。今年で三齢になる雄猫だ。ミャーミャーと呼ぶ声は朝の餌を求めていたのだろうが、私にとっては至極幸いであった。彼が目覚ましの代役を立派に果たしてくれたからだが、私には予期せぬことだったのだ。いつもは、それは特に休日の場合なのだが、私がぐっすり寝入っていると、彼もまた眠りのなかにいる。それが、である。
「… …、… …!」
私は硝子窓を両前足の爪で掻きながらミャーミャーと啼く声に、ハッと目覚めた。目覚ましは七時半を既に巡っている。何もかもを半散らかしに、慌しく台所へいく。
「あらっ、貴方…、今日は休みじゃなかったの?」と、威風堂々、家のぬしとでも云った方がいいのではないか、そういうカミさんが私を怪訝に見る。
「… …」
思わず私は停止した時計になった。(アッ!)何のことはない。今日は土曜だった。昨日は…そうだった。土、日の休みだから夜更かしして調べモノをゆったりしていたんだっけ…。
「凡ちゃんの食事やって。今、朝食作ってるから手が離せないのよ」
さっきまで寝室の窓ガラスを相手に爪研(つめと)ぎしていた凡太が、もう台所にうざったい表情で毛繕(づくろ)いしている。このグルーミングという作業は、私の買い求めた指導書によると、猫本来の重要な作業の一つだそうな。家(うち)の凡太も例に漏れず、片脚を上げた妙な姿勢で毛並みをナメナメしている。この仕草が私は好きだ。思わず愛しくなったりもする。
凡太が捨てられていたのは、凍て尽くした外気が肌を刺す、厳寒の夕方だった。その日、私は外套の襟を立てながら勤めの帰路にあった。漸(ようや)く我が家の外灯が見える。疲れからか両脚の運びも気怠(けだる)く、然(しか)もさらっと垂直に落下する砂状の粉雪が、弱く躰(からだ)のあちらこちに纏わりつく。雪は好きだからいいとしても、疲れた躰には流石に冷えはきつい。
玄関へ回ると一つのダンボール箱が置かれている。(誰かの悪戯{いたずら}か…)とも思えたが、兎に角、中を開けてみた。一匹の子猫が蠢(うごめ)いていた。小さくニャ~と愛想を振り撒(ま)く。彼? にしても必死なのだと思えた。局所を確認して彼であり、彼女ではないと判明した。
雪はさらさらと無言に降っていた。
「おい、今戻ったぞ!」
いつもより、やや大きめの声で私は云った。
「お帰りなさい。あらっ? どうしたのよ、それ…」
「いや俺もな、それ訊こうと思って。外に置いてあったんだが…」
「捨て猫? 嫌だわ。態(わざ)と玄関に捨てたりする? 普通」
私は黙ったまま中途半端に頷いていた。
白い蠢く物体は音無(おとな)しく、ナリを潜めている。(雪の落し子か…)そんな淡い思いが、ふと浮かんだ。
「これも何かのご縁だ。なあ、飼ってやろうや、俺が面倒みるからさぁ」
「私は別にいいわよ、猫は嫌いじゃないし」
「じゃあ、これで決まりだぁ。よかったなオイ」
小さく人差し指で突(つつ)くと、またニャ~と可愛く微(かす)かに啼いた。
こうして私達夫婦と、か弱き子猫一匹の生活がスタートしたのである。
名前の由来は、彼が一齢になった頃に遡(さかのぼ)る。それまで名がなかったのか? という疑問に敢(あ)えて答えれば、あることはあった。それも、カミさんの命名、私の命名が、とっ換えひっ換え、実に数度にも及んだのだ。年が一巡りした頃、他愛もないことが理由で、彼は凡太として花々しくデビューすることになった。動作に敏捷性(びんしようせい)が全くない。最初は子猫の所以(ゆえん)かとも思ったが、「ニャ~ニャ~よく啼くわりには動きが鈍いわね」とカミさんが愚痴り、「猫ってのは、そんなもんだよ、なあオイ」白い物体にそうは云ったが、眼と眼が合って彼は「ニャ~」と語るだけで要領を得ない。
「ボーンとしていて風格があるじゃないか、凡太ってのはどうだ?」
「ボンタ? どうかしら…。なんか猫らしくない気もするけど」
「いいじゃないか、凡太。平凡の凡に太るで凡太。我ながらいい名に思える…」
「どうでもいいけど…。この子もさ、いつまでも名無しの権兵衛じゃ可哀相だし…」
「そうだよ、今度こそ決まりだな」
という訳で、彼は凡太となったのである。
彼にはお気に入りの場所がある。その場所というのは、裏側にある庭の一角なのだが、彼はそこが大層ご満悦なのだ。私とカミさんが口喧嘩していると、彼はよからぬ雰囲気を素早に察知して身の逃避を図る。まず間違いがない確率で、その庭の一角にゆたりと坐り、瞼を閉じる。私達の争いが終わると、何故それが分かるんだ? という正確さでまた部屋へのっそり戻ってくる。
去年と同じ厳冬の冬がやってきた。凡太といえば、寒さが気にならぬ風情で、冷気の舞う例の場所に身を委ねている。まあ幾分か、風除けのような凹地だからということもあるのだが、彼がそこに存在している時は、一定の法則めいた[きまり]があることに初めて私は気づいた。彼は四齢になろうとしていた。
ハイテンションの彼は、訳もなくミャ~ミャ~と愛想を振り撒くのだが、ロウのときは、一言も発せず寝入っている。近づくと、気配を察知してスクッと立ち上がり、例の場所へと去ってしまうのだ。つまり、例の場所というのは、彼が安楽を得るのに好都合の場所だ、ということになる。そこでロウをハイにしているかは定かでないが、兎に角、彼はそこへいくのだ。
「…、心地よい場所ですか。それは人にもあるでしょう? 猫だって同じですよ」
凡太が食欲不振に陥ったとき動物病院へ連れて行ったのだが、そこの先生に訊くでなしに云うと、笑いながら先生はそう答えた。
「四齢といやぁ人間なら三十はいってます。まあ、ストレスも出てくるでしょうしね」
付け添えて先生はそうも云ったが、私からすれば、彼にストレスを与えたことはなかったし、彼がストレスを感じているとも思えなかった。
粉雪がまた直下している。上空からサラサラと篩(ふるい)で粉を落とすように…。
凡太は例の庭角に身を委ね毛繕いをしている。幸い雪はかからぬのだが、寒いことに変わりはない。なにせ屋外なのだから。
「あらっ、お隣りのミーちゃんだわ」
カミさんが不意にそう云ったのを私は小耳にした。急いでガラス戸に近づくと、確かに隣りの三毛猫だ。カミさんがミーちゃんと呼ぶのだからそうなのだろうが、それまで私は彼女に一面識もなかった。二匹は何やら猫語でニャゴニャゴとやっている。
「随分、仲がいいじゃないか…」
「あら貴方、知らなかった? 私はちょくちょく見るんだけど」
「凡太もなかなかやるじゃないか、彼女を通わせるとは…」
凡太は白の一毛だが、ミーちゃんは蕪(かぶら)猫といえるフックラした容姿の三毛である。
これが全ての疑問を一度に拭う出来事となった。何のことはない。要は、凡太がストレスを発散していた例の場所とは、二匹のデートの場所だったのだ。ただ、テンションを下げた彼が例の場所に憩ってハイに戻ってきたのを、私が何故なんだと疑問を抱いていたことも、それなら納得がいく。つまりは、ミーちゃんと合っていたのか…、とそう思えて凡太の方をチラッと垣間(かいま)見た。彼は見られたことなど気にも留めず、背をナメナメ毛繕う。
「親の責任ってのはどうなんだろうねぇ…。放っとけば、ミーちゃん孕(はら)んじまうじゃないか?」と私がテレビを観ているカミさんに云う。「仕方ないじゃない。それはそれで…。凡ちゃんが悪い訳でもないし、ミーちゃんが悪いということもないんだから…」と、カミさん。私は、「…」である。
雪が…そう、既に鬱蒼(うっそう)と白いベールで庭は覆われている。いつの間にか、話の主役の凡太は部屋へ戻ってきていて、温風ヒーターの近くで心地よく寝息を立てている。
宅(たく)のミィになにを…ってことにならなきゃいいがなぁ、と私は馬鹿馬鹿しくも思った。世の中、それだけ平和だってことか…、有難く思わんといかんのだろうな…、また私はそう思う。凡太はゆったりと寝入っている。テレビが喚(わめい)いている。カミさんはそれに観入る。ガラス越しの粉雪は深々(しんしん)と庭に降り積もる。
完