私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
日常は買物担当の私は、スーパーなどで行った後、
付近の遊歩道を歩いたりし、周辺の情景を眺め、季節のうつろいを享受している。
本日は最寄駅のひとつの京王線の『仙川』駅の商店街で指定された品物を買い求めた後、
少し遠回りして、近くの公園に寄ろうと思い、音楽専門学校の桐朋学園の隣接している路を歩いたりした。
私は1944(昭和19)年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
そして、この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。
その後、私が1953(昭和28)年の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954(昭和29)年の5月に祖父も他界され、
我が家として大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。
そして1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。
こうした中で、私が小学5年生の頃、付近の国分寺崖に面した傾斜地に、
日本では有名人らしい人が引っ越してきた、と大人たちの間で話題のひとつとなっていた。
この当時の私は、『金子』駅(現・つつじが丘駅)の付近ある小学校から旧街道で登下校したり、
下校時の時は、ときおり遠回りして隣接駅の『仙川』の商店街を歩いたり、
或いはこの中間の田んぼの多い畦道を歩いたりして帰宅したりしていた。
このようなある日、私は田んぼの多い畦道を歩いたりしていたが、
国分寺崖の林の傾斜に寄り道をした。
そしては樹木の多い中で、孟宗竹の竹林が手入れされていなく密集ばかりし、下方に池があり、
池の近くで、独りの老人が難しいそうな顔して、池を見詰めていた。
『あの人が大人たちが噂している有名人かょ・・何か難しい顔しているが・・
だけど孟宗竹は生え放題・・孟宗竹のこと・・ぜんぜん解っていないなぁ』
と私は子供心に内心呟(つぶや)いた・・。
後年、高校生になった私は突然に読書に目覚めて、下校時に『仙川』駅の本屋に寄った時、
店内の壁面に色紙とひとりの老人の写真が掲げられていた。
そして、さりげなく《武者小路実篤》と明示されていたので、
私はあのお爺さんが・・武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)かょ、と気づかされたのである。
私の生家から徒歩で10分ばかりに、武者小路実篤さんが、
《 水のあるところに住みたいという子供の頃からの願いどおり、1955〈昭和30)年、
70歳の時に仙川の地へ居をかまえ、90歳で亡くなるまでの20年間を過ごした 》
と伝えられている。
そして氏の亡くなわれた後、数々の遺品とともに、ご遺族より調布市に寄贈され、
できる限り実篤が暮らした当時のまま保存され、
晩年の20年間を過ごした邸宅(現:実篤公園)の隣接地に、調布市が設立と整備して、
1985〈昭和60)年10月に『武者小路実篤記念館』が開館した、
と私は市報などで知ったりしていた。
私は20数年前に一度だけ訪れたことがあるが、この後は付近を通っても、立ち寄ることはなかった。
そして本日、久々に『実篤公園』に昼の少し前に訪れた・・。
こうした情景だったかしらと思いながら歩いた・・。
あの当時も孟宗竹は鬱蒼とあり、このように整備されておらず、野趣の中、
私は子供心にひとりの老人を見つめていた。
池の中にいる鯉も確かあの当時いたが・・私に興味がなく、あまた雑木の情景に見惚れ、
あの当時の情景に思いを馳せたりした。
過ぎ去った60年近い歳月を思い浮かべても、整備された公園に雑木だけは歳月を超越して、
四季折々のうつろいを私に見せてくれる・・。
ぼんやりと私は眺めているが、毎年同じように季節は巡って来ているように思われるが、
年々歳々 花相似 年々歳々 人不同
という漢詩のひとつを心の中で呟(つぶ)やくように、私は反復したりした。
もとより中国の初唐時代の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が遺(のこ)された詩であるが、
私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の頃に、
小説家・阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏の作品から学んだひとつの詩である。
毎年たんたんと美しい花を咲くが、この花を観賞できる人は変っている・・
私はこのように解釈しながら、人生のはかなさを若き二十歳の時に、
この詩を学びだし、早くも47年の歳月が流れている。
そして、果たして昨年、一昨年の今頃は、或いは来年の今頃は、と思い浮かべても、
せんなきことかしら、と微苦笑したりし、この公園を辞して、自宅に向った。
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日常は買物担当の私は、スーパーなどで行った後、
付近の遊歩道を歩いたりし、周辺の情景を眺め、季節のうつろいを享受している。
本日は最寄駅のひとつの京王線の『仙川』駅の商店街で指定された品物を買い求めた後、
少し遠回りして、近くの公園に寄ろうと思い、音楽専門学校の桐朋学園の隣接している路を歩いたりした。
私は1944(昭和19)年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
そして、この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。
その後、私が1953(昭和28)年の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954(昭和29)年の5月に祖父も他界され、
我が家として大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。
そして1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。
こうした中で、私が小学5年生の頃、付近の国分寺崖に面した傾斜地に、
日本では有名人らしい人が引っ越してきた、と大人たちの間で話題のひとつとなっていた。
この当時の私は、『金子』駅(現・つつじが丘駅)の付近ある小学校から旧街道で登下校したり、
下校時の時は、ときおり遠回りして隣接駅の『仙川』の商店街を歩いたり、
或いはこの中間の田んぼの多い畦道を歩いたりして帰宅したりしていた。
このようなある日、私は田んぼの多い畦道を歩いたりしていたが、
国分寺崖の林の傾斜に寄り道をした。
そしては樹木の多い中で、孟宗竹の竹林が手入れされていなく密集ばかりし、下方に池があり、
池の近くで、独りの老人が難しいそうな顔して、池を見詰めていた。
『あの人が大人たちが噂している有名人かょ・・何か難しい顔しているが・・
だけど孟宗竹は生え放題・・孟宗竹のこと・・ぜんぜん解っていないなぁ』
と私は子供心に内心呟(つぶや)いた・・。
後年、高校生になった私は突然に読書に目覚めて、下校時に『仙川』駅の本屋に寄った時、
店内の壁面に色紙とひとりの老人の写真が掲げられていた。
そして、さりげなく《武者小路実篤》と明示されていたので、
私はあのお爺さんが・・武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)かょ、と気づかされたのである。
私の生家から徒歩で10分ばかりに、武者小路実篤さんが、
《 水のあるところに住みたいという子供の頃からの願いどおり、1955〈昭和30)年、
70歳の時に仙川の地へ居をかまえ、90歳で亡くなるまでの20年間を過ごした 》
と伝えられている。
そして氏の亡くなわれた後、数々の遺品とともに、ご遺族より調布市に寄贈され、
できる限り実篤が暮らした当時のまま保存され、
晩年の20年間を過ごした邸宅(現:実篤公園)の隣接地に、調布市が設立と整備して、
1985〈昭和60)年10月に『武者小路実篤記念館』が開館した、
と私は市報などで知ったりしていた。
私は20数年前に一度だけ訪れたことがあるが、この後は付近を通っても、立ち寄ることはなかった。
そして本日、久々に『実篤公園』に昼の少し前に訪れた・・。
こうした情景だったかしらと思いながら歩いた・・。
あの当時も孟宗竹は鬱蒼とあり、このように整備されておらず、野趣の中、
私は子供心にひとりの老人を見つめていた。
池の中にいる鯉も確かあの当時いたが・・私に興味がなく、あまた雑木の情景に見惚れ、
あの当時の情景に思いを馳せたりした。
過ぎ去った60年近い歳月を思い浮かべても、整備された公園に雑木だけは歳月を超越して、
四季折々のうつろいを私に見せてくれる・・。
ぼんやりと私は眺めているが、毎年同じように季節は巡って来ているように思われるが、
年々歳々 花相似 年々歳々 人不同
という漢詩のひとつを心の中で呟(つぶ)やくように、私は反復したりした。
もとより中国の初唐時代の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が遺(のこ)された詩であるが、
私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の頃に、
小説家・阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏の作品から学んだひとつの詩である。
毎年たんたんと美しい花を咲くが、この花を観賞できる人は変っている・・
私はこのように解釈しながら、人生のはかなさを若き二十歳の時に、
この詩を学びだし、早くも47年の歳月が流れている。
そして、果たして昨年、一昨年の今頃は、或いは来年の今頃は、と思い浮かべても、
せんなきことかしら、と微苦笑したりし、この公園を辞して、自宅に向った。
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