私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝はどんよりとした曇り空となり、9時過ぎから小雨が降りだした。
私は新聞の読み残しを居間で読んでいた時、隣室の台所で家内は皿洗いをしながらラジオを聴いていた。
まもなくひとつの唄声が流れ、途中から思わず私も聴いたりした。
この後、家内は居間に戻り、茶坊主の私は家内にコーヒーを淹れて、
私は煎茶を飲んだりした。
『さっき・・石川さゆりちゃんの『津軽海峡・冬景色』の歌が聴こえたのだが・・
竜飛岬を訪れた旅を思い浮かべてしまったょ』
と私は家内に話しかけたりした。
過ぎし2010〈平成22〉年5月下旬、私たち夫婦の結婚して35年目となり、
記念旅行と称して9泊10日間で北東北地方の青森県の一部を周遊した。
私たちの共通趣味のひとつは国内旅行であり、各地の四季折々を訪れたりしたが、
いつの日にか日本海に面した黄金崎(こがねざき)にある観光ホテルに宿泊して、
海辺にある露天風呂の『不老ふ死(ふろうふし)温泉』の湯に身体をゆだねて、
海上を見つめたい、と念願してきた。
その後は竜飛岬を周遊し、そして八甲連峰の酸ヶ湯温泉、十和田湖の奥地の蔦温泉を廻り、
帰京した旅路となった。
東京駅を特急『こまち』に乗車し、盛岡駅経由で終点の秋田駅で下車した後、
大半は五能腺を走る特急『リゾートしらかみ』で秋田駅から青森駅を結ぶ路線に乗車し、
そして私たち夫婦はウェスパ椿山駅で午後4時20分に下車し、
駅前で待機していた宿泊先の『不老ふ死(ふろうふし)温泉』の送迎バスに乗り込み、
3連泊して、特に打ち寄せる波のまじかにある海岸の露天風呂に身も心もゆだねたりした。
その後、『黄金崎 不老ふ死温泉』の観光ホテルに別れを告げ、
『リゾートしらかみ』で青森駅に向い、 青森駅から電車で津軽半島の海沿いの蟹田(かにた)、
そして終点の三厩(みんやま)津軽腺に乗車した。
終点の三厩駅で下車した後、路線バスで竜飛岬の漁港前まで乗車したが、
竜飛岬近づくたびに、どんよりとした曇り空、そして夜のとばりがまもなく迎える頃も重なり、
住居の殆どはつつましく最果ての集落と感じ、わびしい心情になったりした。
いずれにしても私達は、この地の竜飛崎温泉の観光ホテル『ホテル竜飛』に3日間宿泊し、
周辺を散策する。
このような思いでぼんやりとしていると、ホテルの送迎用の乗用車が近づいてきた・・。
そして、私達は『ホテル竜飛』の3階の中央部にある部屋に通され、
洋上が正面に、彼方に北海道・・と戸惑いながらも明確に観え、
左側には竜飛漁港、そして帯島の美景となっていた。
竜飛崎は、風の岬として多くの人たちから愛称されているが、
私が訪れたかったひとつは、青函トンネルに関して、興味があった・・。
トンネルの工法はもとより地質なども無知な私であるが、
海の底を掘り続け、悪戦苦闘の末、完成させた成果に感動を覚えたからである。
今回の旅の前に、秋永芳郎・著作の『青函トンネル』(講談社)を20数年ぶりに再読したりて、
この当時の前後の青森市、蟹田(かにた)村、三厩(みんやま)村、そして竜飛岬の状況を学び、
各関係者の労苦に感銘を受けたりした。
翌日に『青函トンネル記念館』を見学した後、人影のない広い道を歩き、
竜飛崎の灯台に向っている時、霧雨が降りだしてきた・・。
傘を開きだした時、
♪ごらんあれが竜飛岬(たっぴみさき) 北のはずれと
見知らぬ人が 指をさす
【『津軽海峡・冬景色』作詞・阿久悠、作曲・三木たかし、編曲・三木たかし、唄・石川さゆり】
と聴こえてきたので、彼方の方を見ると、
石碑の前で60代ぐらいの婦人が傘を差しながらたたずんでいた。
私はその方面に歩き出しながら、石川さゆりちゃんの『津軽海峡冬景色歌詞碑』は、
ここだったのか、と理解した。
そして、初期の目的地である『竜飛崎灯台』に向って、
帰路に寄ればよい、と思いながら霧雨から小雨に変る中を歩いた。
岬の高台にある『竜飛崎灯台』は風もなかったが、
見渡す限りの海上を眺めたりしたが、彼方の北海道は小雨でけむり、
かすんで視えなかった・・。
明日が晴れ間になるから、もう一度来よう、
と私は家内に言ったりし、先程の『津軽海峡冬景色歌詞碑』に向った。
人影もない歌詞碑の前にたたずみ、中央にある赤いゴムを押すと、
石川さゆりちゃんの歌声が周辺まで響きわたった・・。
☆右手の人は家内ですが、傘を差しながら土産屋で買った品をビニール袋に入れて持っています(笑)
私はこのような立派な歌詞碑が建てられて、
さゆりちやんは努力のしがいがあったね、と思いを重ねたりした・・。
私は歌手・石川さゆりさんに関しては、熱愛ファンではないが、
少しばかり気になる人である。
私は1970〈昭和45)年に大手企業に中途入社し、
この中の音楽事業本部のひとつの大きなレーベルが外資系のレコード会社として新設され、
私もこの新しいレコード会社に転籍辞令を受けて、やがて私は管理畑のコンピュータ専任者として、
従事したが、制作状況は無知である。
私は歌謡曲関連には、苦手なジャンルであったが、
1974〈 昭和49)年頃になると、『中三トリオ』と称して、
森 昌子、桜田淳子、山口百恵がヒット曲で賑わしていた。
そして、グループとしては、キャンディーズ、その後ピンク・レディーが破竹の勢いの時代であった。
こうした中で、ひとりの美少女がデビューしたが、
他社の歌手であったが、少し気になったのが、石川さゆりであった。
私なりの美少女の基準として、こうした中でひときわ可愛い存在であった。
何かしら風の噂として、森 昌子、山口百恵、石川さゆりは、ホリプロに所属し『3人娘』として売る出す構想であったが、
日本テレビは森 昌子、桜田淳子、山口百恵を『花の中3トリオ』と命名し活躍したが、
石川さゆりは取り残された。
その上にヒット曲に恵まれず、やっとヒットしたのが1977(昭和52)年の『津軽海峡・冬景色』であった。
石川さゆりが、遅咲きでご免なさい、と言った思いで、この曲を熱唱しているように私は聴こえた。
この直後の『能登半島』で第一線の歌手として軌道にのった時、
私はレコードのアルバムを購入した。
過日、レコード整理していた時に、このアルバムのジャケットを見たが、きわだった美少女であった。
その後、私は石川さゆりから、遠ざかったが、
1986〈昭和61)年『天城越え』、1991〈平成3)年『ウィスキーが、お好きでしょう』は魅了されている。
この程度しか、石川さゆりに関しては知らないが、
唄声、しぐさ、そして表情が妖艶となり、齢を重ねた私でも、
さゆりちゃん、と呟(つぶや)きながら、香(かぐわ)しい女性の魅力に心酔させることのできる稀(まれ)な存在である、
と感じたりしている。
この『津軽海峡・冬景色』の歌に関して、
今は亡き作詞家・阿久悠(あく・ゆう)氏が作詞された当時の1976(昭和51)年頃は、
青函連絡船もあり、数多くの人々から利用され、
1988(昭和63)年に青函トンネルが完成し、連絡船は終わりを告げた。
私はたった一度だけ1962(昭和37)年に北海道に修学旅行の時、
津軽海峡を青函連絡船に乗船して、往還した。
上野駅発の夜行列車に乗り、翌朝に青森港から青函連絡船に乗り、
函館が観えた時、やっと北海道に来た、と感動を受けた思いもあったりした。
青函連絡船が廃航路となり、青函トンネルが利用される今日、
ひとつの大きな時代が終わり、多くの人たちに愛惜を重ね、
この中のひとつの心情として、この『津軽海峡・冬景色』の歌は不滅の歌となった。
このように私は思いながら、家内と共にこの歌詞碑から去った。
そして翌日、この周辺を歩いたりした。
9時過ぎに宿泊している観光ホテルを出て、国道でありながら歩道で階段の道を下り、
海岸に近い道路に下り立ち、
歩道を歩き、波除のテトラポットにカモメが群れていた。
この後、作家・太宰治、版画家・棟方志功のゆかりの宿として名高い『龍飛館』に向った。
私が館内で何よりも感銘を受けたのは、
画家・高野元高氏が描かれた『北の浜』であった。
私は絵の世界はまったく判らないが、私なりの感覚として魅せられたのである。
海岸沿いの岩をノミなどの荒い削りで、トンネルを通し、
このトンネルの先は海岸に波のしぶきがかかるような道、
そして彼方に人家がある過酷な厳冬の情景であった・・。
私には、この地を表現された数多くの創作者がいるが、
このたった一枚の絵こそ、まぎれない渾身の作品として、受け止めたのである。
この後、岬に連なっている帯島を観たりし、
ふたたび階段の国道の歩道を上り、灯台を観ながら、展望台の周辺を2時間ばかり散策した後、
宿泊の観光ホテルに戻った。
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今朝はどんよりとした曇り空となり、9時過ぎから小雨が降りだした。
私は新聞の読み残しを居間で読んでいた時、隣室の台所で家内は皿洗いをしながらラジオを聴いていた。
まもなくひとつの唄声が流れ、途中から思わず私も聴いたりした。
この後、家内は居間に戻り、茶坊主の私は家内にコーヒーを淹れて、
私は煎茶を飲んだりした。
『さっき・・石川さゆりちゃんの『津軽海峡・冬景色』の歌が聴こえたのだが・・
竜飛岬を訪れた旅を思い浮かべてしまったょ』
と私は家内に話しかけたりした。
過ぎし2010〈平成22〉年5月下旬、私たち夫婦の結婚して35年目となり、
記念旅行と称して9泊10日間で北東北地方の青森県の一部を周遊した。
私たちの共通趣味のひとつは国内旅行であり、各地の四季折々を訪れたりしたが、
いつの日にか日本海に面した黄金崎(こがねざき)にある観光ホテルに宿泊して、
海辺にある露天風呂の『不老ふ死(ふろうふし)温泉』の湯に身体をゆだねて、
海上を見つめたい、と念願してきた。
その後は竜飛岬を周遊し、そして八甲連峰の酸ヶ湯温泉、十和田湖の奥地の蔦温泉を廻り、
帰京した旅路となった。
東京駅を特急『こまち』に乗車し、盛岡駅経由で終点の秋田駅で下車した後、
大半は五能腺を走る特急『リゾートしらかみ』で秋田駅から青森駅を結ぶ路線に乗車し、
そして私たち夫婦はウェスパ椿山駅で午後4時20分に下車し、
駅前で待機していた宿泊先の『不老ふ死(ふろうふし)温泉』の送迎バスに乗り込み、
3連泊して、特に打ち寄せる波のまじかにある海岸の露天風呂に身も心もゆだねたりした。
その後、『黄金崎 不老ふ死温泉』の観光ホテルに別れを告げ、
『リゾートしらかみ』で青森駅に向い、 青森駅から電車で津軽半島の海沿いの蟹田(かにた)、
そして終点の三厩(みんやま)津軽腺に乗車した。
終点の三厩駅で下車した後、路線バスで竜飛岬の漁港前まで乗車したが、
竜飛岬近づくたびに、どんよりとした曇り空、そして夜のとばりがまもなく迎える頃も重なり、
住居の殆どはつつましく最果ての集落と感じ、わびしい心情になったりした。
いずれにしても私達は、この地の竜飛崎温泉の観光ホテル『ホテル竜飛』に3日間宿泊し、
周辺を散策する。
このような思いでぼんやりとしていると、ホテルの送迎用の乗用車が近づいてきた・・。
そして、私達は『ホテル竜飛』の3階の中央部にある部屋に通され、
洋上が正面に、彼方に北海道・・と戸惑いながらも明確に観え、
左側には竜飛漁港、そして帯島の美景となっていた。
竜飛崎は、風の岬として多くの人たちから愛称されているが、
私が訪れたかったひとつは、青函トンネルに関して、興味があった・・。
トンネルの工法はもとより地質なども無知な私であるが、
海の底を掘り続け、悪戦苦闘の末、完成させた成果に感動を覚えたからである。
今回の旅の前に、秋永芳郎・著作の『青函トンネル』(講談社)を20数年ぶりに再読したりて、
この当時の前後の青森市、蟹田(かにた)村、三厩(みんやま)村、そして竜飛岬の状況を学び、
各関係者の労苦に感銘を受けたりした。
翌日に『青函トンネル記念館』を見学した後、人影のない広い道を歩き、
竜飛崎の灯台に向っている時、霧雨が降りだしてきた・・。
傘を開きだした時、
♪ごらんあれが竜飛岬(たっぴみさき) 北のはずれと
見知らぬ人が 指をさす
【『津軽海峡・冬景色』作詞・阿久悠、作曲・三木たかし、編曲・三木たかし、唄・石川さゆり】
と聴こえてきたので、彼方の方を見ると、
石碑の前で60代ぐらいの婦人が傘を差しながらたたずんでいた。
私はその方面に歩き出しながら、石川さゆりちゃんの『津軽海峡冬景色歌詞碑』は、
ここだったのか、と理解した。
そして、初期の目的地である『竜飛崎灯台』に向って、
帰路に寄ればよい、と思いながら霧雨から小雨に変る中を歩いた。
岬の高台にある『竜飛崎灯台』は風もなかったが、
見渡す限りの海上を眺めたりしたが、彼方の北海道は小雨でけむり、
かすんで視えなかった・・。
明日が晴れ間になるから、もう一度来よう、
と私は家内に言ったりし、先程の『津軽海峡冬景色歌詞碑』に向った。
人影もない歌詞碑の前にたたずみ、中央にある赤いゴムを押すと、
石川さゆりちゃんの歌声が周辺まで響きわたった・・。
☆右手の人は家内ですが、傘を差しながら土産屋で買った品をビニール袋に入れて持っています(笑)
私はこのような立派な歌詞碑が建てられて、
さゆりちやんは努力のしがいがあったね、と思いを重ねたりした・・。
私は歌手・石川さゆりさんに関しては、熱愛ファンではないが、
少しばかり気になる人である。
私は1970〈昭和45)年に大手企業に中途入社し、
この中の音楽事業本部のひとつの大きなレーベルが外資系のレコード会社として新設され、
私もこの新しいレコード会社に転籍辞令を受けて、やがて私は管理畑のコンピュータ専任者として、
従事したが、制作状況は無知である。
私は歌謡曲関連には、苦手なジャンルであったが、
1974〈 昭和49)年頃になると、『中三トリオ』と称して、
森 昌子、桜田淳子、山口百恵がヒット曲で賑わしていた。
そして、グループとしては、キャンディーズ、その後ピンク・レディーが破竹の勢いの時代であった。
こうした中で、ひとりの美少女がデビューしたが、
他社の歌手であったが、少し気になったのが、石川さゆりであった。
私なりの美少女の基準として、こうした中でひときわ可愛い存在であった。
何かしら風の噂として、森 昌子、山口百恵、石川さゆりは、ホリプロに所属し『3人娘』として売る出す構想であったが、
日本テレビは森 昌子、桜田淳子、山口百恵を『花の中3トリオ』と命名し活躍したが、
石川さゆりは取り残された。
その上にヒット曲に恵まれず、やっとヒットしたのが1977(昭和52)年の『津軽海峡・冬景色』であった。
石川さゆりが、遅咲きでご免なさい、と言った思いで、この曲を熱唱しているように私は聴こえた。
この直後の『能登半島』で第一線の歌手として軌道にのった時、
私はレコードのアルバムを購入した。
過日、レコード整理していた時に、このアルバムのジャケットを見たが、きわだった美少女であった。
その後、私は石川さゆりから、遠ざかったが、
1986〈昭和61)年『天城越え』、1991〈平成3)年『ウィスキーが、お好きでしょう』は魅了されている。
この程度しか、石川さゆりに関しては知らないが、
唄声、しぐさ、そして表情が妖艶となり、齢を重ねた私でも、
さゆりちゃん、と呟(つぶや)きながら、香(かぐわ)しい女性の魅力に心酔させることのできる稀(まれ)な存在である、
と感じたりしている。
この『津軽海峡・冬景色』の歌に関して、
今は亡き作詞家・阿久悠(あく・ゆう)氏が作詞された当時の1976(昭和51)年頃は、
青函連絡船もあり、数多くの人々から利用され、
1988(昭和63)年に青函トンネルが完成し、連絡船は終わりを告げた。
私はたった一度だけ1962(昭和37)年に北海道に修学旅行の時、
津軽海峡を青函連絡船に乗船して、往還した。
上野駅発の夜行列車に乗り、翌朝に青森港から青函連絡船に乗り、
函館が観えた時、やっと北海道に来た、と感動を受けた思いもあったりした。
青函連絡船が廃航路となり、青函トンネルが利用される今日、
ひとつの大きな時代が終わり、多くの人たちに愛惜を重ね、
この中のひとつの心情として、この『津軽海峡・冬景色』の歌は不滅の歌となった。
このように私は思いながら、家内と共にこの歌詞碑から去った。
そして翌日、この周辺を歩いたりした。
9時過ぎに宿泊している観光ホテルを出て、国道でありながら歩道で階段の道を下り、
海岸に近い道路に下り立ち、
歩道を歩き、波除のテトラポットにカモメが群れていた。
この後、作家・太宰治、版画家・棟方志功のゆかりの宿として名高い『龍飛館』に向った。
私が館内で何よりも感銘を受けたのは、
画家・高野元高氏が描かれた『北の浜』であった。
私は絵の世界はまったく判らないが、私なりの感覚として魅せられたのである。
海岸沿いの岩をノミなどの荒い削りで、トンネルを通し、
このトンネルの先は海岸に波のしぶきがかかるような道、
そして彼方に人家がある過酷な厳冬の情景であった・・。
私には、この地を表現された数多くの創作者がいるが、
このたった一枚の絵こそ、まぎれない渾身の作品として、受け止めたのである。
この後、岬に連なっている帯島を観たりし、
ふたたび階段の国道の歩道を上り、灯台を観ながら、展望台の周辺を2時間ばかり散策した後、
宿泊の観光ホテルに戻った。
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