私は時折、蓮の花を夢で見かけたりしている。
浴衣姿で田畑の広がった畦道を歩くと、
外れに蓮の水田があり、あたり一面、数多くの蓮の葉が水面から茎を伸ばしている。
そのなかで純白の花色は莟(つぼみ)となったのや、3分咲き、
そして満開となり黄色くなった花床が観られたりしている・・。
そして、著名な作家が私の方に近づいてきて、
蓮の葉で包んだ火薬飯を大事そうに手に持っている。
私は亡くなった作家を敬愛していたので、
貴方はどうして・・、と声を掛けようとしたら、
夢から覚(さ)めたりしている。
私は東京の郊外に昭和19年に農家の子として生を受けた。
祖父、父が中心となり、ある程度の田畑、竹林、雑木林を維持管理していた。
田んぼの外れに半反程度の広さの蓮専用の水田があった。
父、祖父が亡くなる小学生の前半までは、
毎年この時節は幼いなりに楽しんでいた。
7月の下旬に蓮の花は莟となり、8月の初めにお盆を迎えるので、
祖父か父が6本前後採ってきた・・。
私は祖父にねだって、大きな葉をひとつ貰ったりした。
水を少し入れると、水玉になるので、幼児なりに楽しんだのである。
そして泥だらけの中で、
どうしてあんなに白い花が咲くの、
と子供心に不思議となったりした。
お盆の時、仏壇の前に畳一帖ぐらい台を設置し、
位牌の前に、盆棚を置いて、野菜、果物を供えたりしている。
外れに茄子(ナス)や胡瓜(キュウリ)に割り箸で足を付けて、
馬や牛にみたてたりしている。
台の手前は、座布団を敷き、その脇に桶に水を入れ、蓮の葉を浮べ、
淡いピンクのミソ萩を小箒(こぼうき)のように作ったのを、水にしたし、清めていた。
そして台の左右に、この時節の草花を飾り、この中で蓮の花が中核となっていた。
夏休みが終わった頃、蓮の田んぼに行くと、
花が終り、可愛い蜂の巣のような実となっていた。
数週間過ぎた頃、この実を採り、
少しむくとどんぐりのような形の実が出てきて、
食べたりした後、少し甘い香りが残った・・。
やがて蓮の葉が枯れる頃になると、
祖父、父が泥だらけの地中から大きくふくらんだ蓮根を取り出し、
食卓を彩った。
私は蓮(ハス)と呼んでいたが、
後年になると、レンコン、と世間で言ったりしているので、
戸惑いを覚えたりしている。
このような想いでがあるので、
公園などで淡い紅色した華やかな大賀蓮(オオガハス)観かけた時は、
あれは蓮じゃない、
と幼児の思いに還ったりしている。
定年退職後の翌年の夏、
黒羽山の大雄寺の高僧が綴られているのを知った。
【
泥中に生じ汚れなく、幽香を漂わせる蓮の花は、
清浄、柔軟、可憐から、他の植物にはない特徴があることから、
仏教の象徴的な意味を持つものとなっている。
泥の中で成長し根を張り、清楚な美しい花を見せる。
そして、普通の花は、まず花が咲いてから実をつけるものだが、
蓮は花をつけると同時に実を中に詰めたつつみが出てくる。
このことから蓮は、過去・現在・未来を同時に体現しているとされている。
】
こうようなことを綴られている。
私は宗教に関しては興味はないが、
泥の中から茎を出し、純白な花びらを見せてくれるので、
私なりの身過ぎ世過ぎの日常生活を過ごして折、
改めてこうした純白の花を眺めると、
何かしら私の心を洗い清めてくれる随一の花と思っている。
浴衣姿で田畑の広がった畦道を歩くと、
外れに蓮の水田があり、あたり一面、数多くの蓮の葉が水面から茎を伸ばしている。
そのなかで純白の花色は莟(つぼみ)となったのや、3分咲き、
そして満開となり黄色くなった花床が観られたりしている・・。
そして、著名な作家が私の方に近づいてきて、
蓮の葉で包んだ火薬飯を大事そうに手に持っている。
私は亡くなった作家を敬愛していたので、
貴方はどうして・・、と声を掛けようとしたら、
夢から覚(さ)めたりしている。
私は東京の郊外に昭和19年に農家の子として生を受けた。
祖父、父が中心となり、ある程度の田畑、竹林、雑木林を維持管理していた。
田んぼの外れに半反程度の広さの蓮専用の水田があった。
父、祖父が亡くなる小学生の前半までは、
毎年この時節は幼いなりに楽しんでいた。
7月の下旬に蓮の花は莟となり、8月の初めにお盆を迎えるので、
祖父か父が6本前後採ってきた・・。
私は祖父にねだって、大きな葉をひとつ貰ったりした。
水を少し入れると、水玉になるので、幼児なりに楽しんだのである。
そして泥だらけの中で、
どうしてあんなに白い花が咲くの、
と子供心に不思議となったりした。
お盆の時、仏壇の前に畳一帖ぐらい台を設置し、
位牌の前に、盆棚を置いて、野菜、果物を供えたりしている。
外れに茄子(ナス)や胡瓜(キュウリ)に割り箸で足を付けて、
馬や牛にみたてたりしている。
台の手前は、座布団を敷き、その脇に桶に水を入れ、蓮の葉を浮べ、
淡いピンクのミソ萩を小箒(こぼうき)のように作ったのを、水にしたし、清めていた。
そして台の左右に、この時節の草花を飾り、この中で蓮の花が中核となっていた。
夏休みが終わった頃、蓮の田んぼに行くと、
花が終り、可愛い蜂の巣のような実となっていた。
数週間過ぎた頃、この実を採り、
少しむくとどんぐりのような形の実が出てきて、
食べたりした後、少し甘い香りが残った・・。
やがて蓮の葉が枯れる頃になると、
祖父、父が泥だらけの地中から大きくふくらんだ蓮根を取り出し、
食卓を彩った。
私は蓮(ハス)と呼んでいたが、
後年になると、レンコン、と世間で言ったりしているので、
戸惑いを覚えたりしている。
このような想いでがあるので、
公園などで淡い紅色した華やかな大賀蓮(オオガハス)観かけた時は、
あれは蓮じゃない、
と幼児の思いに還ったりしている。
定年退職後の翌年の夏、
黒羽山の大雄寺の高僧が綴られているのを知った。
【
泥中に生じ汚れなく、幽香を漂わせる蓮の花は、
清浄、柔軟、可憐から、他の植物にはない特徴があることから、
仏教の象徴的な意味を持つものとなっている。
泥の中で成長し根を張り、清楚な美しい花を見せる。
そして、普通の花は、まず花が咲いてから実をつけるものだが、
蓮は花をつけると同時に実を中に詰めたつつみが出てくる。
このことから蓮は、過去・現在・未来を同時に体現しているとされている。
】
こうようなことを綴られている。
私は宗教に関しては興味はないが、
泥の中から茎を出し、純白な花びらを見せてくれるので、
私なりの身過ぎ世過ぎの日常生活を過ごして折、
改めてこうした純白の花を眺めると、
何かしら私の心を洗い清めてくれる随一の花と思っている。