私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、思わず微笑をしたのである。
『武蔵野版』の中のひとつの記事であり、
《キユーピー 仙川工場 閉鎖へ 》
と見出しされた記事である。
私は調布市には結婚前後5年を除き、60年間ばかり住む、
私なりにキユーピーの仙川工場には思いでがあるので、精読した。
無断であるが、この記事を転記させて頂く。
《
キユーピーは、調布市の仙川工場(仙川町2)を、2011年3月をめどに閉鎖すると発表した。
半世紀以上にわたって地域に親しまれた老舗工場の閉鎖に、
地元関係者からは惜しむ声が上がっている。
同工場は1951年操業開始。
1961年から始まった工場見学では、製造工程をそのまま見られる点が人気を呼び、
地元小学校の社会科見学を中心に、年間約2万人の見学者を受け入れてきた。
また、季節に合わせて衣装が替わる、工場入り口の特大キユーピー人形も、
通行人らの目を楽しませてきた。
市産業振興課は「『調布を代表する企業』というイメージがあったのに」と残念がる。
同社広報室によると、工場再編に伴う閉鎖で、
同工場で製造していたマヨネーズを茨城、兵庫県の2工場で、
卵加工品を府中市などで製造することになり、年間9億円のコスト削減が見込まれるという。
ただ、跡地は売却せず、グループ内で活用するという。
調布市商工会の原島芳一会長(70)は、
「寂しいが、完全に撤退する訳ではないので、
今後も、良いお付き合いができれば」と話した。
》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
私は調布市で農家の三男坊として、1944(昭和19)年に生を受けた。
そして、1951(昭和26)年の春に地元の京王線の金子駅(現在・つつじヶ丘駅)の近くにある小学校に入学した。
この当時の情景は、駅周辺は商店街があったが、この街を過ぎると、田畑が広がり、
雑木林などで緑豊かな地域であった。
私の生家は金子駅より15分ばかり歩いた処で、
程ほど広い田畑、竹林、雑木林があり、祖父と父が中心となって農業をしていた。
田畑の中に1メートルぐらいの川幅のある小川が流れ、長兄、次兄たちに竹に針を付けたりして、
ときおり鰻(ウナギ)を釣り上げたりしていた。
私は小学校を下校する時、ときおり遠回りして帰宅した。
校門を出て新宿駅方面のひと駅は仙川駅であり、この間の周辺を歩いた。
校門から少し歩くと畑道があり、その先は田んぼのあぜ道であった。
そして前方に丘のように少し切立った国分寺崖があり、この高台に仙川地域となっていた。
この間の田んぼのあぜ道の近くに流れる小川を眺めたり、
或いは崖下の小道を歩き、湧き水を見つめたりしていた。
そして授業の図画の写生の時などで、先生に連れられて、
崖の周辺の丘陵にあった高射砲台の跡地の見晴らしの良い場所で、クレヨンで描いていた。
こうした時代にキユーピーの工場ができたのであるが、
仙川、金子の駅の周辺から15分前後の地域が、次第に都心のベットタウンに変貌するのは、数年後であった。
いつの頃か確かでないが、夕暮れになる頃、
何かもの悲しいが何か先が明るいような不思議なメロディーが、私の家の畑からも聞こえたのである・・。
学校の小学3年の級達とお互いに何だろうなぁ、噂をしていた時、
音楽の女の先生が、
『あの丘陵に建った工場から夕方に流れるメロディのことねぇ・・
あなた達には・・少し難しいけれど・・ ドヴォルザークという作曲家の『新世界』なのょ・・』
と先生は私達に教えてくれた。
『先生・・ドヴォル・・何とか云う人・・難しくて・・解かねぇけれど・・
何となく悲しいようで・・でも、明るいような・・』
と私は先生がかっこいいので、無理に言葉を重ねていた。
その後、周辺は都心のベットタウンと急速に変貌し、田畑が消えうせたのである。
私はキユーピーの工場と聞くと、今でもドヴォルザークの交響曲第9番 「新世界より」 第2楽章を重ねてしまうのである。
そして、今回のキユーピーの仙川工場の閉鎖を知り、私は小学生の頃の情景を思い浮かべたのであった。
http://www.youtube.com/watch?v=ZI-d96nZ-NI
☆ ドヴォルザークの交響曲第9番 「新世界より」 第2楽章 ☆
http://www.kewpie.co.jp/index.html
参照・・キユーピー
a href="http://www.blogmura.com/">
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、思わず微笑をしたのである。
『武蔵野版』の中のひとつの記事であり、
《キユーピー 仙川工場 閉鎖へ 》
と見出しされた記事である。
私は調布市には結婚前後5年を除き、60年間ばかり住む、
私なりにキユーピーの仙川工場には思いでがあるので、精読した。
無断であるが、この記事を転記させて頂く。
《
キユーピーは、調布市の仙川工場(仙川町2)を、2011年3月をめどに閉鎖すると発表した。
半世紀以上にわたって地域に親しまれた老舗工場の閉鎖に、
地元関係者からは惜しむ声が上がっている。
同工場は1951年操業開始。
1961年から始まった工場見学では、製造工程をそのまま見られる点が人気を呼び、
地元小学校の社会科見学を中心に、年間約2万人の見学者を受け入れてきた。
また、季節に合わせて衣装が替わる、工場入り口の特大キユーピー人形も、
通行人らの目を楽しませてきた。
市産業振興課は「『調布を代表する企業』というイメージがあったのに」と残念がる。
同社広報室によると、工場再編に伴う閉鎖で、
同工場で製造していたマヨネーズを茨城、兵庫県の2工場で、
卵加工品を府中市などで製造することになり、年間9億円のコスト削減が見込まれるという。
ただ、跡地は売却せず、グループ内で活用するという。
調布市商工会の原島芳一会長(70)は、
「寂しいが、完全に撤退する訳ではないので、
今後も、良いお付き合いができれば」と話した。
》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
私は調布市で農家の三男坊として、1944(昭和19)年に生を受けた。
そして、1951(昭和26)年の春に地元の京王線の金子駅(現在・つつじヶ丘駅)の近くにある小学校に入学した。
この当時の情景は、駅周辺は商店街があったが、この街を過ぎると、田畑が広がり、
雑木林などで緑豊かな地域であった。
私の生家は金子駅より15分ばかり歩いた処で、
程ほど広い田畑、竹林、雑木林があり、祖父と父が中心となって農業をしていた。
田畑の中に1メートルぐらいの川幅のある小川が流れ、長兄、次兄たちに竹に針を付けたりして、
ときおり鰻(ウナギ)を釣り上げたりしていた。
私は小学校を下校する時、ときおり遠回りして帰宅した。
校門を出て新宿駅方面のひと駅は仙川駅であり、この間の周辺を歩いた。
校門から少し歩くと畑道があり、その先は田んぼのあぜ道であった。
そして前方に丘のように少し切立った国分寺崖があり、この高台に仙川地域となっていた。
この間の田んぼのあぜ道の近くに流れる小川を眺めたり、
或いは崖下の小道を歩き、湧き水を見つめたりしていた。
そして授業の図画の写生の時などで、先生に連れられて、
崖の周辺の丘陵にあった高射砲台の跡地の見晴らしの良い場所で、クレヨンで描いていた。
こうした時代にキユーピーの工場ができたのであるが、
仙川、金子の駅の周辺から15分前後の地域が、次第に都心のベットタウンに変貌するのは、数年後であった。
いつの頃か確かでないが、夕暮れになる頃、
何かもの悲しいが何か先が明るいような不思議なメロディーが、私の家の畑からも聞こえたのである・・。
学校の小学3年の級達とお互いに何だろうなぁ、噂をしていた時、
音楽の女の先生が、
『あの丘陵に建った工場から夕方に流れるメロディのことねぇ・・
あなた達には・・少し難しいけれど・・ ドヴォルザークという作曲家の『新世界』なのょ・・』
と先生は私達に教えてくれた。
『先生・・ドヴォル・・何とか云う人・・難しくて・・解かねぇけれど・・
何となく悲しいようで・・でも、明るいような・・』
と私は先生がかっこいいので、無理に言葉を重ねていた。
その後、周辺は都心のベットタウンと急速に変貌し、田畑が消えうせたのである。
私はキユーピーの工場と聞くと、今でもドヴォルザークの交響曲第9番 「新世界より」 第2楽章を重ねてしまうのである。
そして、今回のキユーピーの仙川工場の閉鎖を知り、私は小学生の頃の情景を思い浮かべたのであった。
http://www.youtube.com/watch?v=ZI-d96nZ-NI
☆ ドヴォルザークの交響曲第9番 「新世界より」 第2楽章 ☆
http://www.kewpie.co.jp/index.html
参照・・キユーピー
a href="http://www.blogmura.com/">