夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

文学、映画、音楽、とりとめなく確かに表現方法は違い、思い重ねて・・。

2023-07-31 11:17:26 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

こうした中で、確か3年前のレコードをすべて処分した中で、
一枚のジャケットが思いだされた・・。




チャイコフスキー交響曲第6番『悲愴』であったが、
私が若き二十歳の時、長兄の友人からプレゼントされたエフゲニ・ムランヴィンスキー指揮で
レニングラード・フィルハーモニーが演奏されたLPレコードを想いだしたりした・・。
        
この当時の私は、チャイコフスキーはロシアからの視線で、

ヨーロッパの伝統に羨望し、たじろいながら、
祖国ロシアの心情を的確に表現された、と感じ涙を浮かべたりしていた。




昨夜、たまたまベートーヴェン:交響曲第9番『合唱』を聴いたりしていた時、
小澤征爾(おざわ・せいじ)さんが指揮で、サイトウ・キネン・オーケストラ であった。

そして聴いている中で、小澤征爾さんが、

若き日にヨーロッパでクラシックが確立した世界に、苦悶している時、
たまたまパリに訪れた作家・井上靖(いのうえ・やすし)さんから、
アドバイスを受けたらしい・・。

日本語は欧米人には理解してくれることは困難であるが、

楽曲は国境を超越して伝わるから・・、
とこのような意味合いのいの言葉で大いに励まされた、
と小澤征爾さんが後年にインタビューで、語っていたことを私は思い浮かべたりした・・。

このようこと突然に思い出されて、目が覚めたのは早朝3時半過ぎであった・・。


確かに文学は、言霊(ことだま)に支えられて、その人なりに文体で発露されて、
映画、写真などは、具体的に写実できる世界であり、
音楽は言葉、写実はないが、旋律(メロディー)で言語、民族など国境を超越する・・。

このようなことを改めて、とりとめなく思い重ねたりした・・。



私の年金生活の午後より、寝付くまでの大半は、







このようにつたない人生航路を歩んできた為か、
ときおりこのようなことも思い浮かべたりすることもある。



余談であるが、高峰秀子・松山善三ご夫妻が、生前の共著の随筆の中で、
デイヴィッド・リーン監督の『アラビアのロレンス』(1962年)の試写会を鑑賞された後、
果てしなく拡がる砂漠のシーンについて、映画しか表現できない、
と記載されていたことに、私は学びながら、同意したりした。
コメント (2)
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