夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

七夕の節句を迎え、私は幼年時代に七夕の飾り、短冊のささやかな想いを馳せて・・。

2023-07-06 16:19:42 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
今朝、ぼんやりと地元の天気情報をテレビで視聴していたら、
朝の6時は22度、昼下がりは32度前後、夕方の6時は30度前後、
梅雨の間の晴れ間となります。

熱中症に注意して、水分補給は充分して下さい、このように私は聴こえて、
微苦笑したりした・・。

そして私は、
本日の散策コースは、近くの都立の『植物多様性センター』、
『神代植物公園』を
散策しょうと思ったりした。

やがて『植物多様性センター』を歩き廻ったりした。













やがて『神代植物公園』に入園して、まもなく園内の案内受け付けコーナの両端に
七夕の飾りが見えたので、微笑みながら、撮ったりした・・。


 
 
過ぎし2018年の7月初旬、この時の『神代植物園』の正門の近くには、
『七夕飾り(たなばた・かざり)』にめぐり逢い、私は思いだされたりした・・。

          

          
私は齢を重ねるたびに、幼年期の頃の出来事を思いだすことが、多くなっている。
こうした時に、幼年時代に七夕の飾り、短冊のことも思いだされる・・。

私は1944年(昭和19年)の秋、東京の郊外で農家の三男坊として生を受けた。

祖父と父が中心となり、小作人だった御方の手を借りながら、

程々に広い田畑を耕していた農家であった。

こうした中で、七夕(たなばた)に関しては、
私が小学生の頃まで、生家の庭の隅に竹に短冊を吊るす慣わしだった。

東京の都心は、もとより全国の各地は『七夕(たなばた)の日』は7月7日が多かったが、
東京の都心郊外の付近の一部の地域に於いては、一ヶ月遅れの8月7日であった。

              

      
               
現在、私の住む周辺は無念ながら竹林がなく、過ぎし8年前、近くの『実篤公園』で撮った一葉。


母屋の宅地に隣接している竹林から、
兄と共に私は、孟宗竹の今年成長した5メートル前後の若竹を一本だけ伐って、
庭の片隅みに兄たちが杭を打ち、安定させていた。

父の末妹の叔母が嫁ぐ前だったので、お正月の小倉百人一首と同様に、
叔母の指導の下で、私は妹のふたりと共に飾りだてをすることが多かった。

こうした毎年過ごしている間、
1952年(昭和28年)の3月、私が小学2年の3学期、父に病死され、
その翌年の1953年(昭和29年)年の5月に祖父が亡くなった。

農家の大黒柱の2人が亡くなり、母と叔母、そして長兄、次兄、私、そして妹の2人が残されたが、
もとより農業の技量、大人の男手を失くしたので、生家は没落しはじめた・・。

          

私は祖父の葬儀が終わった後、学校に行くと、担任の女の先生から、職員室に呼ばれた。 
『XXくん、貴方のお父さん、お祖父(じい)さんも亡くなってしまい、
大変に可哀想と先生は思っていますが・・貴方、男の子でしょう・・
お母さんに心配させるようなことは・・分かっているわよね・・』
と私に言った。

そして
『男の子は、頑張るのよ・・』
と担任の女の先生は、私に握手してくれた。

              

やがて私は、その夏、短冊に秘かに書こうとしたが、少しためらっていた・・。

《 せんせい、あくしゅもいいけど、
              だきしめてほしい・・ 》

叔母や妹ふたりは短冊に何かしら綴っているので、私は本心を書けなく、ためらっていた。
そして私はやむなく、

《 せいせいも げんきで
            ぼくもがんばります 》
と何とか読める汚(きたな)い字で書いた。

短冊を吊るしている時、叔母が、
『どういうことなの・・』
と私に言ったりした。

『何でもない・・何となく・・』
と私は下を向きながら、叔母に答えたりした。

私は小学生の時は、兄ふたりは成績が良い優等生で、
私はいじけた『2』と『3』の多い劣等生で、可愛げもない児であったが、
齢ばかり重ねた78歳の今、それなりに苦(にが)くも懐かしい想い出となっている。

コメント (2)
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