「魚を与えるより、魚の釣り方を教えよ」というのは老子の言葉だそうだが、困っている人を助けるときの重要な教訓として良く知られている。これは個人に対する対応でも当てはまることであるが、大きな組織、特に国のような大きな組織にとって重要なことだと私は考えている。しかし、日本政府は釣り方を教えるのではなく魚を与えるほうに走っている感じがしている。特に、世界の政府の中で日本政府にその傾向が強いと私は感じている。
老人の生活が苦しくなれば年金を与える。保育所が不足だと言われれば保育所を作る。IoTで出遅れていると言えばIoTに研究開発予算を付ける、といったように国民や日本の業界で困っていることがあれば直接的にその解決策を与えようとする。国民が求めるのは直接的な解決なので、それを与えるには予算がかかる。アベノミクスでも金融政策でお金を供給するとか、公共投資を増やすとかいった直接お金を出すことはうまくやるが、成長戦略はうまくいかない。日本政府の借金が世界一積み上がっているのもこの姿勢の結果ではないかと考えている。
例えば保育所不足を例にとると、保育所に補助金を出すというのは「魚を与える」ことに相当していると私は考える。「釣り方を教える」とは保育所が工夫すれば利益を出せるように規制緩和をすることだと思う。例えば主婦同士での子供の一時預かりをビジネスとして成り立つようにする、というようなことである。このようなことを許可すると、素人が参入するのでトラブルが出やすい。それが出ないようにするために保育所に関して様々な条件を付けている。それが保育所が増えない理由になっていると言いたいのである。これを規制緩和しようとすると一番反対するのは既存の保育園である。「自分たちは規制をクリアして苦しい条件でやっているのに、それを緩めるのはけしからん」というわけである。こういうことを書くとこの提案に反論を言う人が出てくるが、例として出しただけで私は主婦同士の子供の一時預かりを強く主張しているわけでは無い。
ほとんどすべての分野で新しい方式で効率よくやろうとすると、既存の業界が反対する。それで政府は規制緩和に向かわずに補助金を付けるという方向に向かうのだろうと思っている。しかしこれを繰り返していては、本質的な問題解決にはならず、財政赤字が増加するだけである。
こういった政策を決めるのに政治家は国民に直接的な効果を見せたいので「魚を与える」方向に走りやすいと私は考えている。それを「釣り方を教える」方向に向かわせるのは官僚の仕事だろうと私は考えている。最近、この官僚の質が下がってきている感じがしている。私はこれは権力の亡者である小沢一郎氏が「政治を官僚から国民の手に取り戻す」といって、人事権を振りかざして素人である政治家が官僚を圧迫したことが影響しており、その姿勢は自民党に政権が戻ってからも続いていると感じている。
官僚に中には骨のある人もいる。しかしどういう人を出世させるかで官僚の意識は変わる。官僚が「自分たちが国を動かす」という意識が持てなくなり、政治家の顔色を窺うようになっては国は劣化するばかりだと思う。重い責任を負わされて大変な激務であるにもかかわらず、給料はたいしたことは無い(そこそこ高いが大手の社長よりはかなり安い)。定年後の天下りなどを楽しみにしていたのだが、それは厳しく禁止されている。これでは官僚という仕事に魅力がなくなり「国を背負っておこう」というような意識のある人が官僚から離れてしまうと思う。
以前にも書いたことがあるが、私は世間全体が官僚に厳しすぎると感じている。もっと官僚を魅力のある職業にして行かないと「税金を使って魚を与える」官僚ばかりになって国はますます劣化していくのではないかと危惧している。私の比較的接点の多い総務省の通信行政に関する官僚に関していうと、21世紀に入ったあたりからどんどん小粒になってきている感じがしており、先々はますます心配な状況になってきている。
優秀な官僚をどうやったら育成できるかという議論が必要な時期に来ていると思う。
保育所に関して言えば、無認可保育所でも、近所の子供を預かった場合でも、子供に何か問題が起きれば、「自己責任」と投げるのが米国流。役所が枠組みを作って、公認や許認可さらに助成金を絡めて、役所としての監督を強化する事、国民がそれを期待して責任を取らせようとすることは表裏一体です。
官僚達も、逃げ回っているわけではなく、問題意識のある人はそれなりの仕組みを考え、社会として機能する様に目指していると思います。但し、日本の場合はマスコミが、すぐに役所のあら捜しをして指弾するのがネックです(役所だって、良いことはたくさんやっているはずなのに、それをニュースとして取り上げれば、御用紙とさげすまれるのが問題)。
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もう一つ、優秀な官僚の処遇は大切で、或るグループには終身雇用的な保証が必要と思います。但し、それはごく一部の人達であり、それ以外の人達は民間並みで十分と思います。勤務条件にしろ、退職後の処遇にしろ、「その他の公務員」のレベルが恵まれ過ぎと思います。
公務員の場合で人事考課が徹底せず、又評価が難しいのかもしれないが、学校を卒業して就職した時点の成績や序列、出身校ランキングが、そのまま何十年も持続されるのは、まったく実情にあっていません。
どんなに人事考課の仕組みをうまく作っても、どうしても「お手盛り」的な考課になり、原資が不足すれば、税金で補てんするという文化を変えるのは並大抵ではないと思います(橋下徹さんが色々と苦労した内容をマスコミで発表していますが)。
だからこの問題は、もっともっと議論を深めると同時に、政治主導で、かつ、世論をうまく導くような人物が出てこない限り、成果を上げるのは難しいですね。マックスウェーバーが官僚制の弊害を説き始めた頃から残念ですが変わっていないと思います。
戦後70年も経ち、新聞やテレビの影響力が減少した現在においては「戦後教育」の影響が薄れ「愛国心」を取り戻した若者が官僚にも増えているという印象を受けますが、事務次官の世代には未だに「戦後教育」が色濃く残っているように感じます。(件の前川氏のような人物が事務次官だったというのが現実です。)
財務省も外務省も良い仕事をする人はいるとは思いますが、結果から見ると財務省は「財政均衡主義」であり、外務省は「対外事なかれ主義」です。これらは戦後教育の集大成である現在の事務次官世代の影響だと考えています。
但し、何を目指すのかは、どこかで何らかの論議と開示が必要と思います。
例えば、財務官僚を目指す場合、単年度主義に陥らず、国家数十年の計を考えれば、財政均衡を目指すのか、もしくは成長を目指すのか、それに伴う税設計をどのように考えるのか?
さらには少子高齢化に対してどんな層が、どの様な負担をしながら、持続的な国家の運営を図るのかは大切な点です。
沢山の情報とデータベースを掌中にする官僚が、それらの課題を認識しながら、具体的な予算に反映し、その実施状況を見ながら見直して、中期的な国家計画に反映する。もちろん、政治家との折衝は大切なポイントですが、そもそも国家の中枢を担おうとする官僚を目指す人達には、そんな荒波、試練や課題を乗り越えるだけの資質を持ち、それに対する権限、処遇が与えられていると思います(理想的には)。
又、UCS-301さんが指摘するような短期的な財政均衡主義者や事大主義者に陥らないような仕組みが各省庁の中核には維持されていると私は信じています。
大きな志で入省しても、やがて挫折して、事大主義に陥る人間がいたり、もしくは政治家という立場で国家のデザインを目指す人がいるのも事実です。それでも続々と中央官庁の高級官僚を目指す人が続くのを期待します。
世田谷の一隅様のご意見で、「短期的な〜仕組みが各省庁の中核には維持されている」ということは残念ながらないと思います。それは省庁の人事構造として出世で残ることのできる人が極端に少なくなるためです(最終的には事務次官1名です)。つまり省内で主流の考え以外は排除されるということです。
現在では内閣府が奮闘して、各省庁の旧弊を正していると思っています。加計学園問題もそうですが、どう考えても獣医学部を増やそうとした内閣府側に分があります)。もう一方の京都産業大学は、これ以上獣医学部を増やしたくない獣医学会の意向を、それこそ”忖度”して自ら引いているだけです。(そもそも、現職の内閣総理大臣に友達が多いのは当たり前だと思います。)
私は、答えの用意されたペーパーテストで一番良い点をとった人が高級官僚(最終的に次官)になる制度に疑問を持っています。
官僚というのはどういう仕事をする職場なのか、どういう人材が必要なのか、どういう処遇を受けるのか、といったことが重要だと思います。
現在の官僚システムには問題も多いですが、現実に日本を動かしていることは間違いないでしょう。彼らは入省した時は高い理想を持っているかもしれないが、仕事を続けていくうちに、変わってくる人も出てくるでしょう。私は特に「これが自分の限度だ」と感じた人が守りに入ると思います。そういう人がかなりの割合でいることはどこの職場でも同じでしょう。
その一方で国のことを本当に考えている人も官僚の中にはかなりの人数がいると思います。会社の役員でもそうですが守りに入る人が7割、志を持ち続ける人が3割という感じではないかと思います。政治家でも同じような割合ではないかと思っています。
どういう人を重要な地位に置くかは政治家が官僚の評判を聞いて決めることができます。
政治家の質によって官僚の質が大きく左右されるので変な人材登用をする政治家を選ばないことが重要ですが、選挙ではそこまでは分からないでしょう。
国民の声として、昔ならマスコミ、いまならそれにインターネットを合わせたような場で国民が声を上げることが重要だと思います。
UCS-301さんの加計学園問題の認識は違うと思います。京都産業大学が身を引いたのではなく、獣医師会が、複数の獣医学部に強く反対したために、山本大臣が、「近くに獣医学部がないこと」という条件を付けて京都産業大学を落としたのです。本人がそう発言していました。
官僚の件でも色々と言葉足らずでしたが、個人個人ではなく組織の構造に問題があるということを言いたかったわけです。今の組織体系では一つ(一人)の意見しか残らないことが問題だと思っています。一般的な割合が、官僚の世界では維持されません。キャリア官僚は出世する人しか残れないし、残れなかった人が「天下り」をするということです(良いとこ無しです)。
試験のやり方については、(ペーパーかどうかは問題ではなく)「答えありきの試験」自体に疑問を持っています。これも思想に偏りが生じる一因です。極端な意見を言えば「叩き上げ」が良いと思っています(ノンキャリアの次官は過去いなかったと記憶しています…)。
つまり、成績が良ければ、それに見合う対価(収入)が増えることで、その成果を分けることができます。極端な場合、成績優秀な人ばかりであって、それに見合う成果(利益)が上がれば、配分ができます。ところが利益が上がらなければ配分は当然減ります。このような状態が続けば、企業としては、そこに多くの人員を配置することが難しくなり、事業の淘汰が進みます。(顧客や社会が成果を評価しない事業の縮小です)。どんなにお手盛りの評価をしても最終的には社会・市場の評価があります。
ところが官僚、公務員の場合は、この様な「社会。市場の評価」が及びにくい状況です。
従って、官僚、公務員の評価は、その上に立つ「選挙によって選ばれた政治家」が予算総枠と人事権を理由に配分する事になると思います。それを断行できる政治家を選べるかどうかは選挙民の問題です。
途中に色々な試験や資格を設定して「フルイ」にかけることも一案です。「公平感」だけでは組織が硬直化します。活性化の為には抜擢も必要です。それでも最終的には政治家の判断に任せる仕組みが一番と思います。