今回は、前回のゴール「三の鳥居」からのスタートです。
山道もあるので、折よくみつけたウォーキングツアーに参加して☆
「三の鳥居」から先が門前町になります。
鳥居を過ぎた所に、「二つ橋」
嘗ては2枚の板を渡した橋で、この辺りは大変賑わっていたそうです。
江戸時代、此処は高札場であったといわれています。
門前町に入ると、「〇〇坊」「先導師△△太夫」などの看板や講名を
刻んだ玉垣を巡らした 歴史を感じる構えの宿坊が建ち並んでいます。
江戸時代には、宿の玄関先に講名を記した「板まねき」や
「布まねき」が掲げられて、大変な活気を呈していたそうです。
玄関の軒に江戸時代の駕籠があったり・・ 奉納された獅子の石像(坂東三獅子の1つ)
先導師はもともと大山で修行をしていた修験者で、戦国時代には後北条氏と結び付き
僧兵の性格を持っていたため、その力を危惧した徳川家康に下山を命じられました。
山を下りた修験者たちは全国各地を歩き大山講を作り、御師(おし)となって盛んに
大山詣を勧めました。 それが江戸時代の大山詣の隆盛に繋がっているようです。
御師らが参拝者のために設けた宿坊が、現在の旅館のルーツといわれています。
「阿夫利神社社務局」
大山寺別当八大坊の下屋敷跡で、司法行政を行った場所です。
毎年8月末に行われる秋季例大祭では、阿夫利神社下社から社務局へ神霊を
神輿で担ぎ下ろす遷幸祭(「お下り」)と 下社へ戻す還幸祭(「お上り」)が行われ、
神楽舞(倭舞・巫女舞)が奉納されます。
(パネルより)
10月の火祭薪能では、300年の伝統を誇る「大山能」「大山狂言」が行われます。
(パネルより)
「勝海舟神社」
戦後 東京・洗足の海舟別邸「洗足軒」内の祠が道路改修で撤去されるに当たり、
阿夫利神社祇官 権田直助と嘗て交流があった縁で 此処に遷されたとか。
「あたご滝」バス停の近くに、「愛宕社&愛宕滝」
1717(享保2)年 永福町の鎮守として祀られたお社。
滝は、元滝・大滝・良弁滝と並ぶ禊の滝です。
沿道の左右に、大山講の歴史を感じながら・・
「良弁滝」バス停の近くに「開山堂&良弁滝」
「開山堂」は、大山を開いた良弁僧正ゆかりの御堂です。
堂内の正面に43歳の良弁僧正坐像、右に猿が金鷲童子を抱いた像、
左に姥大日如来像が安置されているそうです。
高さ3m94cmの滝は、入山した良弁僧正が最初に水垢離を行った場所とか。
「大山良弁図(部分)」
五雲亭貞秀 筆
バス道に沿って左の細い道が、嘗ての参道。
「豆腐坂」
暑い盛りに、参拝者たちが豆腐を掌にのせて歩きながら食べ
喉を潤したことから、「豆腐坂」と呼ばれるようになったといいます。
舗装されてはいますが、往時の雰囲気が感じられるいい道です。
「市営第二駐車場」を過ぎて、
右は階段道の「こま参道」、左は川沿いの「紅葉坂」。
「紅葉坂」の途中で、左手の橋を渡ると
「涅槃寺(茶湯寺)」
浄土宗
故人が成仏したことへの御礼として、没後101日目に家族や親族が当寺に
参拝するという民間信仰「百一日参り」が伝わっており、この茶湯供養を行うと
死者の霊に会えるといわれています。 また、この百一日参りの道筋で
故人に似た人に会ったり似た声を聞いたりするという言い伝えがあるとか。
本尊は釈迦涅槃像で、茨城・大洗海岸で漁師の網にかかったと
伝わる身丈164.5cmの寄木造の御像。 江戸時代の作。
境内の地蔵尊像
光背に十字が刻まれているように見えるところから
隠れ切支丹ゆかりの像かといわれているそうです。
見たところ はっきりとはわかりませんでしたが・・
合流した「こま参道」を歩いて行くと、
「八意思兼神社(追分社)」
祭神は思想・思考・知恵を司る思兼(おもいかね)神で、記紀神話の高皇産霊神の子。
天照大神を岩戸の外に誘い出すための知恵を授けた神さまだそうです。
江戸時代には前不動堂があり、この先は女人禁制だった(日中に限り大山寺まで許された)とか。
ここからの参道が 右手の男坂と左手の女坂に分かれるところから、「追分社」とも称されます。
「女坂」 「男坂」
ここから、いよいよ山道に入りますが、一応女子ですから・・
当然 「女坂」を登って行きま~す☆
(続)
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