先日 ウォーキングツアーに参加し、鎌倉の「なかのみち」の一部を歩きました。
ガイドさんの説明を聞きながら6km余のウォーキングは、なかなか楽しい体験でした☆
まずは、配布されたレジュメで「なかのみち」の概要から;
頼朝時代の鎌倉は湿地帯が多く、急激な人口増に対応して住居地や道を
確保するため大規模な工事が行われ、順次整備がすすめられていきました。
江戸時代以降、各地から鎌倉に至る道は「かまくらみち(または鎌倉街道)」と
呼ばれるようになりますが、『吾妻鏡』をはじめとする当時の文献に見られる
鎌倉への道は、東海道・中路・下道・武蔵大路などの名称で記載されています。
かまくらみち(推定)
どの道も、のちの開発・整備によって現在それを特定するのは難しいようですが
今回は、1189(文治5)年 源頼朝が奥州合戦のため畠山重忠を先陣とする大軍を
率いて通ったと『吾妻鏡』に記載されている「水堰橋~笠間」までを歩きます。
「水堰(すいせき)橋」
「なかのみち」の鎌倉側の入口は不明とされています( 「巨福呂坂切通し」
又は 「亀ヶ谷坂切通し」であっただろうという説もあるようですが・・)が、
小袋谷川に架かるこの橋が「なかのみち」の出発点とされています。
近世では「とつかみち」と呼ばれるようになります。 このように、時代と共に
「とつかみち」「うらがみち」などと呼称が変わり、ルートも少しずつ変化しながら
近世から現代へと「道」が続いてきているようです。
橋の傍に
観音像の道標には「享保12年」の銘。 石柱の字は「せゐ志くはし」と読めます。
「せゐ志く」→「すいせき」かな?
「亀甲山 法得院 成福(じょうふく)寺」
鎌倉で唯一の浄土真宗のお寺
創建: 1232(貞永元)年
開山・開基: 北条泰次(泰時の子)
本尊: 阿弥陀如来立像
一切経の校正に携わった親鸞聖人は、寺前の道を一向堂へと通ったとか。
泰次は天台宗の僧でしたが、のち親鸞に師事し「成仏」の名を貰い改宗。
寺の裏山の「亀甲窟」
泰次が籠って修行したといわれます。
境内の庚申塔群
墓地には、「寅さん」の御前様 笠 智衆氏のお墓もありました。
「厳島神社」
小袋谷の鎮守
創建:不明 昭和初期に三社を合祀
祭神:市杵島姫命 橘姫命 応神天皇
鳥居の横に、石造庚申塔
舟型の塔で、「寛文10年」の刻銘。
表面の文字は風化のため判読不能。上部にキリク(阿弥陀)・サ(観音)・サク
(勢至)の種子。 阿弥陀三尊の種子が刻まれた庚申塔としては、鎌倉最古の
ものとか。 以前は「水堰橋」北側にあったものが、移されたのだそうです。
「離山」交差点の傍に、「離山富士見地蔵尊」
堂内の説明書きには;
「昔この山の頂に古い塚が13ヶ所ありました。元禄の頃、山上に
石地蔵が建ち、以後この山を地蔵山と呼ぶようになりました。」と。
関白近衛房嗣の子 道興准后(1430-1527)の『廻国雑記』には;
「はなれ山といえる山あり まことにつづきたる尾の上も見え侍らねば
朝まだき 旅立つ里のをちかたに その名もしるき 離れ山かな」 と。
当時この付近は沼地だったため山麓沿いに道が通り、地蔵山・長山・越山の
三山続く山並みを「離れ山」と言ったそうです。 のちに、開発で山は削られ
なくなりましたが、現在でも数メートルの段差が見られるとのことです。
「富士見」の名から、嘗ては富士山が見える場所にあったことがわかります。
(続)
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