伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

文鎮と財布

2019年05月27日 | エッセー

  今月22日付朝日から抄録。
 〈6万円の恩人に「お礼言えた」 沖縄の高校生、記事きっかけに再会
 那覇市の高校生が市内で航空券代をなくし、途方に暮れていた時、連絡先も聞かず現金6万円を渡してくれたのは、見ず知らずの男性だった。後日、「お金を返してお礼が言いたい」と新聞記事で呼びかけると、埼玉県の男性と判明。21日に沖縄で再会した。なくした財布は別の駅で保管され、6万円は手元に戻ってきた。崎元さんはお金を返し、「直接お礼が言えてほっとしています。自分も困っている人に声をかけられるような人になりたい」と語った。〉
 殺伐たるニュースが溢れる中、心温まる報道であった。だが、もっと心を引きつけられた記事があった。同日の琉球新報から抄録。
 〈おじの葬式に参列するため、那覇空港に向かう途中で財布をなくした沖縄工業高校2年の崎元颯馬さんが、貸し主の猪野屋博医師と再会を果たした。崎元さんは猪野屋さんに6万円を返し、手作りの文鎮をプレゼント。猪野屋さんは「もう無くさないでね」と言って新しい財布を送った。〉
 6万円の返却は単なる金の貸し借りだ。貸した、返した。それで終わり。わが琴線に触れたのは「手作りの文鎮」。利息代わりなどといってもらっては困る。それに「新しい財布」である。この粋な計らいは決して小言代わりなどではない。この美談の核心はこれではないか。
 20世紀初頭、フランスの社会・文化人類学者のマルセル・モースが提唱した「贈与論」によれば、モノを与え返すのは敬意を互いに与えることにつながるとされる。他者を受け入れ、集団間の戦いを防ぐためだ。だから贈与に対する返礼義務を怠ると、集団内で権威や社会的な地位を失う。さらに興味深いのは、この世にある全てのものの真の所有者は神々や霊であり贈り物には霊的な力が宿るとされてきたことだ。施しの原点はそこにあり、現代の社会制度を賦活させる駆動力として期待を寄せた。
 モースは贈答文化を論じているのではない。それは早とちりだ。そうではなくて、人間社会の成り立ちについて語っている。──被贈与者が贈与者に対して感じる反対給付義務は「この世にある全てのものの真の所有者は神々や霊」であることに発する。だから返礼義務をネグレクトすると「真の所有者」からの報いを受けざるを得ない。──オカルティズムではない。西洋の叡智が捉えた人間性についての鋭い一洞見である。してみれば、返礼義務は他の生物には見いだせない紛れもない人間の属性であり、人間のみが成し得る振る舞いということになる。ならば、贈与を受けて反対給付義務を感じない者は人類学上人間ではない。そうなる。もちろんモノだけの贈与ではない。生を享けたこと自体、すでに大いなる贈与だ。その意味で贈与は否応なく一方的にはじまる。育まれ、教えられ、励ましを受け、叱咤され、さまざまな出会いの中で形なき精神的な贈与もふんだんに受ける。贈与は物心両面に亘る。かつ反対給付は贈与者当人である必要はなく、モースが「施し」といったようにむしろ第三者に返礼されることで贈与と返礼のループは無限に廓大していく。
 返礼を東洋の徳目にパラフレーズすると「報恩」となろう。「反対給付義務への不感」は「忘恩」であり、悖徳とされる。死語に近い「恩」ではあるが、人類の発生以来洋の東西を問わず人間性のコアでありつづける。
 「手作りの文鎮」は返礼義務の象徴である。返“金”義務の追銭ではない。そんなものが琴線に触れるはずがない。第一、不等価にちがいない(たぶん)。「自分も困っている人に声をかけられるような人になりたい」と高校生は語った。「第三者に返礼」である。「新しい財布」は「贈与と返礼のループ」が駆動を始めた象徴だ。この爽やかな「美談の核心」には当今憎悪の無限ループに陥っている世のありさまに対する痛打がある。そう観たい。 □