伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ガードレールと初期設定

2019年05月12日 | エッセー

 〈中学生だったころ、ひとつの大きな謎を抱えていた。なぜガードレールは歩道の外側にあるのか。
 当時「交通戦争」と呼ばれた時代で、まだ歩車道を別つブロックもなく、白線が引かれただけの道路が大部分だった。もちろん歩行者でしかなかったわたしは、ならばなぜ道路の端にそれを作るのか、むしろ歩道を区切る白線上に設置すべきではないか、と引っ掛かっていたのだ。
 長じて、謎は解けた。あれは歩行者ではなく、車を守るための設備なのだ。撓んで衝撃を吸収し、かつ車が道路から飛び出さないような構造になっている。さらに自ら車を運転するようになってからは、もしも歩道の白線上にあれば走りにくく返って危ないと得心するようにもなった。まことに身勝手なものだ。
 だが、やはりガードレールは合点が行かぬ。「車社会」という転倒のスタンスが車をガードするレールを生んだにちがいなかろう。車にも命は乗っているが、歩行者も命だ。どちらが交通弱者かは言うまでもない。歩車道の完全分離ができない以上、ガードすべきは弱者ではないか。〉
 11年10月の小稿『ガードレールの謎』から引いた。「交通戦争」から半世紀余を経て、「『車社会』という転倒のスタンス」は歩行者寄りに随分スタンスを移してきた。しかし、まだアポリアのままだ。
 字引には「ガードレール等の道路用防護柵の設置の主目的は、進行方向を誤認した車両の路外逸脱防止、車両乗員の傷害や車両の破損の最小化、逸脱車両による第三者への人的・物的被害の防止、車両の進行方向復元である」と記され、第三者への被害防止はプライオリティが低い。認識は未だそのあたりに止(トド)まっている。
 〈警察庁の栗生俊一長官は9日の記者会見で、大津市で8日に起きた保育園児死傷事故に関し、「諸外国に比べ歩行者が犠牲になる割合が非常に高いのが実情だ」と述べ、通学、通園路のガードレール整備などの歩行者安全対策を関係機関と進める考えを示した。〉(5月9日、産経ニュース)
 ガードレール必要論があちこちで持ち上がっている。もちろんそれはそうなのだが、肝心なのはその設置位置だ。如上の拙稿で述べた点である。早い話、歩道の外側では歩行者にはなんの意味もないのだ。現に、大津の事故現場の対岸にある歩道では外側にガードレールが設置されている。この場合、「木を見て森を見ず」の方が望ましい。欲をいえば、警察庁長官には微に入り細を穿つコメントがほしかった。老婆心ながら、必要論のピットホールには気をつけたい。
 今回、保育畑に長い荊妻は意外な反応を示した。コースが悪いという。保育士が適切に配置され注意を怠らなかったとはいえ、なぜあえて交通量の激しい道を選んだのか。そう宣うのだ。園長を号泣させたメディアスクラムの罪科は赦しがたいが、ふむ一理ありそうだ。
 で、内田 樹氏の次の言葉が浮かんだ。
 〈堤防が決壊したあとに、濁流から鮮やかに逃れる超絶的な能力よりも、堤防の「蟻の穴」をみつけて、そこに小石を差し込んで、洪水を起こさないようにする配慮の方がより武道的です。人類史のほぼ全期間、人間は災厄を事前に感知する力を高めることで、生き延びてきました。「武道的」な生き方の方こそが、もともとは人類の初期設定なんです。「武道的」でなくても生きてこられたここ半世紀ほどの日本の方が人類史的には例外なんです。でも、残念ながら、もうそういう時代は終わりつつあります。僕たちは来るべき時代に備えて、「初期設定」に立ち返る必要がある。僕はそう考えています。〉(「武道的思考」から抄録)
 高齢者による逆走、歩行者の乱横断、煽り運転などなど、少なくとも路上では「『武道的』でなくても生きてこられた」時代は明らかに変容しつつある。現今、路上は魑魅魍魎が跋扈する太古のジャングル状態と化している。「『蟻の穴』をみつけて、そこに小石を差し込んで、洪水を起こさないようにする」という「人類の『初期設定』に立ち返る必要」こそが喫緊の要事である。ハードではガードレール、ソフトでは「武道的初期設定」──。双方が問われている。 □