伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

漁業を潰すな!

2019年01月05日 | エッセー

 昨年12月8日未明、まるでパールハーバーを準るように改正漁業法が成立した。奇襲擬きの強行採決であった。朝日はこう伝えた。
 〈首相が「70年ぶりの抜本改革」と力を込めた漁業法改正案。企業の技術や資本を生かして、漁業を「成長産業」へ転じるのが狙いだが、現場の漁業者からは「海や漁村の荒廃を招きかねない」と懸念の声も上がる。
 主な柱は、船ごとに漁獲量を割り当てる資源管理の導入と、養殖・定置網の二つの漁業権の「地元優先」枠をなくすことだ。後者には、漁業への企業参入を促す狙いがある。
 沿岸で養殖などを営むのに必要な漁業権の免許はいま、地元漁協などに最優先で与えられている。歴史を踏まえ、「沿岸の海を使い、守るのは地元」という了解があったからだ。
 「古い仕組みが企業に参入をためらわせていた。漁協でも企業でも、きちんと漁場を使う人に権利を与えるための改正だ」と水産庁は説く。〉(抄録)
 「漁業権の『地元優先』枠をなくすこと」、これが問題だ。否、最大の禍根である。戦前は漁業権が売買されたり担保にされていた。金満大地主が漁民の足元に付け込んで漁業権を買い占め、漁民が一転安賃金の雇われ漁師に成り下がる。そんな悲劇が相次いだ。それでは漁業が守れない。戦後4年目、漁業権の貸付、売買を禁止する「漁業法」が成立した所以である。それをまた解禁するという。全人口の0.12%、15.3万人(17年現在)の漁業従事者は大手企業や外資の雇われ漁師に成り下がるリスクに直面する。風前の灯火を荒々しく吹き消すつもりか。極小勢力では票田に値しないと切り捨てるのか。それでいいのか。
 農業と漁業は第一次産業の双璧である。ただし、決定的な違いがある。それは肥飼料コストがゼロであることだ。太古の狩猟採集そのものではないか。巻き網で掬い上げた万余の鰯のうち、漁師が育てた鰯が一匹でもいるか。一匹残らず大海が育んだ鰯である。漁業には飼育コストは一銭も掛かっていない。基本はそうだ。当今養殖は2割を占めるが、環境悪化などにより減少傾向にある。漁獲による魚の飼料は大海原にあり、人為はまったく介在しない。その意味で鉱物資源に近い。放牧は今や人間のアンダーコントロールにある。第一、広さが桁違いだ。肥料は農業の生命線であり、自然栽培は試験官程度の試みでしかない。
 だからこそ、漁業権はダイバシティが織りなす大海原の“飼育力”を享受する海の入会権である。まさに自然の恵みを享ける特権である。万年、千年スパンで育まれてきた海の恵みをせいぜい1年ベースの当期利益を至上とする民間企業に預けていいものか。そんなことより、プラゴミ対策を考える方がよほど生産的だ。
 ヒトの誕生を250万年前とすると、農業を始めたのが1.2万年前。人類史の0.005%に過ぎない。農業ではなく意外にも、ヒトはその歴史の99.995%を狩猟採集で生きてきたわけだ。ヒトの祖型は農業時代ではなく、狩猟採集時代に形づくられたとみていい。ユヴァル・ノア・ハラリは、
「サピエンスは、種のほぼ全歴史を通じて狩猟採集民だった。私たちの現在の社会的特徴や心理的特徴の多くは、農耕以前のこの長い時代に形成された。」(『サピエンス全史』から)
 という。現代の物理的豊かさに相反する疎外感や鬱などの心理的不適合はそこに起因するのではないかと問いかけている。さらにこう語る。
「古代の狩猟採集民は、知識と技能の点で歴史上最も優れていた。平均的なサピエンスの脳の大きさは、狩猟採集時代以降、じつは縮小したという証拠がある。狩猟採集時代に生き延びるためには、誰もが素晴らしい能力を持っている必要があった。農業や工業が始まると、人々は生き延びるためにしだいに他者の技能に頼れるようになり、『愚か者のニッチ』が新たに開けた。」(同上)
 農工業のお陰で厳しい生存競争に自ら直面することなく、能なしでも生き延びられる隙間が増えた。『愚か者のニッチ』とは手厳しい。ましてや脳が縮んだとは、いやはや。
 ともあれ、現代に唯一残るといっていい狩猟採集の営みである漁業は人類の人類たる属性に関わる産業である。市場原理に委ねていいものでは断じてない。国政を会社経営と同一視する『愚か者』に『ニッチ』を与えてはなるまい。 □