伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

悲劇の人

2019年01月18日 | エッセー

 巨星堕つ、故梅原 猛氏は『水底の歌』にこう綴った。
 〈特別な人は、死んでも再びこの世に生き返ってきた。そういう特別な人のみが神に祀られたのであった。特別な人とは、どういう人間か。日本では、神になる人は、いつも恨みをのんで死んでいった人間ばかりである。藤原広嗣、崇道天皇、菅原道真、平将門、崇徳上皇など、すべて、悲劇の人であった。そして私は聖徳太子も大国主命と共にそういう人間であることを明らかにした。今また、柿本人麿もそうだという。〉(抄録)
 朝廷に反乱を起こし鎮圧された藤原広嗣、暗殺事件への関与で皇太子を廃された早良(サワラ)親王(崇道天皇)、有能を嫉まれ讒訴により左遷された菅原道真、東国独立で朝敵とされ討ち取られた平将門、保元の乱に敗れ讃岐に流された崇徳上皇。「すべて、」才あり立志の末に潰えた「悲劇の人であった」。秀吉、家康よりも、信長に衆目が集まるのはその悲劇性ゆえであろう。絶頂、あるいはその直前に斃れる。そこに言い知れぬドラマツルギーを仮託してきたのが日本人である。つまりは日本人の琴線に最も強く触れるのだ。
 元祖スー女であり、元横審委員であった内館牧子氏は大相撲を「摩訶不思議な格闘技」であるという。それは、① 神事 ② スポーツ ③ 伝統文化 ④ 興行 ⑤ 国技 ⑥ 公益財団法人 の「相容れ難い六つの要素」が混在しているからだとする。
 大きく括ると、① ③ ⑤ と ② ④ ⑥ の2群に別れよう。双方はアンビヴァレンツである。アンビヴァレンツでありながら混在するところに大相撲の「摩訶不思議」があり、魅力がある。女人禁制は① と④ のフリクションであろうし、“ルール内なら勝てばいい”と“横綱らしい勝ち方”が整合しないのは② と⑤ の鬩ぎ合いかも知れない。貴の乱は③ と⑥ の敢え無い勘違いだったといえなくもない。ともあれ截然たる区分を要求するのはガキの理屈だ。しっかりと腰を割って双方を受け止める。それが大人の知恵ではないか。してみれば、白鵬は② を優先して① を忘れたのであろうし、稀勢の里は② は差し置いて⑤ に殉じたともいえよう。
 武蔵丸以来18年ぶりの日本人横綱は絶頂に達したと同時に涙を呑んだ。出身地の牛久市長までが泣いた。共感はあっても非難は聞かない。なぜか──。「悲劇の人」は琴線に触れるからだ。こればかりは白鵬には叶わない。記録はやがて破られるが、記憶は共有され永く生きつづける。 □